砂の女のレビュー・感想・評価
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見る者をも閉じ込める「砂の穴」
冒頭で、男がひとり砂丘をさまよい、昆虫を採集する姿が淡々と映し出されます。台詞も説明もないまま、乾いた風と奇妙な効果音が空間を満たし、観る者もいつしか現実から隔絶された“砂の異界”へと足を踏み入れていきます。
勅使河原宏監督は本作において、ロングショットをほぼ排除し、顔と砂粒の至近距離での接写を徹底します。通常、映画のロングショットは風景や空間の奥行きを提示することで、観客に心理的な逃走経路や俯瞰的視点を提供します。しかし『砂の女』ではその広がりが消去され、観客はフレーム内の閉塞に巻き込まれることになります。
人物の顔や砂の粒子へ異様なまでに接近するカメラワークは、単に「見る」行為を超え、むしろ「のぞき込まされる」感覚に近づきます。これにより観客の視覚は拘束され、登場人物と同じ密室構造の中に幽閉されるのです。
この空間構成によって、観客は映画を傍観的に「鑑賞」するのではなく、登場人物と同様に〈そこに存在している者〉として、主題と正面から向き合わされます。つまり本作では、主題が「台詞」や「ストーリー」によって語られるのではなく、カメラと構図の物理的構成そのものとして、観客の身体に迫ってくるのです。
この作品では、観客は「考える」のではなく、「感じ、圧迫され、導かれる」ことによって、主題に否応なく引き寄せられます。
では、その主題とは、何なのでしょう?
<主題1:自由とは何か――〈自由意志〉と〈環境的強制〉の逆説>
本作の中核にあるのは、「自由とは何か」という問いです。とくに、自由意志は本当に自律的なものなのか、それとも外的環境によって条件づけられているにすぎないのかというテーマが強く打ち出されています。
主人公は冒頭で、「学校の教師」であり、「昆虫を研究する」という日常を生きる人物として描かれます。彼は自分の行動や価値観を“自分で選んでいる”と信じて疑いません。しかし、物語が進むにつれ、それらがすべて〈社会構造〉や〈職業倫理〉といった外部から与えられた枠組みに依存していることがあらわになります。つまり、彼の「自由」は最初から構造の中に封じ込められていたのです。
ところが皮肉にも、穴の中という極限的に制限された空間に閉じ込められたとき、彼は初めて“逃げない”という選択を「自ら」行います。この瞬間にこそ、真の自由意志が芽生えるのです。与えられた環境から逃れることができない状況のなかで、それでもなお意味を見出すこと。それこそが人間の自由である――本作はその逆説を体現しています。
このように『砂の女』は、従来の「自由=外部拘束からの解放」という単純な図式を転倒させ、「不条理の只中において意味を創出すること」こそが自由であるという視座へと、観客を導いていきます。
<主題2:実存の再構築――〈意味の倒錯〉と〈新たな価値の発見〉>
『砂の女』は、実存とは何か、そしてその意味がどのように構築され直されるかという問いにも深く切り込んでいます。
主人公は当初、自らの人生における価値を「昆虫の研究」に見出していました。これは知の体系を社会に還元するという意味で、いわば“社会的承認”に根ざした実存です。彼にとって「研究」とは、自身の存在証明であり、意味ある行為として内面化されていました。
ところが、穴の中という特殊環境に置かれたとき、彼が価値を見出すのは「水をためる方法を考えること」になります。一見、倒錯した選択のようにも見えますが、ここには重要な変化が起こっています。
両者はいずれも「知の探求」という行為においては類似していますが、その目的と価値の基盤が決定的に異なります。前者が“共同体”の中で承認される知であるのに対し、後者は“生存”という即物的かつ存在論的な条件に根ざした知です。つまり、意味の基盤が〈社会〉から〈存在〉へとスライドしているのです。
この過程を通じて、主人公の実存は再構築されます。社会的アイデンティティを失ったとき、人間はなおも新たな価値を創造し得るという点に、本作の実存的テーマの核心があります。そしてそれは、絶望の中においても人間の尊厳を回復しうるという可能性を示しているのです。
