晩春のレビュー・感想・評価
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父娘
小津安二郎に、裕福な人たちが出てくる映画──という印象をけっこう強くもっている。
長屋の映画もあったが、あつかうひとたちは、裕福が多いのではないかと思う。
いちばんゆうめいな東京物語にしても、貧乏ってわけじゃないが、やや庶民かと思う。
長男は医者とはいえ町医者である。長女は美容院をやっている。みんな忙しくて、葬儀が終わったらとっとと東京へ帰ってしまう。次男は戦死しており、紀子はお隣にお酒を借りに行く、質素な未亡人だった。
晩春の父娘はもっと裕福である。
衣食足りて礼節を知る、と言うが、人間のもんだいを描くために、最低のことは満たしておく必要があったのだろうと思われる。
中産階級になって、はじめて家族の諸問題は見える。それより貧困ならば、もっと別の悲哀になってしまう。だから、小津安二郎の人たちは裕福なのだろう。と思う。カラーになると裕福がさらにアップした。
わたしは祖父や父から、あるいは昔の人たちから、戦後が貧乏とイコールな印象しか持っていない。だけどその感じが小津安二郎にはない。自身が復員して間もないのだが、映画には戦争の気配を介入させなかった。
晩春は1949年で、大局的にみると、戦後まっただなか、社会が混乱しているなか、娘が嫁に行く話なんて、ゆうちょうだなあという批判が、あったという。
一方で、戦争はおわったわけだし、戦争から離れて、家族の問題に向き合うのはさすがだという称賛も、あったという。
紀子三部作と言われるものの最初で、紀子は父と鎌倉に住んでいる。三部作といえども繋がっているわけじゃなく、それぞれ別個の話だが、原節子が紀子という役名で、三回やってるから紀子三部作だそうだ。
よくしらないが、鎌倉に代々住んでいる──なんてひとは裕福であろうと思う。
「ここ海近いのかい?」
「歩いて14、5分かな」
「ああいいとこですね、こっちかい海?」
「いやあこっちだ」
「ふうん」
「八幡さまこっちだね?」
「いやあこっちだ」
「東京はどっちだい?」
「東京はこっちだよ」
「すると東はこっちだね?」
「いやあ東はこっちだよ」
「ふうん、昔からかい?」
「ああ、そうだよ」
<二人笑い>
「こりゃあ頼朝公が幕府をひらく訳ですよ。要害堅固の地だよ」
父役の笠智衆と叔父役の三島雅夫の会話だった。
八幡さまとは鶴岡八幡宮であろう。家に、縁側があり、庭がある。そこが涼しげに開かれている。歩いて14、5分ならば、ときどき潮風=海の香りもはこんでくるだろう。
主人が着物をきて居間で来訪した叔父をもてなしている。
女たちはかしましいが、男女の地位には封建制がある。
父娘だって、いまから考えりゃ堅苦しい。
父が叔父と相酌しているんだが紀子が燗をつけたのを「すこしぬるいな」「あら、じゃあ」「いやいい、あとの熱くして」なんて言う。いまの娘ならおやじ自分で燗つけろよと言うだろう。
嫁入りのまえに、父娘と叔父夫婦で、京都へ旅行する。
旅先で父娘が床を並べて寝る。
カメラが部屋の床の間の壺をあんがい長くとらえる。
そのシーンが論争をもたらした。とwikiに書いてあった。
壺は陰部をあらわし、はっきり父娘のインセストの映画と言ってる論者もいるようだ。
そんな風にも読めるが、それらはもちろん、うがちすぎである。小津安二郎がインセストの映画を撮ろうとしたはずがない。
息子が母にあこがれる、娘が父にあこがれる、それは普遍なことだ。
外国の論者は父娘が床を並べて寝る旅館のシステムに奇異を感じたのかもしれない。
むろん、いまの父娘は、そんなことはしない。
晩春は東京物語につぐ人気や知名度がある。
海外の研究者も多い。
そして壺のカットは、メタファーや寓意を、論争させるほどに、やや長かった。
が、晩春は紀子の婚前ブルーと、残される父の寂しさを描いた映画である。
それらは、宇宙人でもわかるほどに、丁寧に描かれているが、個人的には東京物語に比べると通一遍な感慨しかない。
いんしょうに残ったのは上述した父と叔父の会話と、彫像のようにきれいな月丘夢路だった。
そもそもいまわれわれが小津安二郎をみて、どうこうというのはない。
