「これは反戦映画ではない(高畑監督の才能の罪深さ)」火垂るの墓(1988) 猫まねきさんの映画レビュー(感想・評価)
これは反戦映画ではない(高畑監督の才能の罪深さ)
夏になると反戦映画の定番としてTV放送や、学校で上映されることの多い火垂るの墓。
私は中学生の時の初見からずっと、ふに落ちないものを感じていた。
だって、これ清太が悪いやん。
節子が死ぬ間際になってから預金おろしにいったり・・・金あるなら早く行ったらよかったのに・・・。
反戦映画にしたいなら、少なくともオルガンのエピソードは入れたらあかんのでは?
最近ネットで見たのだが、高畑監督はこの映画で
「生きる力のない子ども」を描いたんだそうな。
(高畑監督は)「周囲の人々との共生を拒絶して社会生活に失敗していく姿は現代を生きる人々にも通じるものである」「特に高校生から20代の若い世代に共感してもらいたい」と語っています。
↑上記のテーマをストレートに描いたら興行的に問題があるので、
フランダースの犬で培った手腕で味付けしたわけだが、
高畑監督の才能がすごすぎた。
監督の意図は映画の中で十分表現されている。
親戚や、親の遺した預金等、生きる道はあったのに、それを活用できずに
妹を死なせたばかりか、自身も死んでしまう「生きる力のない子供」清太。
戦争で犠牲になるのは弱者(子供)である。「戦争の犠牲者」清太。
相反する主人公像・解釈を両立させてしまった、監督の手腕に脱帽である。
が、問題なのは、目くらましに使ったはずの、反戦映画としての名声が高すぎることにある。
もしここを見ている教職員の方がいたら(いないと思うが)お願いしたいのだが、
この映画を反戦映画として感想文を描かせるのはやめてほしい。
節子や清太がかわいそう。やっぱり戦争はしたらあかんのや。
そういう感想を持つ生徒が大多数で、それはひとつの良心的な正しい解釈だが、
この映画は本質的に反戦映画ではない。
私のように、周りの号泣と自分の解釈の違いにもんもんとする生徒が少なからずいるだろうから。