火垂るの墓(1988)のレビュー・感想・評価
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心に残る(トラウマ)
今でも記憶に強烈に残り、決して忘れられないトラウマになった映画です。 それは、戦争体験者が語る、「二度と思い出したくない」という思いに近いものかもしれません。映画なのに、心の深い場所にトラウマを残す。傑作には違いないのですが、おすすめはしません。 アメリカのどこかの小学校で、『プライベート・ライアン』を見せる罰と言うものがあると聞きましたが、それは戦争を軽んじるような言動をしたり、元軍人をリスペクトしないことに対する不敬罪に当たるようです。 確かに、子供にはきつい罰でしょうが、いい映画なのでいつかは見せたい一本です。かたや、『火垂るの墓』はと言えば… これが戦争。と、如実に語る作品で、理屈抜きに、戦争は最大の災厄だと思い知らされます。子供には『キャプテン・アメリカ』を見せときゃいい、っていう時代は、いつまで続くのでしょうか。
心が痛む
初めて観たのは20歳のとき。涙が止まらぬままエンディング。 その後、テレビで何度か放映されているがだんだん直視できない。 かわいそうで辛くて余韻がすごい。 けれどしっかりと受け止めて観るべき実話。 兄妹、辛かったね。一生懸命がんばったね。 そんな軽い言葉ではとうてい表現できないけれど心の底から思う。
日本人全員が観るべき作品
火垂るの墓 となりのトトロと同時上映された本作 この作品は高畑勲監督の代表作と言っても過言ではないでしょう 火垂るの墓を観て主人公の清太がクズなどと言っている人もいるが、個人的にはそんなことはないと思う 少し共感できるところもあるが、それよりもせっちゃん(節子)が可哀想な気持ちでいっぱいです 最近は、金曜ロードショーでのジブリ映画で火垂るの墓が全く放送されないので悲しいです いつも終戦の8月15日前後くらいにやってたので地上波で観てみたいです そして最後に本作「火垂るの墓」や「かぐや姫の物語」などの脚本、監督を務めた高畑勲監督に心からご冥福をお祈り申し上げます。
野坂昭如の 自己告発
あまりに辛すぎると まるで他人事のように自分のやった事を語ったりする。 極限状態での精神の安全装置が働くからだ。 昨年、NHKラジオ深夜便で「戦争童話集」の朗読がずっと続いていた。 「火垂るの墓」は野坂昭如の実体験を元にするこの戦争童話集からの一編なのだが。 自分がどんなに駄目な人間で、 妹が死ぬなりしてくれて野坂の目の前からいなくなってくれれば楽なのにと考えていた人間で、 妹はその願い通りに死んで、 面倒な足手まといの存在は消えた。 童話の中では清太も死んだことにしてしまったけれど、 死ぬべき自分はこうして生きて、嘘の童話なぞ書いている その自分を誰がどう思おうと糾弾するためのメモ。判決文。 それが火垂るの墓の原作だ。 誰かの手によってアニメーションや、戯曲になっても それは違うと言い続け 自分は嘘をついているのだと死ぬまで自らを呪詛し続けた野坂昭如は、 2015年12月8日に、ようやく辛い体験から済われて死んだ。 自殺をしないことが自分自身への終身刑だったのかもしれないなぁ・・ 野坂が亡くなったとき、訃報を聞いてそう思った。 お疲れ様でした 合掌
やっと観た・・・ 晴太よ、他の生き方はなかったのか?
節子の死ぬシーンで号泣、嗚咽、涙腺崩壊。その後はずっと最後まで涙。 それまでは戦争の怖さも余り伝わらず、節子のかわいさとなんか回りを余り顧みない晴太の態度に「かわいそうやけれどちょっとなあ?」とどちらかというと前評判ほどではないなあと感じた。 ただ、親戚のおばさんちを出て2人で生活するようになってから少しずつ変わりはじめ悲劇に繋がっていく。 妹を思う気持ちとおばさんの冷たさや医者のものぐさの温度差がだんだんこちらもつらくなってくる。 戦争が色んなものを奪っていったことだけは伝わる。 節子の人生は何やったんや?!晴太の人生は何やったんや?! 戦争にはいっぱいいっぱい哀しい物語が存在していてこの物語もその一つにしか過ぎない。 それがわかっていても世界中のどこかで今も戦争している。 日本も防衛費を増強しようとしている。 その費用を戦争を起こらせない事につかえないのだろうか? この映画はそんなことも思わせてくれる。 他の方のレビューを読みながらまた涙している自分がいる・・・ 余談ではあるがビルマの竪琴で出てきた「埴生の宿」がなぜかこの映画でも出てきた。
悲しすぎて背を向けたくなる映画ではある。 そんなメッセージ性のある...
