アメリカン・ビューティーのレビュー・感想・評価
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幸せの基準
出勤前に本作を観終わった。
そして外に出たら、車道に白いゴミ袋が舞っていた。しばらく見つめていた。
「幸せ」の基準とはなんだろう。一般的にはでっかい夢を叶えるところから、生きてるだけで丸儲けまで幅が広いように思う。自分自身を考えて見ても、即答で「幸せ」と答えられるかどうかわからない。なりたかった職業ではないがかなり長い間同じ職種で働いているし、いわゆる下っ端でもない。余裕があるほど裕福でもないが、映画館に行くことをためらうほど余裕がないわけではない。若い頃に思い描いた結婚生活ではないが、殺したいほど険悪でもない。いろいろ悩むこともあるけど見栄をはらずに話し、聴いてくれる友達もいる。なにより、平和ボケの国で生まれ育ち命の危険を感じたことはない。
欲をいえばキリはない。それに私が「幸せ」だとぼんやり抱いているイメージは果たして本当に私にとって「幸せ」なことなのだろうか?毎日いろんなメディアから大量に送り込まれてくる「幸せ」のイメージの欠片をこねくり回してできただけのものじゃないだろうか?ひょっとしたら、AIは私の幸せをもう文章化してるのじゃないだろうか?
私は本当に私の幸せをわかっているのかしら?
大人になってから再視聴
やはりケビンスペイシー作品にハズレなし!
高校生くらいの頃に一度観て、私自身は割と好きな作品やなと思ったけれど、私の周りの友達には大不評やった本作。
あれから10年ほど経ち、再視聴。
アメリカンビューティというタイトルからは考えられないほど悲哀に満ち溢れている。夫は精神的な浮気を、妻は肉体的な浮気をし、娘は思春期真っ盛り。よくあるっちゃあるんやろうけど、表だけで幸せ家族を演じ、ある時そのバランスが一気に崩れる。みんな悪い人ではないんやけど、不器用で自分の言いたいことがなかなか言えない&言いすぎてしまう。アメリカの家族あるあるが当時アメリカでは受けたのかなと思った。(アメリカ住んだことないからほんまかは知らんけど)
あの時、学生やったのでビニール袋のシーンくらいしか印象に残らなかったけど、今みると妻側のやりきれないという気持ちもよくわかる。毎日あれだけ綺麗に掃除して、食事も作り、仕事もして身なりも綺麗にしているのに、夫には女としてみてもらえず、虚しくなるよなあ。夫がベッドでしていて妻と喧嘩するシーンもそりゃあ怒りたくなる気持ちはわかるなあと思いながら観ていた。
みんないろんな感情を押し殺しながら生きている人たちばかりやったけど、ある程度言いたいことを相手に伝わるように言わないと爆発した時に取り返しがつかないんやなと改めて思った。主人公は途中からはっちゃけてたけどああいう生き方ができると楽なんやろうなあ…。
深い傷口、泣き笑い。
この気分に合う人向き
壊れていく男性の人生!! 日常をマタにかける作品
ちょっとずつの「あれ?」が積み重なって、最終的に全く予期せぬ地点にたどり着く
アメリカにある典型的な家庭が、アメリカ特有の問題によって崩壊していく様を描くブラックコメディ。
アメリカという国は1776年に建国された、他の国の歴史に比べれば、できたてほやほやの国である。だから彼らはいま、「国」というものをつくっている最中である。世界を舞台に躍進を続ける企業群、広大な面積や資源、世界の警察たる軍備、有名な大統領の話題性など、派手で見栄えもするので思い違いをしがちだが、国としてはだいぶ若い。
つくっている最中という状況に加え、多民族国家的な国民性や右も左も包含する広義の愛国心なんかも相まって、色んな問題が起きている。例えば、銃社会、労使の雇用契約、ティーンの性、精神的病理、退役軍人、共依存的な家族形態や人格形成、不倫や離婚問題、DV、同性愛への偏見などである。
そしてそれらの全てが余すところなく、主人公のレスター・バーナム家に降りかかり、家庭が徐々に崩壊していく。登場人物ひとりひとりに絶大な非はないように思えるが、ちょっとずつの「あれ?」が積み重なって、最終的に全く予期せぬ地点にたどり着く展開は、苦笑いでただ見つめるしかないほど、見事である。
今作でアカデミー賞を受賞した主演のケビン・スぺイシーは後年、ゲイ疑惑、セクハラ、小児性愛という極めてアメリカらしい問題で話題を振りまく結果となってしまった。公開から20年、アメリカは未だ建国の途上にある。
ケビンスパイシー天才
どうやら男性受け?
冷たい家庭 ・無気力夫 ・浮気妻 ・親を嫌う娘 ・麻薬の売人 ・常...
生きればいいんじゃない
どこにでもいるような家族が崩壊していくお話。 夫婦のお互いへの不満...
地に足がついていない人びと
この映画は、最初から最後までずっとクレイジーというか、ヘンだった。
登場人物ほとんど全部が言動が極端だけれど、それもなかなか絶妙で、ありそうでないような、なさそうであるような、、、
なので、「これはリアルではない」と軽い気持ちで笑いながら見るものの、感覚的には身に覚えがあったり、「身近にこういう志向の人いる」と思わされ、結果的には全く他人事ではなった、ということになる。
日常は、そして人生は、リアルにけっこうこんなものだな、と思わされてしまう。
だらしなかったり、見栄をはったり、つっぱってみたり、トシや立場を忘れて子供のようになったり、大人であっても自分の悩みが解決ないままだったり、ない物ねだりをしたり。
最後に主人公は良心や感謝の念を抱くようになるけれど、そのときは人生はもう終わりだったりするところも!
