日本の悲劇(1953)のレビュー・感想・評価
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良い子の皆様へ 錦ヶ浦まで我慢しましょう♥
日本の喜劇だよー。
亡父曰く ☓最悪映画☓ 理由は最後 ふざけるなと言っていた。
『だまされていた』
え!?
我が亡母は湯の町エレジーが好きで、この映画の佐田啓二が好きだった。だから、我が亡父は言っていた。
『こんなアプレガール! concubine prostitute の話だよ。こんな母親いないよ』と。
親父の言う事を信用する。内容は兎も角、脚本も演出も出鱈目だし、設定も中途半端。やはり、実体験に基づく私小説の様な映画は、設定を広げるべきではないし、貧困層を描きたいなら、きちんとリサーチしなければだめだ。この頃の熱海は新幹線の開通する10年前、岡山へは10時間以上かかる。
日本の悲劇は一旦終わりを告げ、
1960年を境に再び悲劇は更に深刻さを深める。
『戦争は、国にだまされていたから』と思っている国民性は日本人としてのアイデンティティも日本国民としてのナショナリズムも無い事になる。従って、明治維新以来の脱亜入欧へ、日本国は新たな悲劇を生むに至るのだ。
しかし、この対局に『飢餓海峡』や『砂の器』や『点と線』がある。だがしかし、それもまた、日本の近現代史は語っていない。
追記 亡父はテレビの『おやじ太鼓』が好きで良く見ていた。しかし、突然見なくなった。理由を聞くとこの映画の話をして『俺は木下恵介監督が嫌いだ』と曰わった。
僕にとって、この映画は初見だが、おやじ太鼓の様な親父だったが、オヤジが理解出来た理由である。
長回し
板に遮られて画面半分、向こうのほうから上り電車が横切っていく。主人公の動きと共にカメラも動き、もう半分があらわになる。大きくカーブし入線してくる電車が近づく。行き詰まった主人公の思いが伝わる。
度々挿入される新聞記事に母子無理心中の文字がおどる。生きる力のあった主人公と出来がよい子供たち。生き残った末に迎えた悲劇は、可哀相にという気持ちにもなれぬ殺伐とした現実と乾いた人間関係。誰をも責めることもできない。自らに痛みを突き刺す。
断絶
復興への野心に燃えながらもまだ戦禍の残滓が残っていた頃の日本。叔父の闇市稼業を官憲にチクった歌子が無罪放免となった叔父から返り討ちを食らうシーンが示す通り、そこには道理や道徳がおよそ入り込む隙が無いほどの混沌があった。そうした残酷な戦後リアリズムの中に産み落とされた歌子と清一が母・春子の思いも虚しく情け無用の冷徹な性格に育ってしまったという「悲劇」は、もはや親子間のコミュニケーションという個人的領域では如何ともしがたい歪んだ重力が当時の日本社会に瀰漫していたことの証左だ。
世の中には清貧という概念があるが、私はこれを信用しない。倫理や愛や道徳もまたある種の嗜好品ではないかと思う。アブラハム宗教的な無底的信仰がもはや無効となった現代においてはなおさらそうだ。日本にアブラハム宗教はほとんど浸透していなかったが、代わりに天皇がいた。戦前の日本人は天皇崇拝を通じて自分の利益を度外視した他者との向き合い方を心得ていた。したがって「お母さんは馬鹿だ」と言い捨てる清一と「お母さんと呼んでくれてありがとう」と涙をこぼす春子の対比には、戦前世代と戦後世代の不可視だが根深い断絶が表れているといえる。あるいは全体主義と資本主義の、「東側」と「西側」の断絶と形容してもいいかもしれない。何でもいい、とにかく日本は変わってしまったのだ。
2人の子供に見捨てられ、湯河原駅で上り電車に飛び込んだ春子。彼女の死を悼む者が、歌子と清一からすれば「馬鹿」に分類されるであろう板前と流しの若者たちだけだったというのが物語の悲劇性をことさら強めている。
木下惠介の野心的作風は本作をもっていよいよ爛漫の開花をみたといって差し支えない。本作に続く『女の園』『二十四の瞳』は木下作品の中でもとりわけ傑作との呼び声が高い。現実の写真や新聞記事をモンタージュしたドキュメンタリー的な手法もさることながら、カメラの回し方や構図も見事なものだ。特に春子と清一が戦死した父の墓前で言い合いになるシーンは印象的だ。墓の陰から遠巻きに二人の動向を映していたカメラは、立ち去っていく清一をドリーで追いかけ、やがて見失い、それから意気消沈の春子とともに再び最初の位置へと戻ってくる。技巧の顕示に走った感じがなく、なおかつ最大の演出効果を発揮した秀逸な長回しだった。
母の愛情と苦労が徒となる、戦後日本社会に埋もれた女性の悲劇
ある親子の断絶を、価値観の変化が顕著な戦後日本の社会背景で描いた木下惠介監督の力作。子供の為に生きてきた母親の、その精一杯の苦労の仕方が徒となる悲劇をラスト衝撃的に描いた主張の明確な映画文体がまず見事。次に現在と過去のモンタージュに独自の演出を試み、主人公の記憶と行動を説明する映画ならではの編集の表現が、独特な映画スタイルを創造していた点が評価に値する。ドラマ自体の重厚さと編集演出の技巧の組み合わせに、斬新にして不思議な魅力がある。それは例えばフランスのアラン・レネの記憶と現在の演出に近いもの感じさせて、常に挑戦的な映画作りをする木下監督の特長を表している。日本映画でありながら、ヨーロッパ映画のスマートさを印象に持つ。主演望月優子の熱演がまた素晴らしい。通俗的母もの映画とは一線を画す社会派映画の傑作である。
1979年 7月3日 フィルムセンター
戦後史+悲劇史
