秋刀魚の味(1962)のレビュー・感想・評価
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日本映画
監督作品から見たわけではなく、
この時代の役者のセリフの言い回しやカット割りなどに興味があり鑑賞。
出る女優がすべて美人であり、演じ方が今とは全く違う。どことなく目が笑っていないのか、日本人形のような印象。でもなんかセリフの言い回しが可愛い。
なんかはまってしまった。
“ダメよ、ダメ、ダメ”や
“〜言ってやったのよ、フンッ”などなど…
カット割も独特で、恐らく演じている時に相手はそこにいないのがわかってしまうような感じ。
だから目が合っていないような違和感が生まれるのか。
時代背景、男女バランス、夫婦バランス、など鮮度があっておもしろかった。
無理矢理な脚本ではないからスッと見れてしまう。
今の映画脚本とはまったく違う。
岩下志磨さんが本当に美人です。
そして
“ひょうたん”あの方が初代水戸黄門だったんですね。
韻を踏む様な台詞。相槌を打つ。つまり、会話を確かめ合う。
『日本は戦争負けて良かった』
『そうですかね?うーん、馬鹿なやつがえばらなくなったから良かった』
韻を踏む様な台詞。相槌を打つ。つまり、会話を確かめ合う。
それが小津安二郎監督の良い所だと思う。
映画のストーリーは昭和の男目線な古い概念で進んで行く。
ここの登場人物は、本当の貧乏人ではない。飲んでいるウィスキーが『ホワイト』。飾られているウィスキーが『オールド』。高級料亭みたいなところで飲むは『ジョニ赤』
ゴルフなんて、この頃は影も形もない時代だった。
洗濯機、冷蔵庫、掃除機が普及し始める時代で、テレビ、電話、自動車は出始めの頃だ。
つまり、この映画で描かれる家族は、中産階級以上の家族で、『秋刀魚』と言うからには目黒の高級住宅街で走る電車は、大方目蒲線か井の頭線じゃないかな。
因みに僕は江戸川区小岩。下町の出身だ。下町が全員貧乏人ではないが、我が家は、テレビのブラウン管には幕がかかっていて、仰々しく、鎮座していたのを思い出す。
ちなみにちなみに、僕が最初にハマったテレビ番組は『アラカザンの魔法』と『ハワイアン・アイ』って番組だそうである。あまり覚えていない。テレビがあるのは親父が外国のドラマが好きで、安月給で買っていたからだ。勿論、白黒テレビ。
2023年 12/26 数少ない友人から旧国営放送で『秋刀魚の味』やってるよってラインが入る。
残念ながら、我が家にはTVが無いので『もう、見たよ』とだけ答えた。でも、気になるので、もう一度見てみた。しかし、旧国営放送は冬真っ盛りの時に秋刀魚とは季節感が無い。
この所、小津安二郎監督の映画を何本か見て、思ったことは、この手法は後の『TVドラマ』に利用されていると感じた。『CASTや設定を使い回す』経費を抑えて、演出に力を入れる。小津安二郎監督だから出来る事である。しかし、高学歴だけのTVディレクター上がりが作ったドラマは、ただのマンネリですぐ飽きられる。だがしかし、日本人は忍耐力が強く、50本も同じ映画を見せられて『名作』と言わしめる。『日本は良き苦になり』じゃない 『日本は良き国なり♥』
晩春につづき
チャンソバ屋=瓢箪 魚編に豊=秋に刀の魚
内容は、娘を嫁に出す前の父親の気持ちと主人公家族を中心とした群像劇。作品の中に、人生の後悔。真実と嘘。時代錯誤。脆弱己。葛藤と時代性。諦観と希望。絶望と夢。様々なテーマを盛り込んだ小津安二郎作品最後の作品。好きな言葉は『一人になってしまったなぁ…』主人公が嫁に出した娘を思いやる台詞が時代性を感じる。戦後間も無く生きた時代を懐かし見るような言葉は常に繰り返されて監督の諦観に似た言葉だったのかもと感じる所があったからだ。