ただこれらの普遍な映画世界が価値の高いものだということは百姓のわたしにもわかる。(気がする。)
よく思うのだが外国人にsunny smileと評される原節子の笑顔は、個人的な見地だが、とても無理笑いであると、かんじる。
こんだけ無理な笑いもないだろう──ってくらいな無理笑いなひとだと思う。
なんか見ていて痛々しいのである。このひとが笑っているだけで、哀しくなる。
原節子が引退した理由は、演技をすこしも楽しんでおらず──ただわたしは家族をサポートするために、ながなが我慢して銀幕のスターをやってきたんだ──もうやめさしてください。というものだったそうだ。
1960年代に40代なかばでやめ、そこから半世紀経った2015年に95歳で亡くなるまでインタビューも写真も拒否し世界から永久に背をむけつづけた。
そして、そんな隠遁生活をおくるであろうっていう気配は、晩春にも麦秋にも東京物語にもある。なにしろ笑っているだけで痛々しいんだから、無理強いしている気がするんだから。
終の住処は晩春とおなじ鎌倉だった。
きっと楽しく豊かな孤独を過ごしたのだろうと、希望的観測している。
流石小津さん
ザ松竹という温かみ
父の再婚候補を見る原節子こと紀子の表情の険しさに痛く感動。一瞬で切り替え、見事なものだ。紀子の結婚承諾を喜ぶ叔母杉村春子の全身表現も流石。
結婚するという嘘をついて大事な娘を嫁にやる作戦で、それを娘の友人に打ち明ける脚本は、まさにその後綿々と受け継がれる松竹の伝統芸のルーツということか。大きな温かみを感じさせた。
結婚生活、そして幸せはこれから夫婦で作っていくものと娘を諭す、父親はとても良いが、今だとこのセリフは真っ直ぐには難しいか、でも時を超える真理ではあると思った。
最初、退屈しそうであったが、結局最後までそれはなく、麦秋や東京物語と異なり、後味も心地よかった。ただ、謎解きの面白みはあまり無しではある。
幸せは築き上げるもの
素晴らしい余韻が残る、日本の最良の部分を残すことが同時に世界的に普遍性のある物語にまで昇華している
1949年昭和24年
同年公開の黒澤明監督の野良犬、前年公開の酔いどれ天使に登場する東京とは全く違う世界が描かれています
左翼からは当時の困窮混迷した社会情勢に背を向けた鼻持ちならない極めてプチブルジョワジー的な映画だと批判されもしたようです
しかしその批判は当たらないと思います
小津監督の視線は日本の現状をしっかりと見つめており、だからこそこのような日本の最良の社会の在り方を残そうと懸命に記録しているとも言えると思うのです
序盤の横須賀線の走行シーンを長々と挿入しているのは何故でしょうか?
馴染みのある横須賀線カラーではない、昔の茶色い塗装の電車が遠景で映ります
一両だけ白い帯が横にはいった車輌が列車の真ん中にあります
グリーン車ではありません
米軍専用車輌なのです
紀子と服部が自転車で葉山から茅ヶ崎まで海岸を走るシーンでは道路標識は英語でマイル表記なのです
つまり監督は占領下の日本の行く末
その社会の構造、人間の機微
そういった日本の本当に美しいものが壊されてはなるものか
そのような強い意志をもって本作を撮影しているのだと思うのです
冒頭に茶会のシーンを置くなどだけでなく、本作のテーマそのものや、登場人物達のものの捉え方、行動、立ち振舞い
そういったものを飲み込まれてはならないものとして映画に刻みつけようとしているのだと思うのです
晩春という題名
確かに冒頭の北鎌倉は桜も終わった明るい陽光に満ち溢れています
服部が紀子を誘った東京劇場のバイオリンの演奏会は4月28日開催でした
服部が婚約者が在りながら自分を誘ったことになんとも不潔だと紀子が怖い顔で歩くシーンはその前の切れない沢庵問答の時の笑顔との落差が効いています
能の演目は杜若(かきつばた)
つまり初夏の花です
紀子が途中で三輪秋子に気付いてからみるみる不機嫌になるシーンは心に残りました
終盤の京都の清水寺には修学旅行とおぼしき女学生達が冬服で散策しています
紀子は半袖ですが、周吉はカーディガンを着ています
つまり父娘の京都旅行は初秋頃です
ラストシーンでは父周吉が独りリンゴの皮をむきますから、紀子の結婚式は晩秋から初冬だろうと思われます
では何故本作は晩春という題名なのでしょうか?