戦後に起こった事件をニュースフラッシュのように登場させドキュメンタリー風のオープニングで始まる。「湯の町エレジー」を奏でる流し(佐田啓二)。
戦後直後には闇市で働いていた春子。子供たちに米を食わせるためにどんなことでもやってやるというタイプの働き者の母親だ。清一は医学を志し、裕福な医者夫婦への養子話が魅力的なのだが、母親を蔑ろにしているのではなく、これ以上苦労かけたくないと願うだけだ。
ストーリーは冗長気味に進み、回想シーンが戦後の社会派要素満載なのに比べ、本編のほうでは、洋裁教室と英語塾に通う娘春子が塾長(上原謙)との不倫(未遂か?)や、春子が旅館の常連客にそそのかされて相場をやっていることがメインになり、養子になるために籍を抜かぬまま医者宅で住むことが手抜きになってしまった感がある。特に塾長赤沢が婿養子であることとかつてはお嬢様育ちであった嫁(高杉早苗)が憎らしくなる様子などはメロドラマの世界だ。
ラストも娘を探して駅のホームで悲惨な結末を迎えて、どうしようもない虚無感に襲われるが、そのしばらく前に回想シーンを上手く繋げた編集のおかげだろう。しかも無音の回想シーン。時折挿入される新聞記事やニュース映像が高度成長期前のギスギスした人間関係を象徴しているかもしれない。
21世紀の日本でもこの対立構造は全く変わりありません 今こそ本作のリメイクを観てみたいものです
号泣しました
木下惠介監督の社会派の一面を知る映画です
しかしそうであっても監督の温かいヒューマニズムの立場は揺るがず、人はどうあるべきなのかを考えさせてくれます
この母と子の物語も一ツの挿話である
しかも
我々の身近に起こるこの悲劇の芽生えは
今後いよいよ日本全土におひ繁ってゆくかも知れない
タイトルバックのあとの字幕で示される監督の予言は21世紀の今日までも見通した鋭いものです
冒頭や本編に、終戦から1953年の本作公開までの8年間に起こった様々な事柄や世相の当時の新聞記事やニュース映像が時折短く挿入されます
本編には一切の劇伴という音楽が排除されています
その代わり町の様々な騒音がほんの少し大きめに録音されており、登場人物達の会話の背景にずっと聞こええきます
このような手法で私達観客は終戦からの8年間という年月を追体験して、本当にその年月を過ごしてきたかのような錯覚を起こさせるのです
特に21世紀に生きる若い私達には、断片的な記録でしか知らない当時の事件や世相が、当時の資料の視点で時系列に並べられた時、そしてこの一家の終戦から劇中の1953年の現時点までの苦難に満ちた生活とリンクされて語られる時、それらはバラバラのことではなく、一連の流れとして、近現代の「歴史」のことではなく、実際にあったこと、今の日本がこうなった始まりがどうであったのかという現実を教えてくれます
この手法は戦後75年を経過して、当時が遠い過去になった21世紀の現代にこそ、おそらく監督が意図した以上の効果を発揮しているといえるでしょう
主人公の春子は今風に言えばシングルマザーです
戦災で亭主を失い女手一つで二人の子供を育て上げた女性です
戦後の混乱期の8年もの間、そして現在も大変な苦労を堪え忍んで生き延びてきたのです
その為には綺麗ごとだけでは生きて来れ無かったことも描かれます
その彼女を立派な女性だとみるのか、子供達のように蔑むのか、それは彼女をどう見るのか、その視線の向け方次第なのです
主演の望月優子は特筆すべき名演です
中盤のお座敷で芸者さんから借りて三味線を弾くシーンと続く流しのギターで泣くシーンは長く心に残るものです
晴子が住み込み女中として働く熱海
母を捨てて戦争で跡継ぎを失った裕福な開業医に養子に入ろうとする息子が住む東京
この熱海と東京の間を晴子は行き来します
この対比構造は
二人の子供を育てあげる為の現実の厳しさの象徴としての熱海
子供達の理想、あって欲しい姿としての東京
客に体を任せて得た闇屋のつて、旅館の女中とは言っても今風にいえばコンパニオンと大して変わらない実態
闇物資で食いつながざるを得ない現実社会
闇屋の春子を糾弾する女子小学生と闇物資を拒絶して餓死した大学教授の話
個人主義で親子すらバラバラになっていく社会
新し日本を説く小学校の先生や、社会主義を声高に叫んでいる左派社会党や騒乱する学生達
警察予備隊から自衛隊の結成と再軍備に進む日本
平和憲法を守れと声高に叫ぶ社会党の選挙候補
一方、姉の歌子は洋裁と英語を習っています
洋裁の仕事で今のお金で400万円近い貯金もしています
こんな母ではろくな縁談が来ないと嘆く女性
女性独りでも生きていけるスキルを身につける生き方
少女の頃に親戚の息子に暴行されてもうお嫁にいけないと諦めてしまっている古風な心情と
愛してもいない20歳近い年齢差の男に身を任せて逃げる捨て鉢の心情
様々な対立構造を監督は提示するのです
日本人の代表として春子はこの対立に引き裂かれて、その間の湯河原駅で途中下車していまいます
その行方は更に堕ちて行く道だと気が着いた時、彼女はこの対立に終止符を打つしかなかったのです
その結末は挿入されていた新聞記事のいくつかの紙面が伏線になっているのです
ラストシーンが二人の若い男性の優しい言葉の会話で終わることだけが救いです
流しの男が奏でる湯の町エレジーが心に染みます
21世紀の日本でもこの対立構造は全く変わりありません
今こそ本作のリメイクを観てみたいものです
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