本当のところで地に足がついていない現代の人々を、一段高いところからコミカルに描いたのだと思う。
なかなか凄い見せ方だなぁ~と感心してしまう。
病んでいるのは彼らだけではない
なんなんだ、この映画は‥
原始的な元ネタ
ユージュアルサスペクツのレビューに、世評が高いけれど、じぶんには面白くなかった──と書いたが、これもそんな映画のひとつ。アメリカンビューティー(1999)。
1917のサムメンデス監督のデビュー作として知られimdbが8.3(!)。rotten tomatoesでも87%と93%。ユージュアルサスペクツとほぼ同値のとても高い評点を得ている。
屁理屈な発言だとは思うが、面白くなかったけれど、わかんないわけじゃない。アメリカンビューティーには明らかな普遍性があった。
典型的なアメリカの家族──というものがある。ウィルフェレルの、アダムサンドラーの、スティーヴマーティンの、ナショナルランプーン系の・・・、──どの家族も父母姉弟がおなじキャラクタライズをもっている。キャリアな母、ダメな父、いけいけな姉、ギークな弟。かれらが家庭内不和の危機を乗り越え、一致団結する顛末がファミリー映画の定石になっている。
American Beautyはもっとずっとシニカルで破滅していくドラマだが、皮相はそんな感じ。それらの原型だった。
原型だからこそ、1999年の本作を現代人がみると、かえってありきたりに見えてしまう。原型=老舗の不幸と言える。
たとえば新海誠は岩井俊二のLove Letterに多大な影響を受けている。だけど新海誠のほうがずっと面白い。
あるいは、たとえばタランティーノは深作欣二から多大な影響を受けている。だけどタランティーノのほうがだんぜん面白い。
世の創作物は、おうおうにして、多くのクリエイターに影響をあたえた「元ネタ」のほうが、プリミティブ(=原始的)で、不器用であり、その影響をうけてつくられた後進のほうが器用で多芸なものだ。(ぜんぶじゃないけど。)
シオドアスタージョンというSF作家がいて人間以上(1953)というのを書いた。
まえにもどこかで引用したがその文庫のあとがきに、こうある。
『(~中略)そのなかでも、とりわけスタージョンの影響が強いのはサミュエル・R・ディレーニイである。
ある意味でどこか完成しきっていないようなもどかしさを残すスタージョンの世界が、もしもひとりで成長していってバランスのとれた宝石になっていったとしたら、それはおそらくディレーニイの諸篇に非常に酷似したものになるにちがいない。作中人物の口を借りて、彼みずからがスタージョンを賛美する『エンパイア・スター』はもとより、「流れガラス」や「スター・ピット」に見え隠れする色調は、スタージョン以上にスタージョンらしさがでている。』
(ハヤカワ文庫版シオドア・スタージョン著、矢野徹訳「人間以上」の水鏡子のあとがきより)
スタージョンの人間以上はすごい小説だがあまり面白くない。笑。ディレーニイという後発のSF作家は面白い。だけどスタージョンに影響をうけていることが明瞭にわかる。
そんな、世によくある現象のことを、このあとがきの一節は、うまく言い得ている。
スペースインベーダーとかブロックくずしとか、そんなゲームがむかし、あった。それらは開祖でありシンプルで偉大なゲームとはいえる。でもいまそれをやっても面白くない。(言うまでもないけれど)シューティングでも落ちモノでも、いまはビュジュアルもギミックもそれよりはるかに面白いゲームがあるからだ。
そんな原型=老舗の不幸は、とうぜん映画にはよくある。ただし(もちろん)もともと力量のないコンテンツには、原型も発展型もない。なんらかの「発明」をもっているものが原型たりえる。岩井俊二のLove LetterもサムメンデスのAmerican Beautyもじぶんとしては面白くはなかったけれど原型となる「発明」があることは、すごくわかった──という話。である。
American Beautyをごらんになればわかるが、家庭を持つ中年男性がかかえる危機(ミドルエイジクライシス)を象徴にしている。
それは、きょうび巷間のコンテンツが耳タコ目タコができるほど繰り返し提供するプロットでありキャラクタライズになっている。
おっさん、セックスレス、そこそこ中産階級、その定石から若い女に年甲斐もなく入れあげてしまう反作用──かんぜんにどこにでもある話──である。だけどAmerican Beautyはそれらに先んじていた。陳套なプロットおよびキャラクタライズの「原型」だった。
で、おもしろくはなかったけれど「わかる」という屁理屈になったわけ。
あらかじめ偉そうなことぬかしやがって──とツッコみをいれたうえで偉そうなことをぬかしますが「おもしろくはなかったけれどわかる」とはリテラシーだと思います。わかんない&つまんないだけだと動物です。
(もちろんこれは名作にたいする定義です。未成熟なさくひんやザ日本映画はわかんない&つまんないだけでじゅうぶんです。)
じっさいのところを白状してしまうと、個人的に(アメリカンビューティーのように)象徴化された人間模様は苦手。人物連鎖と悲喜こもごも──の構造にできすぎ感/つくりものっぽさを感じました。
ポールトーマスアンダーソンのマグノリア(1999)やTodd FieldのLittle Children(2006)やポールハギスのクラッシュ(2005)は(わたしにとって)この映画と(すごく)似た肌感(できすぎ感)をしていて、いずれも高評価なのだが、いずれも「わかる」けれど、あんまり──という感想です。
虚栄心
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