「なにもかも濃い」青春の殺人者 こまめぞうさんの映画レビュー(感想・評価)
なにもかも濃い
960年代の青春は自分も肌感覚ではわからない。
この主人公の父は苦労人で
自分のような苦労をさせたくないとの思いから
正直たいして能のない息子にも店を与えてやり、
60年代としてはかなり過保護だったと想像する。
この当時は、大変な思いで学校に行かせているというのに
学生は徒党を組んでただ騒いで遊んでるばかりだという
大人の認識だったのだろう。
それくらいなら一円でも稼いだ方がいい、というのは
特別厳しいわけでもなく標準の認識だったのだ。
しかし息子にとっては自分のやりたいことを取り上げられて
鬱屈する日々。
甘やかされて育ってるだけに
思い通りにいかないことが耐えられない。
おそらくはこの恋人が童貞を失った相手で
それだけ執着も強かった。
恋人でも友人でも思春期の自分の社会を
否定する大人には激しく反発するものである。
その衝動のまま行動してしまったが
根っこから親を憎んでいるわけでもないし
親の庇護なしでは何もできないと
徐々にわかってきても後の祭り。
映画最初の傘のくだりに関係が集約されている。
壊れた傘を捨てようとする母に
父は直せば使えるだろうもったいないと止め、
その壊れた傘を持って母は出かけていく。
貧乏くさいとも思えるそんな両親が
息子にとってはダサくて恥ずかしい存在であるに違いない。
そうやって倹約して自分を育ててるのだとわかっていても、である。
それにしてもこの映画に登場する女たちは
直面する現実に対して
適応度合いが抜群で男たちは置いてけぼりではないか。
監督としても女ってよくわからないなという
認識だったんじゃなかろうか。
そこが逞しくほっとできるのが恋人で
おぞましく奇異にうつるのが母親。
市原悦子との攻防戦は夢に出そうなトラウマレベルだ。
まさに怪演。