「父娘」晩春 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
父娘
小津安二郎に、裕福な人たちが出てくる映画──という印象をけっこう強くもっている。
長屋の映画もあったが、あつかうひとたちは、裕福が多いのではないかと思う。
いちばんゆうめいな東京物語にしても、貧乏ってわけじゃないが、やや庶民かと思う。
長男は医者とはいえ町医者である。長女は美容院をやっている。みんな忙しくて、葬儀が終わったらとっとと東京へ帰ってしまう。次男は戦死しており、紀子はお隣にお酒を借りに行く、質素な未亡人だった。
晩春の父娘はもっと裕福である。
衣食足りて礼節を知る、と言うが、人間のもんだいを描くために、最低のことは満たしておく必要があったのだろうと思われる。
中産階級になって、はじめて家族の諸問題は見える。それより貧困ならば、もっと別の悲哀になってしまう。だから、小津安二郎の人たちは裕福なのだろう。と思う。カラーになると裕福がさらにアップした。
わたしは祖父や父から、あるいは昔の人たちから、戦後が貧乏とイコールな印象しか持っていない。だけどその感じが小津安二郎にはない。自身が復員して間もないのだが、映画には戦争の気配を介入させなかった。
晩春は1949年で、大局的にみると、戦後まっただなか、社会が混乱しているなか、娘が嫁に行く話なんて、ゆうちょうだなあという批判が、あったという。
一方で、戦争はおわったわけだし、戦争から離れて、家族の問題に向き合うのはさすがだという称賛も、あったという。
紀子三部作と言われるものの最初で、紀子は父と鎌倉に住んでいる。三部作といえども繋がっているわけじゃなく、それぞれ別個の話だが、原節子が紀子という役名で、三回やってるから紀子三部作だそうだ。
よくしらないが、鎌倉に代々住んでいる──なんてひとは裕福であろうと思う。
「ここ海近いのかい?」
「歩いて14、5分かな」
「ああいいとこですね、こっちかい海?」
「いやあこっちだ」
「ふうん」
「八幡さまこっちだね?」
「いやあこっちだ」
「東京はどっちだい?」
「東京はこっちだよ」
「すると東はこっちだね?」
「いやあ東はこっちだよ」
「ふうん、昔からかい?」
「ああ、そうだよ」
<二人笑い>
「こりゃあ頼朝公が幕府をひらく訳ですよ。要害堅固の地だよ」
父役の笠智衆と叔父役の三島雅夫の会話だった。
八幡さまとは鶴岡八幡宮であろう。家に、縁側があり、庭がある。そこが涼しげに開かれている。歩いて14、5分ならば、ときどき潮風=海の香りもはこんでくるだろう。
主人が着物をきて居間で来訪した叔父をもてなしている。
女たちはかしましいが、男女の地位には封建制がある。
父娘だって、いまから考えりゃ堅苦しい。
父が叔父と相酌しているんだが紀子が燗をつけたのを「すこしぬるいな」「あら、じゃあ」「いやいい、あとの熱くして」なんて言う。いまの娘ならおやじ自分で燗つけろよと言うだろう。
嫁入りのまえに、父娘と叔父夫婦で、京都へ旅行する。
旅先で父娘が床を並べて寝る。
カメラが部屋の床の間の壺をあんがい長くとらえる。
そのシーンが論争をもたらした。とwikiに書いてあった。
壺は陰部をあらわし、はっきり父娘のインセストの映画と言ってる論者もいるようだ。
そんな風にも読めるが、それらはもちろん、うがちすぎである。小津安二郎がインセストの映画を撮ろうとしたはずがない。
息子が母にあこがれる、娘が父にあこがれる、それは普遍なことだ。
外国の論者は父娘が床を並べて寝る旅館のシステムに奇異を感じたのかもしれない。
むろん、いまの父娘は、そんなことはしない。
晩春は東京物語につぐ人気や知名度がある。
海外の研究者も多い。
そして壺のカットは、メタファーや寓意を、論争させるほどに、やや長かった。
が、晩春は紀子の婚前ブルーと、残される父の寂しさを描いた映画である。
それらは、宇宙人でもわかるほどに、丁寧に描かれているが、個人的には東京物語に比べると通一遍な感慨しかない。
いんしょうに残ったのは上述した父と叔父の会話と、彫像のようにきれいな月丘夢路だった。
そもそもいまわれわれが小津安二郎をみて、どうこうというのはない。
ただこれらの普遍な映画世界が価値の高いものだということは百姓のわたしにもわかる。(気がする。)
よく思うのだが外国人にsunny smileと評される原節子の笑顔は、個人的な見地だが、とても無理笑いであると、かんじる。
こんだけ無理な笑いもないだろう──ってくらいな無理笑いなひとだと思う。
なんか見ていて痛々しいのである。このひとが笑っているだけで、哀しくなる。
原節子が引退した理由は、演技をすこしも楽しんでおらず──ただわたしは家族をサポートするために、ながなが我慢して銀幕のスターをやってきたんだ──もうやめさしてください。というものだったそうだ。
1960年代に40代なかばでやめ、そこから半世紀経った2015年に95歳で亡くなるまでインタビューも写真も拒否し世界から永久に背をむけつづけた。
そして、そんな隠遁生活をおくるであろうっていう気配は、晩春にも麦秋にも東京物語にもある。なにしろ笑っているだけで痛々しいんだから、無理強いしている気がするんだから。
終の住処は晩春とおなじ鎌倉だった。
きっと楽しく豊かな孤独を過ごしたのだろうと、希望的観測している。