鉄道員(ぽっぽや)のレビュー・感想・評価
全70件中、1~20件目を表示
偉大なる映画人たちが遺した功績に思いを馳せる
東映時代の高倉健さんを全盛期とする人もいるだろうが、それ以上に「君よ憤怒の河を渉れ」「八甲田山」「幸福の黄色いハンカチ」以降の、任侠映画のスターからイメージを脱却してからの健さんに、最近は更なる魅力を感じる。「夜叉」も最高に痺れますが、今作も何度だって観てしまう引力が溢れています。今は亡き健さん、降旗康男監督、坂上直プロデューサー、そして今年鬼籍に入られた志村けんさんの姿も確認することができる。ある意味、とても静かな作品だが夢のようなひと時を味わわせてくれる。
見るタイミングによって
タイトルなし(ネタバレ)
機関車が走って行く風景は、ため息が漏れるほど美しかった。星5つ。
映画としては、正直私は全然響かなかったし、違和感や気持ち悪さを拭えないまま終わりました。口移しのシーン(キスではなく口移し)で残念ながら嫌悪感マックスに。いや、分かりますよ、雪女の昔話は子どもの頃大好きだったし、何度も繰り返し読んでましたから。あの独特の雰囲気、たまらなく魅力的だし、映画作品としてやりたいことは分かるのですよ。でもねー小説ならいいけど実写は厳しいよね…全体的に、作り手の、老齢男性の独りよがりなロマンというか妄想という印象が強かったです。
愚直なまでに、頑固に職務を全うする高倉健さんはカッコよかったです。国鉄の実際の鉄道員がどうだったかは分かりませんが、医者や消防士などを思えば現代も共感できることは大いにあり、特別な職業でなくても、誰かのための滅私は美しく尊いという感性は、はき違えることさえなければ非常に大切なものだと思います。
ところで、なんでこんなに風景が美しく感じられるのだろうか?
結論から言うと、やっぱり自分は、侘び寂びにグッと来てしまっている…気がする。
日本の蒸気機関車1号は英国から輸入したと記憶していますが、届いた時は簡易塗装だったようです。つまり「マットな黒」。子ども向け番組の機関車トーマスを見れば分かりますが、英国の機関車はカラフルな塗装でエレガントな装いのものが多く、黒はどちらかというと戦時中の財政難だった頃のスタイル。英国としては、正式な塗装はそちらでどうぞ、ということだったのでしょうが、日本は黒が正式なものと勘違いした可能性はあります。
そこで、映画の機関車を、英国式のカラフルな車体に置き換えて想像すると…
あ、あれっ?なんか違う。
(作品中では黒以外の列車もありますが、錆びたような渋い色合いで、華やかさはありません)
降りしきる真っ白な雪に黒い機関車という組み合わせは、生活に必要な移動手段としての素朴さがありながら、どこか厳かで、閉ざされていて、神秘的。ずっと見つめていたいカットが、たくさんありました。
あと、特筆すべきはだるま屋のおかみさんですね。かなり良かったです。
走馬灯 雪子。しずえ。 そしてどうして高倉健の元妻の江利チエミの歌が・・🤔?