悲しすぎて背を向けたくなる映画ではある。 そんなメッセージ性のある映画を残した高畑勲はやはりすごいと思う。 嫌な大人も出てくるけど、皆生きるために必死だという時代背景。どうしようもない現実。 ずっと平和であってほしいと願うお話。 ラストの現代との対比がまた切なくなります。
戦争に
どちらかが正しいは無いのである。どちらにも正しい言い分があり、どちらにも振り返るべく誤りがあるのである。ただどちらも譲らない上層部が居るのも確かなのだ。この確かな存在の迷惑千万な意地に巻き込まれ、する必要のない苦しみを味わうのが国民と呼ばれる者たちである。この国民の中でも力の弱い存在に皺寄せがくるのは辞めていただきたいものだ。
戦争における最も弱い者を描いた唯一の傑作
戦争における、最も弱い存在を、徹底的に描いた作品。 そこで虐げられ、様々な救いの手からこぼれ落ち、犠牲となっていく者たちの戦いは、 実は現在も変わらず、同じ構造で、実在している。 戦争は終わっていないのだ。
決して、忘れてはいけないもの
子どもの頃に見た「火垂るの墓」の印象は、 お母さんが亡くなってしまって、かわいそうな兄妹って、あまり深く考えていなかったけど、 大人になってから見てみると、また違った捉え方になる。例えば、母が死んで、親戚のおばさんのところでお世話になる場面。子どもの頃は、おばさんのことを、意地悪なおばさんだ、ひどいってただ思っていた。だが、そうじゃない。この大変なときに、せいたは、自分のこと、妹のことしか考えていない。お世話になっているのだから、なんか恩返しを、力になれることはないのか…そういう考えが全く描かれていない。おばさんが怒るのも無理はないが、 せいたもまだ子どもだ。そういうお互いに助け合うっていうのを、あのおばさんも 教えてあげられたらよかったんじゃないかな。 せいたもおばさんに嫌なこと言われてしまってもいさせてもらえれば、2人は死なずにすんだのでは、、って思う。あと、お金の使い方を見ているとやっぱり子どもなんだよな。 おばちゃんも大人気ないよな。 空襲はいつ起こるかわからない、お腹いっぱい食べられない。そんな世の中では、イライラもしてしまうし、人格が変わるのだろうと思った。戦争は人を変えてしまう、恐ろしいものだと大人になってから改めて感じた。 今は、コロナの世界。戦争とは違うが、ちょっと似てるなって思う。コロナの「どこにもでかけられない、人と密になってはいけない」なんて 戦争に比べたら、余裕で乗り越えられるじゃんって思っちゃった。お腹いっぱい食べられるしね。
今日この日、観るべき映画を見る。
4歳と14歳で精一杯生きた。はたしてそうだったのか。兄と妹、親を亡くし誰にも頼れず、そして死んでゆく。 もし現代の子供がこの時代にタイムスリップしたら、どう生きるかを再現していると、監督自身が語っている様に、人と人との関わりが、人間の生きる術だと感じさせられる。それが出来なかった清太。 戦争孤児を描くと同時に、人間の生き方も描いている。来年のこの日にまたもう一度見よう。
人間として絶対に目をそらしてはならない。
絶対に見なければいけない映画です。 たとえトラウマになろうが 悪夢を見ようが 絶対に知らなくてはいけない。 小学生の時に 学校の授業中に見て 恐ろしい場面(母の死など)も目に焼き付いてしまいましたが この作品に出会えて本当に良かったと思います。 戦争を知らない私達。 戦争を知る世代のお年寄りたちは 辛さ悲しさのあまり口を閉ざしたまま この世から去って行ってしまう けれど その歴史の記憶は絶対に 伝えていかなければ 何も知らずに さらに恐ろしい核兵器を使おうとする人達が どんどん増えて行ってしまうのです。 目をそむけず この作品を多くの人に伝えていきましょう。子供達の世代にも。 原作の小説も子どもの時に読みましたが、 あの薄っぺらい短い本、しかも文章はただ事実を書き連ねた記録文で あの文から 書いた人の感情とかは全く感じとれず 全く感動できませんでした。 あの本を、ここまでリアルに しかも情感豊かに 必死で生きる人々の息遣いが伝わってくる 生々しいアニメーション映画を 創りあげた 高畑勲さんはじめスタジオジブリは 天才としか言いようがない。 あの時代を生きる子供達の 日々のささやかな幸せを描くエピソード(ドロップ等)や 貧しさゆえに優しさを失っていく人間の醜さ(親戚のみそ汁や 母の着物など) 当時の暮らしを具体的にリアルに伝えてくれる 数々のエピソード あれはすべて 原作には無く 高畑勲さんのオリジナルなんです。 