「実像、虚像、偶像、増殖する自己」PERFECT BLUE パーフェクトブルー imymayさんの映画レビュー(感想・評価)
実像、虚像、偶像、増殖する自己
現実の自分「実像」と理想の自分「虚像」の間で揺れ動く主人公の姿が描かれていた。
主人公は、アイドル(=偶像)で、ファンが見たい自分を魅せている職業。ファンが勝手に理想像を作り上げてしまうから、いつのまにかそこにその人本人は抜け落ちてしまって、実体のないイメージだけのものになってしまう。
普段は電車で通うし、スーパーで買い物するし、アイドルの自分とアイドルではない普通の人間の自分がいて、自分の像が2つ存在していて、入れ替わりながら生活している。
主人公は女優に転身する。女優はいろんな役を演じるから、自分の像は役の数だけ増えていくことになる。ネットの中で増殖していく自分と重なる。自分じゃない人が、自分を装ってホームページを更新する。主人公はそれを読んで「私、今日原宿行ってたんだ」と徐々に現実とフィクションの境界を失っていき、現実を生きているのか、夢の世界を彷徨っているのか、現実の世界でドラマの役を演じているのかわからなくなっていく。
アイドルの自分が乖離して自分から遠く逃げ去っていく幻想、反対に、アイドルの自分に追いつめられる幻想、割れた鏡に増殖して映る複数の自己、自分の影の部分が映る鏡の中の自己。すべてが物語とリンクして、自分を見失っていく様が重層的に描かれている。
主人公の視点で描かれていて、その主人公は自己を見失っているので、この物語は「信頼できない語り手」の系譜の物語。結局、殺人事件や、精神の不安定さが、どこまでがほんとうに起きたことで、どこまでが夢の世界で、どこまでがドラマの世界なのかを確定するのは不可能である。
哲学者デカルトの「我思う、故に我あり」という言葉がある。この物語の最後の主人公の言葉「私は、本当の私よ」はこれと同義であるように思った。「私」が「或る私」を「それは私である」と認識できる時に、私は、「本当の私」になる。実像と虚像の間で悩み、揺れ続けた「私」が自己を再確立する、というのが、パーフェクトブルーの大きなテーマであろう。
現在の私たちは、ネットの中の私・社会的な私・素の私を使い分けることが容易になっていると思う。Twitterでは病みツイートしていても、Instagramではキラキラ投稿をする。アイドルだって恋愛するし、ファンはSNSで日常が覗ける。複数の私を認識できるし、使い分けできる。
でも、この「PERFECT BLUE」という作品はインターネットが普及した初期段階のお話。自分の像はひとつであることが当たり前の時代だったのではないかと思う。だから、増えていく自分の像を簡単には受け入れられない。アイドルも本気で排便しないと思われていた時代だったのだから。1990年代の人間の心情を、インターネットの台頭という時代背景を的確に捉えて描いた、この時代だからこそ生まれた傑作であると思う。