定年間際の高倉健(乙松)さん ―
鉄道員一筋の人生を送ってきました。
早まった幌舞線の廃線と、失業の肩叩きが、実直で不器用な彼を追い詰めています。
広末涼子さん ―
先日は交通事故を起こし、現場ではご本人、奇妙な行動だったとか報道されていました。
また元夫のキャンドル・ジュンさん(=わが町松本の出身)との結婚劇とか、
なぜか早稲田に入学したものの通学はせず、出産で中退したエピソードとか。
話題には事欠かないタレントさんですね。
僕は実は、彼女のたいへん独特な雰囲気が嫌いではないのです。
それでニュースを見ながら、出演作としては真っ先に思いついた本作「ぽっぽや」を改めて、20年ぶりに鑑賞してみたわけです。
はたして、ドラマの流れや、共演する他の俳優さんたちの雰囲気の中で
広末涼子は少しだけ場違いなフィーリングをかもしている。違和感がある。だから目を引く。
半分どこか浮いている存在で、広末の雪子はそこに映って居ます。
恐らく彼女の生来の異風なところ=「周囲の状況に馴染まない姿」が、「半分あの世の存在である雪子という設定」にはピッタリだったのではないでしょうか。
「幽霊だって言ったらおとっさん怖がるかと思って」
「どこの世の中に娘を怖がる親がいるものか」
今回、2度目の鑑賞です。
前回は、僕は単に雪子の登場に熱い涙を流すばかりでした。僕もまだ若輩でしたから。
しかし今回は僕は健さんの年を超えています。
半年後に定年退職という切羽詰まった状況も一緒です。
娘が音沙汰ないというのも一緒だなぁ(苦笑)。
働いた末、
雪の中に倒れて、
遠のく意識の中で、
その走馬灯の光の中、
死が迫る中に、臨終の老人には真の思い出ばかりでなく理想化して脚色されたストーリーや、そして“せん妄”も起こるかも知れません。
6年生の雪子に口移しでコーヒー牛乳を飲ませてもらう普通ではないあのシーン。
幽霊の雪子が 更に亡くなったしずえに重なって見えてしまう幻覚。
脳の血流が途絶えてゆく中では仕方ない事だが、我々だってその時には例えば好きだった元カノや前妻の名前を呼んでしまう事もあるだろう。
(=高倉健の前妻江利チエミのテネシーワルツが敢えて執拗に流れる演出の意地悪は、今回初めて気づいた点)。
本作、人の臨終を、本人の視点で、銀幕上に丸ごとすくって語っていたのです。
だからこそ、そんな老人の終わり方をば労って、旧知は周りで温かく見守ってやりたい、
「ご苦労だったね」と伝えてあげたいのです。
そういう優しい眼差しの映画でした。
幌舞駅は終点駅です。
その先はもう無い。線路はそこで途切れている。
そのような終着駅のあり様と老人の不器用な立ち姿が、
時代遅れの粗末な駅舎の容貌にただ重なって見えるのでした。
思うに、
走馬灯のように人生の過去を振り返りながら
消えゆく意識の中で、雪の上に倒れながら、男高倉は112分間「己の来し方の《幻》を見ていた」のではないだろうか・・
映画は、亡くなった俳優たちに会える不思議な魔法です。
送り号の汽笛が、誇り高き先達に捧げられて
雪原にこだましていました。
・・
元特養ホーム職員、
看取りは任せて下さい。
中高年を泣かせるための映画
公開当時は、結構いい映画だと思いました。
でも今観ると、70代の高倉健さんが30代前半から定年直前までを演じていて、かなり無理があると感じました。首とかシワシワですものね。
広末涼子さんが20歳くらいで出ています。
志村けんさんも出ています。
田中好子さんも出ています。
泣いたけど、中高年を泣かせるための映画ですよね。
過去一泣いた。概ね原作どおり
家族の葬式くらい泣きました…。
すぐに原作買って読みました。
若干の相違があって面白かったです。
全体の雰囲気ですが原作が「ある鉄道員に起きた不思議な出来事」で、映画が「鉄道員・佐藤乙松の一生」といった感じでした。違いを上手く説明できませんが、高倉健かそうでないかの違いくらいかと思います。
(でも原作の乙松もかっこいいと言われてた)