それは劇中の季節を指しているのではなく、紀子の事を指しているのだと思います
遅い春がようやく彼女にも訪れたという意味なのだと思います
上野の料理屋の多喜川の主人が西片町にお住まいの頃云々と話ます
その地名は東大前と本郷の間にありますから、周吉は東大の教授なのでしょう
京都の旅館で明日帰るという夜
父娘は布団を並べて眠ります
その時床の間の壺が意味ありげに長く撮されます
色々な解釈がされているようです
ユング的には壺は女性を象徴しています
その空洞の内部に全てを呑み込み、そして産み出す存在なのです
つまりエディプスコンプレックスを説明しています
果たして翌朝、彼女は結婚したくない、周吉といつまでも暮らしていたいと言い出すのです
この時初めて周吉は雄弁に彼女に話しかけるのです
今までになかったことです
こんなことはできない人物です
なのにこんなにも話すのです
それがラストシーンとの対比を強めているとおもいます
周吉は独りの家に戻り暗い台所でリンゴの皮をナイフで剥きはじめます
そんな事は紀子がしてくれることで、危なっかしい手つきです
彼は慟哭はしません
周吉とはそんな男ではないのです
これで良かったのだと言い聞かせているのです
結婚式に向かうシーンで杉村春子がバックを二つもって退場しようとしてまた戻って忘れ物がないかぐるりと部屋を一周してから階段を下りていくのです
素晴らしい小技で参りました
エンドマークは鎌倉の夜の海が写されます
寄せては返す波
それははるか昔から同じ光景であり
周吉と紀子のような嫁に行かせる話はその波のように太古から繰り返し繰り返し同じことがあったことなのです
素晴らしい余韻が残る、日本の最良の部分を残すことが同時に世界的に普遍性のある物語にまで昇華しています
本作の12年後小津監督の遺作秋刀魚の味が撮影されます
ほとんど本作のセルフリメイクと言える内容です
本作をより整理して父が嫁に行かせる物語により焦点を絞りこんでいます
監督の本作への再挑戦だと思います
是非合わせてご覧下さい
とても美しくて切ない。日本の美学
「東京物語」が僕にはあまり理解できなくて、小津映画もしかして苦手かもと思っていたが、この作品で小津安二郎の凄さがわかった。
お互い依存しあう父娘、しかしお互い自立しなければいけないと頭の片隅にはあり物語が進む。非常に繊細な二人の駆け引きが胸にチクリときてしまった。
道路の両隅を無言で歩き、それをカメラがフォローするシーンはとても美しかった。
笠 智衆と原節子の父娘はとても可愛らしく描かれており、ずっと観ていたくなる。
ラスト、お嫁に行く娘を送り出す父。「東京物語」の様にドラマチックではなく、淡々とリアルに描かれ「小津らしい」と思った。しかしラストカットで、静かな家で一人リンゴの皮を剥く父が頭を垂らすエンディングで鳥肌と涙が出た。
とても日本的な美しさが描かれている繊細な映画だった。
小津のミューズ、原節子が放つ魅力!
