「清太にアメリカン・ニューシネマ的反骨精神を見た」火垂るの墓(1988) モアイさんの映画レビュー(感想・評価)
清太にアメリカン・ニューシネマ的反骨精神を見た
高畑勲監督は優れた観察眼により人の所作を描写していき、キャラクター達に生き生きとした生命感を与えていきます。そしてそれとは別にとても冷めた視点も持ち合わせており、それらを作品の中に同居させるのです。
本作でももちろんですが、それは「平成狸合戦ぽんぽこ」や「かぐや姫の物語」でも見ることが出来ます。
節子のあどけない愛らしさに観客の心を作品に惹き込んでおいて、その惨い最期を見せつけてくる事もそうですが、高畑勲監督は本作を観客がただ気持ちよく泣いて終わるだけの映画にはしませんでした。
映画の冒頭、清太が駅で息を引き取る間際のシーンにおいて、行き交う人々の中から「もうすぐ米軍が来るのに恥やで…」という声が聞こえてきます。
見れば清太の他にも柱に寄りかかりうな垂れている複数の人の姿が確認できます。(清太の元に無言で握り飯を置いて行ってくれる人の姿もあります)
この物語は清太を主人公としていますが、駅の柱に寄りかかる人が複数いる事からも、戦時下において特別な話では無い事が暗に示唆されます。
駅員も冷めており、デッキブラシで突いて清太が既に事切れているのを発見しても「またか…」と遺体を片すこともせず、他の少年の状態を確認しても特に救助するでなく、清太の遺品のサクマ式ドロップ缶を駅構外へ放ります。
空襲後のシーンでは、「自分の家だけ燃え残ったら逆に肩身が狭い。焼けてサッパリした」という様な事を話す者もあれば、倒れた遺体を覗き込んで自分の身内では無い事を呑気な調子で報告している者もあります。
清太の母親も空襲によって全身火傷を負い、翌日には亡くなり、遺体に蛆が湧きます。母親の遺体はその他の遺体と一緒に山積みにされ、まとめて火葬されてしまうのです。
その後清太は骨壺を抱えていますが、そんな状態で火葬された遺骨なんてどこの誰の者とも分かりません。(しかし清太は横穴へ移った時もその骨壺を大切に持ってきているのです。)
節子を火葬するための炭をくれた叔父さんはまるで釣り上げた魚の調理法をレクチャーするように遺体の焼き方を教えてくれます。清太はそれを淡々と聞き、教わった通りに節子の遺体を焼きながら何か頬張っているのです。
これらのシーンは戦後世代としては一々衝撃的なのですが、当の映画の中の人々は淡々としており、大きく感情を乱す人もいません。幼い節子でさえ母を恋しがりはするものの、ほとんどの場面で抑圧的なのです。人の命が余りにも無碍に失われていく戦時下という特殊な状況でも人はそれに慣れてしまうのかと思わせる恐ろしい描写が続きます。
また清太と節子が暮らした横穴の前には池があり、対岸に立派な屋敷の屋根がチラチラ見えるカットが本編に何度かあります。そして映画の終盤にその屋敷へ3人の娘がはしゃぎながら帰ってくるのです。もんぺ ではなく スカートをヒラつかせ、蓄音機で流すのは戦時下ならご法度だった外国語の唄です。おまけにそれが「ホーム・スイート・ホーム」とかいうふざけたタイトルの唄なのです。
このお屋敷の娘たちと清太と節子の兄妹には一体どんな違いがあったというのでしょうか?何故ここまでの皮肉を入れてくるのか?正直高畑勲監督に少し意地悪な印象も受けるのです。
兄妹が西宮の叔母ちゃんの家に居候をはじめて近所でお風呂を借りた帰り道に蛍を見つけるシーンがあります。清太が捕まえた蛍を節子に渡そうとした際、節子は誤って蛍を潰してしまいます。兄妹に蛍を殺してしまった事への感傷はありません。
その後、兄妹が横穴生活をはじめた際に大量の蛍を捕まえて暗い夜の横穴の中で放ち光り輝やかせますが、翌朝蛍は全て死んでしまいます。
蛍を埋葬する節子との会話で清太は、今まで隠していた母の死を節子が既に知っていた事を知り涙します。節子は掘り起こした穴に蛍を一まとめに埋葬しますが、その様子が母の火葬シーンと重なるのです。そして一言「なんでホタルすぐシんでしまうん?」と問い掛けてきます。果たして節子は本当に蛍の死について問い掛けてきたのでしょうか?
兄妹に命を絶たれた蛍が自身の命を絶った存在の正体と何故命を絶たれなければいけなかったのかを理解できないように、兄妹も又、何故自分たちの命が絶たれなければいけないのか、そして自分たちの命を絶とうとしている戦争とはどんな存在なのか理解できていないはずです。
昨今本作についての話題の一つに主人公:清太の行動の是非に対する議論が目立つようになっています。なるほど確かに居候先の西宮の叔母さんの家での生活態度をはじめとした清太の行動には疑問が湧く個所が多々あります。
しかし清太だって戦時下でなければ両親によって保障された衣食住を享受しながら、当たり前に学校へ通っていればいい訳で、気乗りしない労働を強要される事もなければ、両親や家を映画で描かれているような形で奪われる事もなかったはずなのです。
戦争なんだから仕方ないだろうという理屈は清太だって分かっているでしょう。しかし理屈が分かる事と心情としてそれを納得できるかは別です。
もう少し大人になれば納得いかなくとも自分が生きていくためには仕方がないと割り切って行動することもできるでしょう。ですが生意気盛りの14歳です。親類に対してさえ素直にハツラツと挨拶する事に何か抵抗を覚える年頃です。
なぜ理不尽にも自分の家や家族を奪った戦争に労働という形で加担させられなければならないのか?清太は納得できなかったのではないでしょうか?
清太が始めた戦争でもなければ、清太に戦争に対するどのような責任があるというのでしょう?それは清太と同じ戦時下に生きる殆どの人々に言えると思うのですが(それでも大人にはやはり少しずつの責任があるとは思いますが)ただそういう世の中だからと仕方なしにでも戦争へ加担していくのではなく、納得できない事、理解できない事に徹底的に抗ったのが清太だったのだと思うのです。
清太は理論を持っていません。仮に持っていたとしてもそれを展開することが許されない時代において清太は議論することなく行動で、自分に戦争への加担を促してくる社会体制へ抗ったのです。私が同じ立場なら容易に社会へ迎合するでしょう。しかし願わくばその様な迎合を迫られる社会にならないようにしたいものです。
私は今回の鑑賞で清太にどこかアメリカン・ニューシネマ的なものを見ましたが、清太の行動には支持できない部分も多々あります。その最たるものはやはり幼い妹を自分の生き方の道連れにしてしまっている事です。映画のラストで現代の日本を見つめる兄妹は一体何を思うのか?清太の行動について疑問を抱く余地がある事も含めて、それらは当然意図して描かれたものではありますが、結局未だに高畑勲監督の意図するところが私には分からないのです。
中々繰り返し見る気にはなれない作品ですが、例え間違っていたとしても作品に込められた意図を自分なりに納得できるまで見返す作品だと思います。
今回はただ単純に、子供にこんな生き方や死に方をさせる世の中は嫌だなと思いました。