また原作ラストの、仙次や同僚たちが雪子の霊を死神なんじゃないかと囁くシーンはカットされており、大団円にして終わらせたいという意図を映画には感じました。
雪子の存在自体は乙松しか確認しておらず、乙松が死に際に起こした奇跡ともとれるし、死に際に見た都合のいい妄想ともとれるところが、ファンタジーを認めない人々にも受けいれ易くてよいのではなかいかと思います。
それにしても広末涼子が美人すぎる。
また細かいところでは雪子の持っていた人形のタイプが違いました。
また志村けん氏が演じた臨時工やその遺児・敏行は映画オリジナルのキャラクターでした。
しかし後に引き取った婦人が営む「だるま食堂」は「だるま屋」として原作にありました。一度だけ出たワードから話を広げており、関心しました。
敏行の存在は当時の情勢や、炭鉱の危険性を表しており、佐藤夫妻の人生模様を肉付けしただけでなく、子どものいなかった2人にとって救いになったでしょう。本当に良い設定だと思います。
乙松の出棺のときに、実の息子のように可愛がった敏行や、仕事仲間としても深い関わりのあった秀男(仙次の息子)が棺を運んでいるシーンは、子どもはいなかったが人に恵まれたと言った乙松の一生を表しているようで、涙が止まらなくなりました。
全体を通して不快に思う登場人物がおらず、それぞれが丁寧に描かれており役者さんの演技もあって、皆好きです。
皆が皆この作品を観て泣くわけでは勿論無いですが、貰い泣きしやすく、また個人的に佐藤夫妻に若干共感するところがあり、私は後半から泣きっぱなしでした。主人公が皆に見送られながら死ぬところも私好みのラストなのかもしれない。
静枝が亡くなって乙松が静かに泣くシーンと、敏行の門出のシーン(立派になったなぁとなぜか親目線)と、女の子の正体が雪子だとわかったシーンと、乙松がホームで倒れているシーンとその後の出棺のシーンで泣きました。
同じ人いるかな。
不思議の国の広末涼子
言わずと知れた作品、ではありますが、こないだ泣きに行こうと再鑑賞したので笑 レビューを。
原作は浅田次郎の40ページ前後の短編。世界観としては、昔の「世にも奇妙な物語」の感動パート、あるいは藤子不二雄のSF(少し不思議)短編と言ったところでしょうか。当然直木賞作品ですから、小説においては文体含めてそれを流麗に伝えるのですが、映画とするには短すぎる作品でした。そのため、かなりの割合をモノローグが占めており、構成としては冗長感もあります。途中は飛ばしてもいいくらい笑。
しかしその中で、目線、台詞、所作の一つ一つで、積み重ねた年月の重さを嫌がおうにでも感じさせる高倉健。語られ尽くされていますが、これでもう泣いてしまう笑 この映画は6割が高倉健。2割は北海道の美麗な風景。1割は小林稔侍。と言ったところでしょう。
さて、残りの1割である、広末涼子についてここでは話します。私は広末涼子の2個下の世代。同世代の方はわかると思いますが、学校に行けばみんなが広末、広末、広末。体感しないと分からない感覚ですが、んまぁとにかくすごかった。時代と一体化している人独特の、再現性のない輝きを持っていた人でした。
今ではさまざまな役を経験して、役者さんとしてのキャリアを確立させていますよね。ところがこの頃は、売れたら売れるがまま、アイドルやって歌やってドラマも出て…
特にドラマの中ではアイドル売れした人独特の「しんどみ」みたいなものがあったのも事実だと思います。人物設定が薄い、「ひたすら広末っぽい人」みたいな役ばっかり与えられてて現実味がなかった部分も大きいと思いますが。まぁ、アイドルだからね〜、と、当時10代なのにジジイみたいな達観を抱いていました笑。
その、現実味のない広末涼子。
いいんですよね、この映画においては。
山奥の小さな駅の、たった一人の駅員かつ駅長の、孤独の象徴のような古ぼけた駅舎に突然現れ、なぜか優しくしてくれる少女。透き通った笑顔の裏にどこか陰を感じさせ、何か秘密を抱えていそうな謎めいた少女。台詞と台詞の間の表現も、どこか儚く、消えてしまいそうなニュアンスを孕んでいます(実際消えるのですが)。
