「子供の世界は世紀末式」少年時代(1990) モアイさんの映画レビュー(感想・評価)
子供の世界は世紀末式
井上陽水が唄う名曲をバックにあまりにもベターなラストシーンが否が応にも郷愁を誘う本作。
日本版「スタンド・バイ・ミー」(86年)といった感のある本作ですが、「スタンド・バイ・ミー」と比べると少し弱い印象です…。
物語は昭和十九年の夏に両親の元を離れ、東京から富山の親戚の家へ1人疎開することになった国民学校5年生の主人公:進二の約1年間に渡る疎開生活の模様を追っていきます。
大人に対するチクリは厳禁。異性との交流はイジリの対象。力あるものがボスとなり、イジメはボスの号令で発動される。ボスのやることに少しでも不服な顔をしたり、気に障ったら直ぐに鉄拳制裁。と、大人たちの目の届かないところで構成されている子供たちの世界は力が全てを支配する正に世紀末な感じです。この古き良き?子供の世界を本作は忠実に再現しております。
私は映画の子供たちよりだいぶ後の世代ではあるのですが、やはり子供の頃の人間関係の原則は似たようなものでした。なのでこの映画を見ていると、あぁそういえば子供の頃の人間関係ってこんな感じだったなぁと懐かしく思うのです。
東京から1人やって来た進二を最初に訪ねてきたのはクラスの級長を勤める大原武です。武は幼い弟をおぶって家の畑仕事を手伝っていたりして、近所の大人からの評判も良い子ですが、クラスの子供たちを仕切っているガキ大将でもあります。
「仲良くやろうぜ」と声をかけてくる武。進二の部屋にある「少年探偵団」等の小説に興味を示し、進二の部屋へよく遊びに来るようになります。ところがいつものように進二の部屋に武が来ている時に、叔母が進二を呼びます。なんでも進二と同じように一人で疎開してきた親戚筋の女の子が訪ねてきたから顔を出せというのです。武が来ている事もあり乗り気のしない進二ですが、叔母に促され渋々、武を自室に残したまま女の子へ挨拶しに行きます。
台詞こそないものの明らかな嫉妬心を覗かせる武。この日を境に進二はクラスからのけ者扱いされるようになっていきます。
進二のちょっとした失敗に対してクラス全体で「あーあ」の大合唱。進二が話しかけるとその挙動を真似ながら言葉をオウム返しする嫌がらせ。泣き出す進二に「『東京』が泣き出した。泣き出した『東京』が」という煽り。どういう立場でそこに居たかはともかく、これらの既視感あふれるイジメ描写がやけに生々しいのです。
武は自ら表立って進二をイジメるわけでもなければ、イジメを止める事もないのですが、他の子供たちの前では進二を自分に従わせようと高圧的です。そのくせ進二を訪ねてきては借りた本を律儀に返し、進二を海へ誘ったりもするのです。そして武と距離のあるクラスメイトの田辺太がのけ者となった進二を風呂や家に誘うとその事に腹を立て、太とタイマンを張ります。そして進二が太にしてあげた事(進二は小説を暗記しておりソラで語って聞かせることが出来るのすが)を自分にもしろと進二に迫るのです。
進二が自分に従い物語を語って聞かせてくれた事に気をよくした武は、自分の取り巻きの前でも進二に物語を語らせ、その事を機に進二のクラスでの立場は改善されていきます。
権力者に気に入られその威光によって自身の安全が保障されるという構図がこれまたやけにリアルです。
それでも武は事あるごとに進二が自分の意に従うように高圧的な態度を示すのですが、武のこの態度に進二も「どうして大原君はこんなに優しいのに、どうして…」と困惑します。
たぶん武にはこれまで真に好意を抱いた友人がいなかったのでしょうし、武の同年代の子供に対するコミュニケーション方法は腕力で相手を制するという形だったのでしょう。そこへ進二という初めて好意を抱ける友人が現れたものの、接し方が分からず、他の子供たちへの示しと進二への好意と独占欲とが折り重なった結果の態度だったのだと思うのですが、その事を武も進二も理解していないのです。
クラス内の勢力図が目まぐるしく変わり、武と進二のクラス内での立場も大きく変わっていくのですが、この余りに幼く未熟な対人関係が変化することは、映画内では無いのです。
とても日本的で湿度の高い人間ドラマをやけに淡々とドライに描いていくせいか作品の印象は薄いのですが、映画で描かれる子供たちの過酷な世界を呑気に懐かしく感じるのは、それだけ自分が子供の世界のリアルから遠い存在になったという事なのでしょう。
無邪気で素直で愛らしく、既成概念に囚われない柔軟で純真な子供の姿に癒されたいという思いは私にもありますが、下手な創作物に登場する様な余りに大人の癒しのために理想化された子供像は嫌いです。なので、子供が元来持っている排他的で保守的でエゲツナイ行為を自然と実行してみせる生々しい姿を見せてくれる本作の方が個人的には好感を持って鑑賞できます。