紀子三部作第1作。
Blu-ray(デジタル修復版)で2回目の鑑賞。
なかなか嫁に行こうとしない娘を心の底から案じている父親と、自分が結婚すれば父親がひとりぼっちになってしまうと心配している娘―。結婚と云うイベントが浮かび上がらせていく父娘関係の変化を、丁寧に描き出した名編でした。
舞台となる晩春の鎌倉の風景が美しく切り取られており、登場人物たちに静かに寄り添っているように感じました。
原節子の小津映画初参加作品となりました。小津安二郎監督の映画に欠かせない女優さんのひとりですが、監督のつくり出す世界観に誰よりも相性ぴったりの気がしました。まさに小津監督が見出だしたミューズ、と云うことでしょうか?―彼女に寄せる信頼が、画面越しに伝わって来るようでした。
その関係は公私に渡っていたと云うことが噂されたそうですが、真相や如何に?―小津監督の死去と同時に原節子が銀幕から姿を消したことも、監督と役者を超えている気がします…
―閑話休題。
自分の意に反して、父は自分が嫁に行くことをなんとも思っていないと誤解し、憤慨する姿などが、原節子自身が持つ純粋さと結びついているようで、素晴らしい演技でした。
月丘夢路が演じる親友とのガールズ・トークも見物。本音を包み隠さず言い合えるふたりの関係性にホッコリし、昔も今も女性の抱く悩みや喜びは変わらないのかも、と思いました。
不器用な父親を演じる笠智衆も、小津作品には欠かせない役者さん。正直棒演技ですが、なんとも言えぬ味わいを持っていて、独特の世界感をつくり出しているように感じました。
娘の身を案じながら、娘に甘えていた自分を省みる…。後妻を迎えるからと結婚を勧める姿に、身を切られるような想いでした。ラストのえも言われぬ表情が涙を誘いました…
[余談]
この父娘の関係が近親相姦めいていると云う考察をネットで拝見しました。確かにそんな気もしました。娘の父への執着も裏を返せば…と思わず想像してしまいました。
結婚前最後の家族旅行にて、旅館で過ごす一夜。ふたりの会話の後に映される床の間の花瓶がその象徴と云うことらしいのですが、まだよく理解出来ないので勉強します(笑)。
※修正(2022/05/05)
さあ観念しろッッ!
小津安二郎初体験。果たして世界に冠たる小津映画はどんなものかとワクワクして本作を鑑賞しました。
感想は、面白かったけどあまりハマらず。でも、もしかすると過剰なファザコンを描いた本作が小津映画の中でも異質で、東京物語とか観たらまた違う感想を持つような気がします。
主人公・紀子はちょっとキてますね。はじめは朗らかで魅力的に思えたのですが、父の再婚話での異常な嫉妬を剥き出しにする姿を見てドン引き。よくよく見ると紀子は他者の気持ちを慮るシーンはほぼなく、喜怒哀楽も垂れ流しでコントロールが効いていない。
おそらく彼女はすごく幼いんですよね。精神的には年中〜年長さんってとこ。父への過剰な執着は「大すきなパパとずーっといっしょにいたい!」って感じです。幼稚園児ならそう考えるのは当たり前です。途中で紀子を成人女性としてではなく幼稚園児として観ると、違和感がなくなりました。
しかも、紀子は父親以外から影響を受けないため、クライマックスまで成長しません。この閉じられた感じもヤバいですね。日本の伝統的な闇を感じます。
そんな27歳児も逃れられない運命がありまして、それが強制結婚です。価値観の多様性・自己決定権が重視される現在とは違い、当時は周囲が一丸となって「結婚シロー!」と圧力をかけてきます。
これは、ある意味よくできているかも、なんて感じました。おそらく舞台が現在ならば、紀子は父子密着のままずっと行ったと思います。周囲の圧力もそこまでないだろうし、父親も優しいから踏ん切りつかなそうだし。
でも、強制結婚は強引に父子を引き剥がします。しかもそれは個人の意思とかでなんとかならない社会システムによるものなので、紀子も心の奥底ではいつかこの日が来ることを覚悟していたと思います。なので、父親の渾身の説得を受け止め、観念できたのだと思います。観念できたってのは、成長ですからね。
とはいえ、この強制的な分離はトラウマ体験にもなり得るので、新郎の熊太郎さんが良い人でないと紀子のメンタルはブレイクダウンして毒親化し、世代を超えて呪いが引き継がれていくでしょう。
…やっぱり野蛮でヤバいですね。しかも小津は独身だったので、強制されるのは女性のみだったのかも。うーん。
作風としては、元祖オフビートギャグが面白くて、結構笑えました。杉村春子が財布を拾ってネコババしようとしたときに警察が見切れてくるとか、ニヤリとしました。笠智衆のリフレインギャグもなかなか。この辺はジムジャーっぽさを感じました(小津ちゃんが影響を与えてるんだけどね)。
原節子のバタくさい美しさには絶句。すっかりファンになりました。
気になったのは、終幕近くで笠智衆に対して月丘夢路が「遊びに行くわ、チュっ☆」みたいなシーンがあり、なんか中年男のドリームって感じがして本作の中でも浮いているように思いました。もしかすると21世紀ハーレムアニメの源流も小津ちゃんにあるのか、なんて邪知してます。
戦後まもなくの鎌倉の風景が美しい。当時の文化や思想が随所に見られま...