<主題3:認識の変化――〈構造〉への気づきと視座の反転>
『砂の女』における主人公の変化は、身体的拘束や心理的葛藤にとどまりません。最も深い層では、彼の「世界に対する認識」そのものが根底から揺さぶられていきます。これはまさに、認識論的な転回と呼ぶべき変容です。
当初、彼は都市に暮らす「文明人」として、穴の中の生活を“異常”で“野蛮”なものと見なし、自身の暮らしを「本来の世界」「正常な場所」と信じて疑いませんでした。しかし、脱出の失敗と、反復する日常を経る中で、その前提は徐々に解体されていきます。
やがて彼は、文明社会での生活もまた「構造化された檻」にすぎず、本質的には穴の中の生活と変わらないことに気づきます。社会の制度や規範、職業や役割――それらもまた“構造”であり、“与えられた条件”にすぎなかったという認識に至るのです。
このとき、彼の内なる視座は反転します。「外の世界」こそが幻想であり、「閉じ込められたはずの場所」にこそ、自己の真実と出会う場があったという逆説。これは単なる「順応」ではなく、現実そのものに対する深い洞察の結果として訪れた気づきです。
主人公は、信じていた構造が崩壊していく中で、無意識のうちに“剥き出し”にされていく存在です。言い換えれば、それは自己欺瞞の剥落の過程でもあるでしょう。
つまり『砂の女』は、閉じ込められた人間のサバイバルを描くだけでなく、人間の“世界理解の構造”がいかにして変容しうるかを精緻に描いた、極めて哲学的な作品なのです。
<主題4:労働と反復の存在論――“意味なき作業”に意味を見出すとは?>
『砂の女』における「砂をかき出す」という作業は、表面的には“無意味な反復労働”として描かれます。いくら砂を運んでも翌朝にはまた積もり、状況は一向に改善しない。そこにあるのは、成果も報酬もなく、ただ身体が消耗していくだけの作業です。
この「反復する労働」は、サルトルやカミュの実存主義的な“不条理”と深く共鳴しています。とりわけカミュの『シーシュポスの神話』における「石を押し上げることに意味を見出す存在」との一致は明確です。
しかしこの映画では、その“意味なき作業”のなかにこそ、主人公が〈能動的に意味を発見する〉プロセスが仕込まれています。水を溜める仕組みの発明はその象徴であり、与えられた不条理な作業に対して「自ら工夫し、技術を編み出す」ことで、能動的な主体に変わっていくのです。
つまりこの作品は、「人間がいかに“無意味”と見なされたものの中に意味を注ぎ込めるか」という存在論的な問いを内包しており、それ自体が生の倫理を問う主題になっています。
このように「自由」「実存」「認識」「反復」という四層が噛み合い、物語の骨格は見えてきます。
しかし、それでもなお残り続ける“何か”があります。
理屈では整理しきれない、感覚のほつれのような違和感――。
それが次の三つの疑問です――
<疑問1:なぜ女はセックスを見世物にされることを猛烈に拒んだのか?>
女が“激しく拒んだのは、単に羞恥心からではありません。彼女にとって岡田英次との行為は、過酷な環境のなかで唯一 “自分たちだけの領域” として機能するものであり、そこに〈他者の視線〉が介入すれば、彼女が辛うじて保っている自尊心も、彼への依存関係も崩れてしまうと感じていたからです。言い換えれば、男にとっての「水」が自我の最後の砦であったように、女にとっての「男との密かな結びつき」は、生きる意味そのものを支える拠り所でした。それを見せ物にしてしまえば、村人の支配構造に完全に取り込まれ、二人の関係は“商品”として消費されてしまいます。ゆえに彼女は、自由や報酬と引き換えにその境界線を差し出すことを、どうしても受け入れられなかったのです。
<疑問2:なぜ水を貯める装置の存在を女に打ち明けなかったのか?>
主人公が打ち明けなかったのは、彼に残されたわずかな「自由の領域」を守るためでした。穴の生活に完全に同化すれば、外へ出る可能性や自分で状況を選ぶ権利を手放すことになります。女と価値観を共有しないまま装置を秘密にしておくことで、主人公は「まだ自分の意志で環境を変えられる」という感覚――すなわち主体性の最後の拠り所――を死守していたのです。彼にとって水は生活手段ではなく、他者に依存しない「選択の証明」であり、それを渡すことは自我の砦を明け渡す行為に等しかったからです。
