「性=生→死、そしてまた生」楢山節考 りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
性=生→死、そしてまた生
信州の山深い、楢山という山を信仰の対象にしている寒村。
時代は定かではないが、明治期のように思われる。
その小さな村にある「根っこ」という呼ばれる一家。
七十を迎えようとする婆おりん(坂本スミ子)、45歳になる辰平(緒形拳)、辰平の弟で奴(家を持たない二男以下のこと)の利助(左とん平)、それに辰平の三人の子供の一家があった。
村の掟では、七十を迎えた老人は、寒村の命を繋ぐため「お山参り」と称して、山に棄てられる運命にあるのだが・・・
という話だが、姥捨ての話は後半になってから、前半は素寒貧の寒村の様子を丹念に描いていきます。
食うものは芋程度。
一家の二男以下は単なる労働力で、嫁を娶ることはできず、常に悶々としている。
娘ならば、大きくなったら売って金に換えたいところだし、嫁は嫁で、これもまた労働力、かつ、今後の労働力になる(もしくは金になる)子どもを産むことが期待されている。
まぁ、もうどうにもこうにも暗くて遣る瀬無いのだけれど、生きている限りは仕方ない・・・といわんばかりに、どこか突き抜けている。
前半の主人公は、ほとんど利助といっても構わない。
もしくは、村の中から嫁をとる、辰平の長子。
ふたりから見えるのは、生=性であり、遣る瀬無くまた滑稽だけれど、彼らの性的欲求を否定することはできない。
この前半で、がらりと色調を変えるのは、辰平の長子が娶った嫁の実家の皆殺しのシーンで、貴重な食料を盗んでいた一家を一族郎党、根絶やしにするために生き埋めにしてしまう。
このシーンは凄まじい。
が、イタリアンのリアリスモ映画でも、あったような印象を受け、どこか、もう、仕方がない・・・みたいな気にもさせられてしまう。
若い嫁の腹のなかには、胎児がいたにもかかわらず・・・
このエピソードが、性=生の前半から、生→死の後半へと繋ぐ役割を果たしている。
とはいえ、後半の姥捨ての道行のシーンはいささか冗漫な感じがしないでもないが、白骨累々のお山のシーンは衝撃的で、こりゃ、こんな光景をみるよりは、手前の谷で老いた親を蹴落としたくなるだろうねぇ。
なので、念仏を唱えながら成仏するおりんの姿は神々しいものの現実離れしているようにも思えましたが、こうでもしないと、映画的には決着がつかないのでしょうね。
初公開当時は観る気の起きなかった映画でしたが、歳を経て観て、観てよかったと思える作品でした。