戦後まもなくの鎌倉の風景が美しい。当時の文化や思想が随所に見られます。映画は歴史遺産ですね。
定番の嫁に行くやら行かぬやらの話。本作が始まりなのだとか。適齢期になれば女は嫁に行かねばならぬ、当時の文化ですね、いやこれは今も色濃く残っている気がします。
嫁に行くより父といたい娘、しかしそれを許さぬ文化。父の気持ちも複雑です。
見どころ
・嫁入りが決まっての親子最後の旅、娘がコクリます。どきどきです。
・ラストの父。結局お前もか。
見ようによってはヤバイ映画。壺が映るシーンに性的な論争があるようです。?。
特に大きな事件が起こるわけでもないのに見入ってしまうのは『東京物語』と同じですね。不思議な魔力です。これで紀子三部作、二作制覇。『麦秋』が楽しみです。
揺れる気持ちの後で
小津安二郎映画の別のも考えたが、そちらは、貧困で人妻が身体を売るという話で、(私は当然否定する立場だが)今朝の気分では重い感じがして、『晩春』のほうにした。映画も2時間前後あったりするので、休日に1本観ようとするのも、他の事も計画しているとなると、大変な贅沢でもある。早朝5時すぎから7時には観終えようと観始めた。ネット時代でもあるし、調べて書くか、調べないで書くかというので違っても来るのだが、昭和24年というと、戦争終結後4年。このタイミングの時代はどういう感じだったのか。オープニングは多くの女性たちが集まっての茶会で、穏やかな雰囲気で進行している。流れている音楽が現在の映画ではあり得ないだろうという感覚である。DVDで観始めたが、どうも一度観てはいたかも知れない。だが、ほとんど忘れてしまっている。鎌倉が舞台のモノクロ。たしか下から撮るのも特徴だったか。父の威厳はあるのだがソフトである。家族制度は今より当然しっかりしていた時代だろうが、決して父が威張り散らしていただけの家庭では無かったのは記録されているだろう。だいたい家族制度を悪く言う人は、その人の両親とうまく愛情関係が持てなかった個別の体験を復讐のように社会に浴びせるようなものだと私は思っている。愛情ある家庭は喧嘩はあるにせよ、誰かが誰かを看取るまで続くし、そのほうが人間らしいに決まっている。(こうなった時代からは介護施設との関係という問題もあるが)◆やはり一度観てはいる。忘れていたのだが、薄っすらと場面場面がほんの少しずつ想起はされる。しかしどう終えるのかもまったく覚えていない。おじさんと語るシーンがあるが、おじさんの再婚を、笑いながらもなんだか不潔だわと言うような、主人公の女性の感性が、現在の女性にはわからなくなった貞操観なのだろう。ここに現在の問題へのヒントがあるはずだ。主人公、紀子は父娘の家庭らしい。おそらく父は妻に先立たれている。作家らしい。(調べたら大学教授だったか)◆昭和24年当時は親子親戚の関係がしっかりしていた事もあり、紀子の叔母さんだろう、見合いの一歩前のような話を持ち出すが、紀子の懸念は父が一人暮らしになってしまうのではないかという危惧だった。現在の女性たちとは結婚に迷う気持ちの選択面から違っている。紀子は再婚が汚いと考える貞操観があるくらいなので、父親に叔母からの再婚話があると複雑な心境になる。とても不器用な時代教育の生んだ感性だが、一面凛とした女性というのはこういう感性で作られていたのではないか。男性にも妾を作っているような男性ばかりでは無かった。誠実な父娘である。なぜ揺らぎ乱れた家族出身者の言論のほうが優位に立たせた時代推移をしたのだろう。◆(ただ原作者の広津和郎は何人も愛人や妻を替えた人物だったらしく、小津安二郎は結婚しなかったようなのだが、そこら辺の原作者と映画監督の境遇、思考からのせめぎ合いがあったか。もちろん、私が観ているのは映画のほうだから、小津の感性のほうに変えられているほうがインプットされているはずだ。◆現在の女性達が結婚しないのと、この映画で紀子が父親が心配だからという理由と、どこが違うのかもヒントか。