<疑問3:なぜ子宮外妊娠なのか?>
子宮外妊娠という設定は単なる医学的事象ではなく、「出産できない妊娠=出口のない希望」あるいは「未来を持たない関係」という象徴として物語に深く根ざしています。そしてそれは、主人公が彼女を完全には愛しきれなかったこと、2人の間に共有された価値観が最後まで欠けていたこととも見事に呼応しているように思えます。
この3つの疑問を束ね、さらに主題と構図を架橋しているのが、「砂」「水」「穴」の3つのメタファーです。
これらは単なる比喩ではなく、むしろ、物語を越えて私たち自身の奥底へと届いてくる、感覚としての思索です。
<砂──崩壊とエントロピーのメタファー>
砂は「世界そのもの」として、構造の不安定さや時間の不可逆性を象徴しています。
・積み上げても崩れる知・制度・人格──人間が築こうとするものの脆さ。
・止まらない侵食──静かに進行する「死」の予告。
・変わらぬ反復/変わる地形──「変わらぬ自分」を保つ困難さ。
砂とは、視覚化されたエントロピーそのものです。
<水──秩序と実存の核>
水は、唯一「努力によって得られる成果」として描かれます。
・生命維持に不可欠であり、知や創造の象徴でもある。
・砂のカオスに対抗する、能動的な秩序の生成。
・柔軟に形を変える水は、道家思想と儒教倫理の融合でもある。
水は、内側から湧き出る実存の証です。
<穴──実存の密室と母胎>
穴は単なる「閉じ込め」ではなく、実存的意味を帯びていきます。
・社会の縮図──隔絶されつつ、独自の秩序がある。
・子宮的空間──閉塞と同時に、再生や誕生の含意。
・実存のステージ──脱出しない選択こそが、自由の証明。
穴とは、生まれ変わりの場であり、彼の“外”との対置によって浮かび上がる「内なる現実」です。
この映画では、演出・脚本・構図・人物すべてが主題に従属するため、鑑賞後に残るのはテーマだけです。多層構造を誇る黒澤作品とは対極に、勅使河原宏は“主題の一点突破”で観客を殴りつけてくるのです。
砂を掻き、水を溜め、穴で営まれる終わりなき反復は、現代社会に生きる私たちの日常とどこか構造を同じくしています。崩壊に抗う行為にどういう意味づけを行うのか――その選択こそが、自由の有無を決めるのです。本作は、視覚を通じて「掘ることの意味」を問いかけてきます。そして今もなお続く「砂の穴」へと、私たちを誘いこんでくるのです。
鑑賞:WOWOWオンデマンド
評価:90点
砂の穴の中で暮らす女、何ともシュールな世界観だ。 女の家に泊めても...
毛細管現象?!〜武満徹の音楽との相性も素晴らしく。
1964年公開、配給・東宝。
【監督】:勅使河原宏
【脚本・原作】:安部公房
【音楽】:武満徹
主な配役
【休暇を利用し昆虫採集する教師】:岡田英次
【砂の女】:岸田今日子
1.安部公房に挑戦する気概を称賛したい
高校生〜大学生のころ、数多くの安部公房作品を読んだ。
まさに「読んだ」という言葉がピッタリで、共感したり、批評するレベルになかった。
安部公房や中井英夫を読んでいると自分が賢くなった錯覚に陥ることができた。
安部公房の作品は難解だと思う。
本作前半の男女の「砂の湿度」に関するやりとり。
観ているうちに、どちらが正しいかわからなくなってくる。
本作は、武満徹の音楽との相性も素晴らしく、
見応えある作品になっている。
ちなみに、
『箱男』も観たが、レビュー不能だった。
2.美醜、笑い、官能の理不尽劇
全編トリッキーな脚本だ。
耳の裏が痒いと騒いだり、
ラジオのノイズのようなジリジリ音(砂を表現している?)とともに唐突に部分ドアップが流れたり、
次は何だ?となる。
官能といっても、ダイレクトなそれではない。
夜通しの砂かき作業に疲れ切った女が
全裸で横たわって眠っている。
そしてそのカラダの上にも、砂が降り積もる。
3.砂まみれのラブシーン
静岡県の浜岡砂丘がロケ地とのこと。
後半まで観ていくと、こちらまで砂をかぶっている気がしてくる。
岡田英次 44歳
岸田今日子 34歳
砂まみれのラブシーンはなかなかの迫力だ。
スコップの持ち方の指南されるくだりは笑える。
4.まとめ
毛細管現象から物語は大団円?を迎えることになる。
とにかく、すべてが不条理すぎる!