出番としては10分もあったかどうか、なのですが、物語のクライマックスで強烈な光を放ち、あっけなく消えていきます。この眩さがあるからこそ、消えてしまった後の高倉健の喪失感が際立つ。そして一気にエンディング。この一瞬の締めくくりの鮮やかさが、「寂寞」というこの映画の醍醐味を作っています。
失礼ながら、少し演技が上手い、そこそこの役者さんのキャスティングでは、こうは行かなかったと思うんです。まさしく広末のキャスティングあってこそ生み出したダイナミズム。
当時の広末涼子自身の非現実的な輝きを、現実には起こり得ないファンタジー映画とクロスオーバーさせて、見事に真空パックしてしまった。これがこの映画の、ある種他に真似できないところだと思うんです。
考えてみれば、雪子だって人格形成の前に亡くなってしまった、全くもって透明な存在なわけですよね。皮肉抜きにですが、細かい人格描写の文脈やお作法がある人にはこの役は務まらなかったかも知れません。
今では本当に若手の演技派女優さんも増えましたし、見る側の私としても目が肥えてきている部分もあると思いますが、それでもこれを見るたびに、なんか広末普通にいいなぁ、と素直に感じますね。それはこうした一回性によるものなのかも、と思いました。
科学が進歩して
さいはてのローカル線にて・・・‼️
北の果ての終着駅で、雨の日も雪の日も業務を続ける駅長・佐藤乙松。一人娘、雪子を亡くした日も、最愛の妻を亡くした日も駅に立ち続けた乙松。そんな彼のもとに女の子が三人、続けざまに遊びに来たことから、やさしい奇跡が起きる・・・‼️この女の子たちが雪子の化身だと分かったとき、胸の奥から優しい感動の波が押し寄せ、その余韻がラストの乙松の死まで感動を盛り上げる、いわゆるファンタジーですね‼️黒い制帽と制服で一人ホームに立つ健さん‼️ホントにサマになってる‼️雪景色の中を走る列車‼️そして娘の愛と乙松の娘への愛‼️そんな映画ですね、この作品は‼️回想場面をモノクロにして部分的に色をつけるという技法で、美しい雪景色を映し出す木村大作さんの撮影も素晴らしいし、もう一人のけんさん、志村けんさんの演技も印象的‼️
●降旗康男監督『鉄道員(ぽっぽや)』(1999) 神保町シアターさ...
●降旗康男監督『鉄道員(ぽっぽや)』(1999)
神保町シアターさんにて特集上映「一度はスクリーンで観ておきたい――忘れられない90年代映画たち」2024年6月29日(土)~8月2日(金)にて。
久々のスクリーン鑑賞。
高倉健さんの出演作は名作ばかりですが、特に本作は後期作品群では指折りの名作ではないでしょうか。
雪深い最北の終着駅にたたずむ佐藤乙松の立ち姿が、そのまま高倉健さん本人の生き様とオーバーラップして、一つひとつの何気ない所作が涙を誘います。
実生活での健さんとの親密さが画面からも滲み出る小林稔侍さん、公開当時これ以上ない娘役のキャスティングであった広末涼子さん、これが映画初で唯一の出演となった志村けんさんも名演でしたね。
個人的には健さんが江利チエミさんの十八番「テネシーワルツ」を口笛で吹くシーンが一番グッと来ましたね。
因みに劇中で「鉄道員(ぽっぽや)も二代で終わりか…」と言っているが、三國連太郎さんが国鉄職員、健さんがその息子を演じた『大いなる旅路』(1960)と世界線が繋がっていると思っているですが…どうでしょうか。
何度観ても泣ける名作ですね。
あの頃の広末は、、、
北海道の健さんは永遠だ
やっぱりつまらん
...............................................................................................................................................
