「優しさと切なさのあわい」晩春 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
優しさと切なさのあわい
家族という温かい人間関係の輪郭を保つものは何かといえば、それはある意味旧来的な「制度」だったのではないかと思う(今は違うだろうけど)。男は外で稼ぐ、女は家庭を守る。あるいは嫁を貰う、嫁に出る。こうした営為の絶えざる反復によって家族というものは大いなる時間の波を乗り越えてきた。
しかしこの「制度」は、同時に家族という人間関係を損なわせる要因そのものでもある。仕事をするかしないか、誰と結婚するかしないか、そういった「制度」をめぐる問題によって家族関係に不和が生じた経験は誰にでもあるのではないか。家族を未来へと繋げていきたいだけのに、そのことによって現在の家族が引き裂かれてしまうアンビバレンス。
娘の紀子は早くから妻を亡くしてしまった父・周吉の面倒を見ているが、周吉はそれによって紀子の婚期が遅れることを危惧している。「面倒を見てくれる再婚相手がいる」という周吉の言葉によって、ようやく結婚へと舵を切りかける紀子だったが、不意に「いつまでもお父さんと一緒にいたい」と本音を漏らす。しかし周吉は「結婚すれば本当の幸せが手に入る」と最後まで紀子の背中を押し続けた。とはいえ紀子が本心から結婚を前向きに捉え直すことができたのか、それを明示する描写は最後までない。
紀子を嫁に送り出した日、周吉は姪と酒を交わす。しかしその表情はどこか空虚だ。姪が「あたしおじさんのとこに会いに行ったげる」と周吉を励ますと、周吉は「本当に?本当に来てくれるんだね?」としきりに訊き返す。家に一人で帰ってきた周吉はりんごの皮を剥きながら静かに肩を落とした。そこで映画は幕を閉じる。
ここには不可避的に自己否定を繰り返すことによって未来へと延命されていく家族という人間関係の哀愁が描き出されている。紀子も周吉も、本当はいつまでも一緒にいたいのに、家族を下支えする「制度」が存在していることによって分断を余儀なくされているのだ。
しかしそこまでして家族などというものに拘泥する意味が果たしてあるのだろうか?「ない」と断じることは現代でこそ簡単だが、それが単に遺伝子学的な結束を超えた何らかの価値を有していることは小津安二郎の生み出した数々の名画が、あるいはそれらに対する市井の評価が示唆している。家族とはいいものです、と全肯定するのでも、家族なんかクソ喰らえだ、と全否定するのでもなく、あくまで単調なトーンの中でその陰陽をつぶさに描き出していく。それが小津映画の本髄だ。
意味の有無という問題圏の手前(あるいは向こう側)でただただ素朴に存在している家族という人間関係についての、ただただ素朴なスケッチ。「制度」という呪いを受ける対価として繋がっていく家族に意味があるかはわからない。けれど少なくとも紀子や周吉にとってそれは、現にそこに「ある」ものであり、これからも「続いていく」ものであったのだ。
映画を見終え、紀子や周吉は今ごろ何をしているのだろうと考えていたところ、ふと夕暮れの情景が頭の中に浮かび上がってきた。
優しさと切なさのあわい。
おそらくこれが家族というものの正体なんだろう、と私はおぼろげながら思った。