本当に 天才によるすばらしい映画です。 何度見ても毎回 同じ場面で涙があふれてきます。 もうセリフもおぼえているのに。 この映画のすばらしい点は、 ありのままを正直に描いていること。 主人公を、善なる正義として描いていない。 親戚の家を出て 自分の力で暮らそうとして、結果 妹を死なせてしまう。 妹の笑顔を守りたかった気持ちはわかるが、 賢いやり方だったとは言えない。 生き抜くためには、火事場泥棒もする。悪行も盗みもする。 大人達に頼らず 共同体から抜けたことで 悪い結果になった点は 高畑監督自身も指摘している。 周囲の人々も 親戚も医者もみな冷たく 死人はゴミのように捨てられる。 人々の心が荒廃し醜くなる姿を、日本人自らが冷淡に 公平に正確に描いている。 ハリウッド映画なら ヒーロー映画として描かれる。 韓国人は「自分達の悲劇ばかり前面に押し出し、お涙頂戴の被害者ヅラ。韓国人に何をしたか描け!」と強く非難する。 この映画は、無垢な罪のない子どもが戦争に翻弄される悲劇… という見方をされがちだが、 実はもっと深く正直に、 すべての人々が心を失っていく姿をさらけ出し、 清太の姿に 共同体からはずれて自滅していく当時の日本国家の姿を示唆し、 無垢なはずの子どもさえ 大量の蛍をつかまえて 自らの楽しみのために死なせてしまう姿を描き、 戦争による荒廃を暴いている。 これこそがこの映画の深い価値につながっていると思う。 何度でも、繰り返し見るだろう。せめて一生に一度でもいい、見るべきだ。 戦争を知る世代がいなくなり、親も誰も戦争を知らない時代になっていく。 戦争の恐ろしさを伝えられる貴重な作品を、 「残酷で トラウマになるから見ない」「子供に見せたくない」なんて 弱い甘っちょろいことを言っていてはいけないと思う。 戦争は決してしてはいけないと心に刻まなければ、 戦争を推進する政治家の言葉を単純に支持してしまい、またいずれ戦争がどこかで起きてしまうのだ。今だって、すぐそばの国で いつ爆弾が飛んでくるか、いつ戦争が始まるか。 大人はきちんと子ども達の心を思いやりながら、正しい知識を伝えていく使命がある。 子ども達の未来を守るために。
毎回見る
毎年8月になると、テレビ放映があるような気がする。しかし、放映されると必ずチャンネルを合わせてしまうほど魅力があるのだ。毎回、サクマドロップを見ると、それだけで涙がこぼれてしまう。 救いようがないほどの不幸。唯一救われたのは、畑泥棒したことを咎められるが駐在さんによって仲裁されたこと。初めて見たときには、不幸だけのストーリーに違和感も沸いたが、戦争が全ての原因であることをここまで訴えているアニメだと考えると、珠玉の反戦映画であることを改めて感ずる。
戦争の悲惨さ
終戦直前の神戸が舞台。 当時の子供がどんな様子だったのかがよくわかる。 実写以上の描写で、戦争の悲惨さを描いた作品。 こんなの見たら、もう二度と戦争なんてごめんだと思うわな… 同時上映だった『となりのトトロ』の後に上映されて、観客はショックで立ちあがるコトが出来ない人もいたとか… そりゃそーだ… 俺も、もうとうぶんは見たいとは思わないなぁ~
ドロップアウト
呪いの光は美しく、衰弱していく節子の痛ましさをこれでもかと安全圏にいる我々に観せつける描写により、鑑賞後頭痛が酷くなった。 母になれず、父になれず、獣にさえなれぬ清太は、全体主義から抜け出せても、この煉獄からは抜け出せない。 供養する者が居ない人間のありのまま。 本作での光は、明確に死の直前の輝きとして扱われている。 ならば、ラストカットの光は。
よく自業自得だと言う人がいるが
戦時中という過酷な状況の中で、必死に生きる道を探し、苦しみ、踠いていく中学生に対して自業自得だと片付けるのはあまりにも非情ではないか。幼い女の子の未来を戦争によって奪われてしまった、救いのない悲劇映画として観れないのか。
たかが14歳、されど14歳。命への責務。