映画では、父が再婚すると語ったために、紀子がショックを受ける。(紀子を嫁に行かせたい父の噓だったのか?)現在では、母娘との癒着を指摘する話は幾つか出ているようだが、現在風のこの視点は一体何か?美的には、父娘とのコンプレックスのほうが、母娘とのコンプレックスよりも美的な気はする。◆いずれにせよ、心配してくれて見合いを持ってくるおじおばのような関係性も貴重だった。◆ただ、紀子もいざ見合いをしてみると、心理が急転して、相手に対して悪くもない印象を親戚で同級生なのか、その女性に語る。その女性が語るには、もじもじして好きな人に告白も出来ないあなたみたいな人は見合いが似合ってんのよ。みたいなセリフがある。見合いという選択は大事だったのだ。恋愛結婚至上主義のような偏りが現在の不幸を生んでいる。婚活にしても恋愛色が強い方法だ。ピンポイントで紹介で覚悟を持っている感じが大切だと思う。◆父娘家庭ゆえだが、父娘とで一緒の寝室で寝ているシーンがあるが、ここが現在の人達にはわからなくなった面だとも思う。俗に言うツッコミどころというわけだろう。ここを考察するところにヒントがあるかも知れない。(これは、娘の結婚を機に、記念に父娘と京都に旅行に行ったシーンか)◆これはマザーコンプレックスに対するファザーコンプレックスとだけ科学のように単純化してしまうと考えにならない。◆笠智衆さんが演じた父親はこの時56歳。「結婚してすぐ幸福にはならない。幸福を作り上げていくところに結婚の幸福が生まれる。そしてはじめて本当の夫婦になれるんだよ。」◆なぜこの映画が作られた昭和24年から、家庭を家族を夫婦を日本は壊す方向を取っていったのだろうか。◆紀子が嫁いでから、痩せ我慢していた父親の寂しい気持ちが描写されて映画が終わる。
●いつも笠智衆はひとりになるな。
お父さんは58歳であれだけ老けていて先行きも長くないのか
総合60点 ( ストーリー:60点|キャスト:65点|演出:55点|ビジュアル:65点|音楽:60点 )
趣味に合わないと感じてもう小津作品はいいやと思っていたが、原節子の若い頃はどうなのだろうかと気になって観てみる気になった。
相変わらず科白はかぶらないように交互に喋り、小津作品らしいゆったりとした雰囲気で家族模様の話が進んでいく。古き日本の美しい情景ではあるものの、やはりこの演出が古くて退屈に感じる。
戦後間もない時期を背景にして実際にその時期に制作されている。だから日本人の多くが食べ物にも困るようなかなりの貧乏人であったかもしれないが、そんなことも気にしないほどのんびりとした平和な生活を観ていると、裕福で幸せな人たちだと思う。百貨店で買い物したり喫茶店でお茶したり能を鑑賞したりなんて、この時代はきっと普通の人は出来ないよな。そして生活に困窮する話などは出ないまま、親子の結婚の話がどうなるのかという本題に入っていく。
だけどこの時代としてはいい歳なのに何故そこまでひたすらに結婚を否定して父親と一緒にいたがるのかが描かれていないのが気になった。娘の結婚が主題なのだから、そこを教えてくれないと彼女がただの融通のきかないだけの人に思える。結婚を急かされて反発する彼女の内面を教えて欲しい。
監督の意向なのかもしれないが、名優と言われる笠智衆でも科白のいかにも科白です的な不自然な言い方は好きになれない。ただし44歳で58歳の父親役を演じているのはすごい。それにしても当時の58歳は随分と老けて見える。ずっと安定した感情を保ちながら最後の孤独さを表す場面は良かった。
原節子は異国風の堀の深い顔立ちがやはり目立つ。この時代は逆にそういう日本人離れしたところが受けたのだろうか。落ち着いた雰囲気の中で感情の変化がある役どころであったのが印象に残った。
何本も小津作品を観ているとどれも同じに見えてくる。ストーリーと時代...