人によっては心の奥へ封じ込めたトラウマを呼び起こす恐れがあるので鑑賞の際には注意が必要ですが、誤魔化しのない少年時代を思い出させてくれる映画だと思うのです。
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山田太一メモ
私は脚本家:山田太一のファンでして、本作はTVでの仕事がメインだった氏が関係した数少ない映画作品の一つです。以下は山田太一ファンとして本作を見た印象の雑記となります。
原作は柏原兵三の小説「長い道」を安孫子素雄(藤子不二雄Ⓐ))が漫画化した「少年時代」で、映画化に際して脚本を書いたのが山田太一。というようにやたら多重構造の本作。他に原作のある映画ですし、私は原作未読ですのでどこまでが山田太一の仕事かをちゃんと確認できないのですが、山田太一らしいと感じられる箇所はそこそこあります。
進二の父を演じるのは細川俊之。山田太一作品にはTVドラマ「終わりに見た街」(82年)、「時にはいっしょに」(86年)、映画「飛ぶ夢をしばらく見ない」(90年)があります。
進二の母を演じる岩下志麻と、疎開先で世話になる叔父を演じる河原崎長一郎は名作ドラマ「早春スケッチブック」(82年)で夫婦役を演じていました。
また河原崎長一郎は他にも「友だち」(87年)、高倉健の最高傑作「チロルの挽歌」(92年)等々、山田太一脚本作品にそこそこ出演しています。
私は河原崎長一郎の穏和な佇まいと温かみのある声色が大好きです。
叔父:河原崎長一郎は疎開してきた進二と付き添いの母:岩下志麻を駅まで迎えに来るのですが、途中で「もう道は分かるよな?」と二人を置いて自転車で先に帰ってしまいます。(進二の大きな荷物は持ってくれているのですが…)
進二は「本当に叔父様?」と不安げです。母は「何を話したらいいか分からないから先へ行ったの。いい人なの…」と優しく微笑みます。
親子が叔父の家に辿り着くと「先に帰ってくる迎えがどこにいますか」と奥さんに呆れられている叔父がいるのです。叔父は奥さんからお小言を言われている間も、進二が「お世話になります」と挨拶している間も、奥の土間で薪木などを積んで話の輪に入ろうとしません。ひどく口数の少ないこの叔父が疎開生活最初の晩に進二にこうアドバイスします。「叔父“様”はいかん。叔父“さん”でいい。」・・・いや、この人なんなんだよと思わせますが、そういえばこんな感じの人が自分の身近にもいたかもと思わせる生々しいキャラクター像が山田太一らしく、いい味出しております。
また物語のラスト、東京へ帰る進二を見送るシーンで進二のクラスメイト達が手向けとして軍歌を唄います。この時にはもう日本は敗戦しているためか、子供が軍歌を唄う事を駅長が咎めます。(駅長:大滝秀治。山田太一作品には「夕陽をあびて」(89年)等数作)
河原崎長一郎は「他に歌を知らんがよ!軍歌以外に知っとらんがよ!」と子供を咎める駅長を咎め、子供たちに軍歌を唄い続けるよう促し、しまいには自分が率先して「若鷲の歌」を唄います―。
山田太一は自身のエッセイの中で終戦の日を境に大人たちの言っている事が180度変わった事に衝撃を受けたと語っていました。なので自分はあまり大きな感情に囚われないように生きたいと思っているというのです。
山田太一はこの映画の主人公たちと同い年です。まだ幼い山田太一には戦中と戦後の思想のどちらが好ましいか?ではなく、情勢が変わったとたんにコロッと宗旨替えしてみせる大人や日本社会の軽薄さに驚いたのではないかと思うのです。軍歌を子供たちに教え、唄う事を推奨さえしていた大人たちが、昭和20年の8月15日を境に今度は子供たちに軍歌を唄うなと、取り上げようとしている様の無責任さへの憤りを表しているように感じられるシーンなのです。
また山田太一はTVドラマシリーズ「渥美清の泣いてたまるか」の中で『ああ軍歌』(67年)という回の脚本を担当しています。このドラマでは本作とはまた違ったアプローチで軍歌をテーマに戦後を生きる戦中世代を描いており、これも短いながらとても素晴らしい内容です。
戦争が終わり東京への帰り支度をする進二に迎えに来た母:岩下志麻が語り掛けます。
東京は空襲が酷かった事、亡くなった人も多くいる事。そして進二は幸せだと、穏やかな田舎でいい人たちに囲まれて何事もなくて―。と。進二は黙々と帰り支度をし、母の言葉に何の反応も示しませんが、この一年間 進二がどれだけの経験をしたのかを知らない母!
誰が悪いという話ではないのですが、この決定的な認識の違いに観ている我々の胸中には何とも言えない感情が湧きあがります。こういった味わいを見せてくれるのがなんとも山田太一らしいと感じるのです。
とは言えこれらは私が勝手に山田太一らしいと感じているだけで、ちゃんと原作通りなのかも知れません。なのでそのうちちゃんと原作も読んで映画と比較してみようと思います。