☆4.0
マットな艶
タイトルなし(ネタバレ)
虫取りが趣味で、真剣にセカンドライフにしようとしてる学校の先生が蟻地獄の様な場所に捕まってしまう不条理劇で、流砂が生き物の様に撮影される映像と、ギラつく肌にまとわりつく砂粒、展開が読めない「砂の女」の低姿勢な、発言 態度 行動、そして恐らく砂が降る中でのカメラを守る撮影が大変だったであろう「裏日本」映画。
現代では「裏日本」なんて言わないが日本人達の都会と田舎の格差ギャップを台詞の言い回しで表現してたと思う。
オープニングの「印鑑」での苗字の表現方法、「各種証明書」の種類を全部言おうとする特定主義が「型にはめられる世界だけでは無い」世の中を表現しているのか?
序盤の"虫男"と"砂女"の会話が噛み合わないのが面白いが、後の"不条理"と"違和感"への予兆になる様に上手く作られている。
映画撮影は静岡県小笠郡浜岡町の千浜砂丘で行われた。
そもそもなんで男は砂女の所に降ろされたのかる? 砂女は何故こんな仕事をしてるのか? 村人たちの目的や利益は?
なんと「砂ビジネス」が理由だったとは、、
見所でもある「脱出、逃亡」のシーンでの複数の懐中電灯の灯りが闇夜を追ってくる演出。脱出は失敗したが、しかし新しい趣味を見つけて、教師の仕事を捨てる決心をしたのか、脱出よりも「それ」に没入する男。徐々に世捨て人になって行くが、それは村人から強制された事では無くて 自身で見つけた新たなセカンドライフなのか?
35mmフィルム上映にて。
ものすごい閉塞感
何十年も前にテレビの深夜枠で放映されていたのを観て、かなりのインパクトを受けていましたが、レンタルビデオも出ておらず、セルビデオを購入するまでもなく、そのまま記憶の奥に沈んでいました。
今回、たまたまyoutubeで再見する機会がありましたが、相変わらずの閉塞感と不快感に圧倒されました。
まず、岸田今日子の絶妙な不細工感が秀逸です。
これが、誰でも認める程の美人だったら、あの家は楽園になって脱出したいとは思わなかったでしょうが、そうではないだけに、逃れたい一心になったのだと思います。
日常でも、何とも思っていないちょっと不細工な異性から間接的な好意を寄せられ、困る事があると思います。性格も良いし別に嫌いではないが好きでもない、相手を尊重しつつも距離を保っている人間関係があると思います。
そんな相手と狭い空間に閉じ込められ、一生そのままかもと思う絶望感は半端ないと思います。
この作品はその感覚を上手く描いていると感じました。
また、最後の逆説的な行動も、諦めなのか余裕なのか、納得なのか、考えさせるものがありました。
未亡人役の岸田今日子氏の段々と女に目覚めていく過程は白眉、彼女の代表作ですね。
新文芸坐さんに「安部公房生誕100年 超越する芸術・勅使河原宏との仕事」と題した特集上映。初期代表作『砂の女』(1964)『他人の顔』(1966)を鑑賞。
『砂の女』(1964)
ある高校教師(演:岡田英次氏)が昆虫採集の途中、村人(演:三井弘次氏)に出会い宿を紹介されるが、蟻地獄のような砂地の宿から逃げることができず、宿に住む女(演:岸田今日子氏)と反目し合うが、やがて惹かれ合う話。プロットとしてはスティーヴン・キングの『ミザリー』(1990)に近いかと思いきやさにあらず。
男は何度も砂地からの脱出を試みるが、井戸水が毛細管現象で手に入ることを発見したり、女との間に子どもを授かったりするなかで、ストックホルム症候群なのか、新たな自分の居場所を見つけたのか脱出に成功しても砂場に戻ってしまう。
脚本も阿部公房氏が担当しており男と女の心境の変化、失踪三部作の第1弾として現代人の心の病巣をしっかりと描かれていましたね。
監督の勅使河原宏氏は流石、東京藝術大学日本画学科、洋画科卒業だけあって、どのシーンも美麗。特にもうひとつの主役である砂丘の風紋や崩れ落ちるシーンは白黒映画ならではの陰影、カラーでは再現できませんね。二人の体にこびりつく砂粒もリアルで砂場の生活の過酷さを見事表現していました。
岡田英次氏の演技も素晴らしいですが、未亡人役の岸田今日子氏の段々と女に目覚めていく過程は白眉、彼女の代表作ですね。
また村人役の三井弘次氏のいかにも訳ありで底意地が悪そうな感じも良かったです。
本当に真摯な映画化作品
石井岳龍による『箱男』が製作されていることもあってか、新文芸坐で本作がかかっていたので鑑賞。