贖罪すべきこともあったかもしれないが、それでも少年は逃げなかった。 今なら中学2か3年生。家族なんて放って、自分のことに集中して、学業・趣味・友情・将来に思いを馳せ、没頭し、悩み、もしくは謳歌する年代。 反面、国民学校初等科を11歳で卒業してすぐに働いていた子も多かった時代。16歳の特攻隊員・ひめゆり部隊員もいた。今よりは、”子ども”ではなく、自分のことは自分でと”半人前~一人前”の力が要求された時代。 将校の家族として比較的良い環境で暮らしていた家族。 そんな家族にも、その日暮らしの人にも、区別なく降り注ぐ焼夷弾。 戦争孤児となり、親戚の家を頼る二人。 確かに叔母はきついのかもしれない。将校家族の利益にあずかろうという姑息な気持ちもあったかもしれないが、それなりに面倒は見てくれていた。 終戦間際。食料等は配給制になる。頼ってきた孤児の分も出るの? 出たとしても、日に日に少なくなる。そんな中で家族に食べさせなきゃいけない主婦。日々のやりくりだけで頭痛いだろう。 それなのに、勤労奉仕もせずに好き勝手している清太。皆が滅私奉公を強いられ、拒否すれば特高に目をつけられた時代。隣組等で相互扶助/相互監視されていた時代。叔母としたらご近所の手前肩身が狭かったのではなかろうか。 もっと悲劇的な扱いを受けた人もいるという話もたくさんある。皆逼迫していた。 叔母だって余裕がなかっただろう。 反対に、大金を持っていること、将校の息子であることで、清太に驕りはなかったか? 終戦。 今までの価値観がすべてひっくり返った時代。大人も子供も、皆混乱して、生きていくのが精一杯だった時代。 買い出し。闇市。絢爛豪華な花嫁衣装が米一合もしくは数本のサツマイモに化けた話を聞く。そんな中で、現在でも野菜高騰時にキャベツ等が畑から盗まれたニュースが記憶に新しいが、この頃だって闇市で売るための泥棒も多かった。盗みの実行者は戦争孤児たちが多かった。清太一人なら見逃してもくれるだろうが、おじさんには闇市のための盗みかはわかるまい。 頭を下げて分けてもらったら、節子を脇に置きながら手伝ったら、違う展開になったかもしれない。 後から、清太がこうすれば~、というのはたやすい。 でも、戦争がなければ、彼は両親と学校教育の庇護のもとで、必要な対人関係も学べたはずだ。 否、どうなんだろう。清太が親や学校から受けてきた教育は、”人の上に立つ者”としてのプライドではなかったか。こんな混乱・境遇に身を置くことは想定していなかった。 子供が生きるために必要な力って何?学歴?勉強?特技?お金を稼ぐ力? ”社会性”という言葉一つとっても難しい。清太だって、以前の生活の中での”社会性”は身に着けていたのだから。 自分の力だけでやれると思う独善。 周りの状況を見ない・聞かない傲慢。 何より自分の力量を客観視する力。何ができて、何ができないか。どういう力を借りなければいけないのか。借りっぱなしにならないためにはどうすればいいのか。 これは、日本の終戦前後の話だが、世界にはこんな子どもたちはたくさんいる。災害にも置き換えられる話。 日常生活にも通じる。自分の首を絞めるようなチョイスが多い人っている(私か)。 「サポートを受けなさい」というのはたやすい。でも、サポートのネットワークから漏れる人って、サポートが提供するものと、自分のこうありたいのギャップが埋まらない人。”自分のこうありたい”を変えることって、結構難しい。 そして、 この原作は、野坂昭如氏の、妹さんへの贖罪・レクイエムと聞く。 誰かの命・人生を背負うことに重荷を感じるなんて、大人でもあり得ること。 「疎ましく思う」「投げ出したかった」なんて、誰でも一瞬頭をよぎる。 それでも目の前の存在を放り出すことができなくて、やるべきことをやるの繰り返し。 「もっとこうしてやりたいのにできない」と自分で自分を責めている人にとったら、映画鑑賞者の私達には愛おしい節子の表情・仕草・行動も、できない自分を責めているようで、嫌悪の対象となるだろう。 でも、捨てて逃げることもせず、頼る人もいないのに、野坂氏も清太も頑張った。 今の世、ネグレクトや遺棄する大人だっているのに。(せめて福祉に相談するか赤ちゃんポストにしてくれ) 不幸にして、時代があんなだったから、節子(野坂さんの妹さん)は亡くなってしまったけれど、貴方のせいじゃない。それだけははっきり言える。 単なる戦争犠牲者の悲話ではない。 人の助けを必要とする小さきものを守るために自分がどう動くのかとか、社会との接点・人との関わり方とか、アイデンティティとか、心の底の深い気持ちを揺さぶられる。 ”孤独死”という言葉も頭がよぎり、身につまされる。 だから、映画としては、どこをとっても一級品だけれども、鑑賞するのがしんどい。
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