鉄道員の高倉健が若い頃に子供を失った。
そして嫁までも病気で死んで、仕事で死に際にも会えなかった。
らーしむの子を居酒屋の人が引き取って育てたりしつつ、
広末が出て来て、実はそれが死んだ娘だった。
...............................................................................................................................................
高倉健が嫌いなわけではないんやが、彼の映画って本当に退屈。
渋い男の役が多いんだか何だかわからんが、とにかく理解しにくい。
この映画も何が何なんやらようわからんかったわ。
ってか、幽霊かよ!ってな突っ込みもあるしね。
しかも何で死んだ人が歳を取って行ってるんだか。
ファンタジーなのか?
昭和の時代なら面白かったかも
全体に「あ、感動させに来てるな」と思うシーンの連続。
不器用だから、という理由で妻や娘の死に目に立ち会えず黙々と仕事をこなしたり、
家族や友人に自分の感情を表さなかったり、
死んだはずの娘が会いに来たり、
でもそれって他人に伝える努力を放棄してるだけだよね、というのが現在での感想になってしまう。
口に出さないことを美徳としているわりに、「こういうの格好いいでしょ?」と露骨に感動させようとしてくるので後半にはもう食傷気味。
黙々と自分の責務を果たす、という昔のアイコニックな人物像とお涙頂戴のファンタジーを混ぜた映画。この手の話に慣れた世代なら感動できるのかもしれないが、現代においてはかなり厳しい作品という評価。
親父曰く『ぽっぽやは国鉄員に対する蔑称だ』
国鉄は1987年4月に無くなった。
また、蒸気機関車は1982年に無くなっている。つまり、志村さんが暴れている時は既に蒸気機関車は走っていない。ピンクのサウスポーは1981年のヒット。
我が家族は国鉄一家である。
親父が国鉄員だ。蒸気機関車の機関助手から機関士を目指したが、時代はヂーゼル、電気の時代になり、電車運転士になった。だから、彼は蒸気機関車の機関士をやった事が無い。機関助手止まりだった。
構造上、蒸気機関車は一人では動かせない。だから、機関士と機関助手の二人で動かしている。しかし、
機関士と機関助手の間には徒弟関係があり、親父が国鉄に入った頃(戦中)は機関士が絶対的な権力を持っていたそうである。従って『ぽっぽやは蔑称だ』と当時の機関士は言っていたそうである。逆に機関助手を『釜炊き』と蔑視して、機関助手は機関士に奴隷の如く扱われたと親父は話していた。つまり、実際の労働者は機関助手であり、中には無能な機関士もいたそうである。
また、
『なみだのかわりにふえふきならし
げんこのかわりに旗振りおろす』
って、親父はそんな忍耐強い人格ではない。イメージで言えば、高倉健さんよりもフーテンの寅さん。
それはさておき、
国鉄が解体されて、地方の国鉄路線がどうなって、そこで働く者や、施設がどんな悲惨な結末を迎えてかを実感してもらいたい。そして、それを傍観していた私には、この映画やこの原作を評価できない。
親父曰く『(ぽっぽや)は国鉄員に対する蔑称だ』と原作者にクレームを入れた。勿論、原作者は無反応だった。
追記
親父も自分の生活の為に『スト破り』をやったと聞いた。しかし、労働組合から爪弾にされた。『集団就職の学生の為にスト破りを決行した』なんて、そんな善人は旧国鉄の職員には、個人として存在したとは思えない。
最終の集団就職列車はネットで調べると1975年の事。順法闘争の一番激しかったのは1973年だから、二年間重なって、そう言った事例はあるのかもしれない。しかし、理由は別にあると考えられる。親父のスト破りは全く別の時代。
親父は国鉄が嫌で、1982年(だいたい)に早期退職してしまった。それでも、国鉄には35年位勤務したとプライドを持っていた。
高倉健という人の佇まいが生きている
寡黙に、淡々と、冷たく
全70件中、1~20件目を表示