率直に、真摯な映画化作品だったと感じた。原作の閉塞感やテクスチャが上手い具合に映像に落とし込まれている。高低差のある砂の崖をちゃんと用意したり、家屋の内部まで砂を敷き詰めたりと、原作にあった砂の鬱陶しさをきちんと再現していたのが偉い。
特に感心したのは、原作同様に隣家の様子を一切描かなかったことだ。原作は隣家の存在を示唆しつつもそれを一切描かないことによって寓話としての浮遊性を獲得していた。本作もまたそこに無駄な差し引きをしておらず、寓話としての原作の強度を継承できていた。
また脚本にも過不足がなく、数年前に読んだ原作の内容をはっきりと思い出すことができた。万物が機能に還元されてしまう砂の集落に放り込まれた男の苦悩を通じて、現実世界もまた曖昧な社会システムによってかろうじて個人なるフィクションが担保されているだけの虚構世界であることを喝破してみせた安部公房の文学的手捌きにただただ圧倒される。
とはいえ本作は「真摯な映画化作品」であっても映画としてはそこまで傑出していない。昆虫や肉体を接写することで生物の持つグロテスクな側面を誇張するような映像表現は半世紀以上前にルイス・ブニュエルが散々試みていたことだし、意味があるとは思えないところで手持ちカメラを使っているのも興を削ぐ。覗かれた穴側からのフレーミングや太鼓の鼓動による焦燥感の表現なども言いたかないけど凡庸だ。
勅使河原宏の映画を観るのは本作が初だが、どうにもセンスだけで撮っているような感が否めない。無論、上記のような諸演出を思いつくことができるのは彼の卓越したセンスゆえだとは思うが、百余年を数える映画史の前で臆面もなくそれを誇示できるのはいささか傲慢なのではないか。
ただ、繰り返すようだが映像の完成度と原作の再現性という点においては本作は非常に優れている。映画史とかどうでもいいよ!という方には普通に自信を持って勧められる一作だ。
人間の個としての独立 人間社会の個の封じ込めと個の埋没 その不条理 それでは陳腐かもしれません でもそうとしか表現出来ません
人間は犬じゃない
鎖をつなぐわけにはいかないよ
1964年公開、白黒作品
原作は安部公房の1962年の小説
川端康成の次に日本人でノーベル文学賞をとるのは彼であろうと目された作家でした
作風は本当に難解
本作と同じく何が何だか皆目わからない
本作はその原作が難解そのまま映像となっていて、その難解さを忠実に映画化したと言えます
なぜなのか訳もわからず蟻地獄のようなところに閉じ込められ生活することを強要される物語
逃げようとするのだがどう足掻いても逃げられない
家庭生活というものはそんなものだ
文字通り砂を噛むような単調な毎日
そこから逃げて出そうとしてもどうにもならない
いつしかあきらめてそこに安住している自分を発見する
単にそのような底の浅い物語のようにも思える
しかし、その程度の幼稚な内容ではないし、そんなものを書くような原作者ではないともわかっている
ところで
プリズナーNo.6というイギリスのテレビドラマをあなたはご存知でしょうか?
伝説のカルト作品です
日本では最初1969年にNHKで放送されました
以後民放などアチコチで再放送されました
放映当時まだ子供でしたが、訳も分からないくせに何かしらとても惹きつけられて夜遅い時間帯なのに夢中で毎回視ていました
本作はそれと似ています
あるいはジョージ・オーウェル「1984年」にも似ているかも知れない
その「プリズナーNo.6」は一見、スパイもの
辞表を上司に叩きつけたばかりの元イギリス情報局員が拉致されて、外界から隔離された不思議な村に閉じ込められ何故辞めたのかをしきりに問われるが主人公は絶対に口を割らず、毎回隙を見て村からの脱出を試みるという物語
これも東西冷戦を背景にした共産圏の管理社会の当てこすりのようで、そんな程度のそこの浅いものではなかったのです
人間の個としての独立
人間社会の個の封じ込めと個の埋没
その不条理
簡単に言えばそんなところなのでしょうか?
それでは陳腐かもしれません
でもそうとしか表現出来ません
プリズナ-No.6はそこに安住するならば快適な村
砂の女の家は、絶えず不快な砂まみれ
表裏一体です
本作もそういう作品なのだと思います
海辺の貧しい村の住民に捕らわれた昆虫学者の運命とは⁉
人間の根源的な生命力を特殊な環境で描き切った日本映画の力作、その驚嘆と圧倒
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