父親の立場でもないのに共感…
小津監督の映画まともに見たことなかったのですが、BSでしてたので視聴
娘をおくりだす父の気持ちがなんとなくわかるような…
それにしても、白黒なのに映像が美しく見えたのはすごい
ところどころにはいる日本的な要素の能や塔はすごく印象的
小津監督って塔が好きなのでしょうか?塔というより京都?
よくでてくるような…
ラストシーンは父が号泣する演技に、と監督は指示したそうですが
あのシーンの方が味があってよかった
今の時代、結婚してもしょっちゅう実家に遊びに?帰ったりするのもあたりまえですが、
昔って一回女性が家を出るともう、ちょっとやそっとじゃ戻らない、戻らせない覚悟みたいなのがあったんでしょうか
でもそのわりに娘の親友は出戻っているけれど
古い価値観と新しい価値観のはざまで…という感じがした
よく議論されている、父と娘が並んで眠る壺のシーンもみましたが、
映画全体からみたら、ただ風景をうつすシーンのように見えてしまった
確かに意味深だけど、
母親不在という少し一般と違う状況で、
結婚前の父と娘が並んで眠っている状況だからあーだこーだ議論されているのかな、と思ったりしました
「麦秋」と併せて見る
哀悼と発見
原節子さんの訃報を耳にした。松竹120周年ということで、偶然にも東劇にて「晩春」「東京物語」を上映とのことで、とりもなおさず銀座へ向かった。
「晩春」はよくよく見ると、なかなかおかしな映画である。主題である主人公・紀子の結婚の、肝心のその相手は全く顔を出さない。登場人物たちの口を借りてそのプロフィールが語られるのみである。
映画の焦点はあくまでも結婚における、父と娘との別離、その通過儀礼に絞り込まれている。恋愛結婚に懐疑的な作品の多い小津らしさが強く出ている。
ところが、「晩春」の11年後のカラー作品である「秋日和」では、結婚して家を出る娘の司葉子に、わざわざ恋愛をさせているのだ。しかも今度はその結婚相手に佐多啓二という二枚目まで登場させる。なぜこれがわざわざの恋愛かというと、司はさきに佐分利信から佐多の紹介をされているのだが、これは写真や履歴を見る前に断っているのだ。にもかかわらず、司は会社の同僚から同じ人物の紹介を受け、今度は交際を始めるのだ。「秋日和」のシナリオはこのように、娘が恋愛をするということに非常に重要な意味を持たせている。
「晩春」の終盤はやはり映画としては不出来な終わり方である。娘が結婚して親から離れることの道理を、思いのたけ、笠にセリフで語らせてしまっている。小津はこの映画としての不合理を、「秋日和」では恋愛という当時の新潮流によって押し流すほかなかったのだろうか。
「秋日和」は、「晩春」とほとんど同じような筋立てで、原節子が今度は娘を嫁に出す寡婦を演じる。「晩春」でのやもめの笠智衆の役を、その娘であった原が演じるのだ。このような配役をこなす原もすごいが、「秋日和」で佐分利信の重役室へ司を案内する事務員が岩下志麻で、この司と岩下は6年後、「紀ノ川」でこれまた母娘を演じることになる。いやはや、仕事の幅の広い方々に敬服するばかりである。
原節子さんのご冥福をお祈りいたします。
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