好きな場面は『燕来軒』ひょうたんの経営するソバ屋の屋号を背景に、杉村春子が嫁に行き遅れた後悔と絶望で、酔って老いた父を横目に右向きで涙を🥲流すシーンと対をなすシーンで主人公が餞別を持って来て帰った後『燕来軒』の看板を背後にしつつ、ひょうたんが仕事着のまま深い溜息と絶望に沈んだ目で、右向きに同じ位置に腰掛けるシーンに唸りました。…‥その名前も『燕来軒』嫁に行き遅れた娘に若い燕が飛んでくる様にとの父の思いもあったのかと思うと寂しさが倍増して味のあるシーンだなぁと感じました。その他にも様々なメッセージが豊富にあります。戦後間も無く傷跡深く残る時代の背景もよく分かります。海岸式の敬礼(恥を立てない甲板の上では邪魔になる為)支持する場面は長く戦争の辛さと懐かしさを思う時代だったのかもと思いつつ良い歴史的資料になりました。冒頭の工場の🏭が5本がこの主人公の家族の様で、父に借りた5万円の様でそれぞれ煙に巻く思いが複雑に絡み合いお互いに人の気持ちが分かり合えない事が、人間として社会生活上で過去にも現代にも通じる問題だと思います。お互いの分かり合えない寂しさのと結果人は『ひとりぼっちになってしまった…』そうなのかもと言う監督の思いが込められてる様で深い考えには感慨深い物があります。ミッドポイントで岩下志麻が兄さんの部下と駅で🚉話する場面も折り返しにはピッタリだと思いました。その後に工場の🏭と煙に気持ちの揺らぎが感じられ素直に目に入る表現は素晴らしい。最後の階段下で左向きで寂しげに、でも娘の幸せを切に願う父親の気持ちとそれでも俯きながら座ってしまう背中には様々な思いが飛来し切なくなりました。見る人により様々な思いがあるかもわかりませんが、自分としては非常に見応えのある作品でした。
東野英治郎
ひょうたんとあだ名された先生・東野英治郎の泥酔演技はさすが。素面の時の平身低頭姿勢も哀愁を漂わせていい雰囲気だ。掃除機、冷蔵庫、高度経済成長期における三種の神器と呼ばれる家電と生活臭が懐かしさいっぱい。といっても知らない時代ですが。
見合いでもなく、周りでどんどん縁談をすすめる昭和の良き時代。兄の同僚の三浦にちょっと気があっただけだったのにすれ違いで・・・と、その後があっさり決まってしまう。子どもたちの目線はほとんどなく、父親と親友2人の描写が中心。
「(人生は)ひとりぼっち」という言葉で、小津の人生観を象徴する。結婚させた方が娘の幸せになるんだという思いが伝わってくるが、それよりも寂しく死に行く前に身辺整理をしただけのような気がしてならない。日本の敗戦についての考察も興味深いところだ。
秋刀魚を焼いてあげたい
父親のわびしさ
私が映画に興味を持ち始めたのは大体中学生位だったので、すでに小津安二郎の新作を見る機会はなくなっていた。
かなり大人になってから、フランスで小津の映画が人気があると言うことをニュースで知り、レンタルビデオで見始めた次第である。
評価の高い作品を一気にまとめてみたせいで、どれも笠智衆と原節子が出ているので、正直どれがどうだったかあまり区別がつかなかった。
ただ、この映画に関しては、原節子でなく岩下志麻だったのでよく覚えている。娘を嫁に出す笠智衆のセリフと表情に、父親のわびしさを感じる。
酒をこよなく愛する男たちの、良い意味でも悪い意味でも昭和的で、一つ一つの会話にノスタルジーを感じる。バーのシーンもいかにもセットっぽい感じなんだけれど、それが味があるんですね。
この時、笠智衆は実年齢では58歳だった。
他に類のない"豊かさ"
劇中に詰まった無限大の人間味を、底なしに噛み締められる他に類をみない素晴らしき作品… セリフのひとつひとつに、人生や人間関係についてしみじみと考えさせられる豊かな"含み"を持たせた大傑作です。
ゆったりと平和な昭和の日常を描いた作品でありながら、多角的な視野から映し出した人間模様がなんとも良い…。定点カメラから対象を第三者的視点から客観的に観察しているかと思えば、シーンの切り替わりで見えている角度が変わる。作中の登場人物の視点から、お互いを見つめ、観察することを通して観客の感じ取り方を無限に味わうことを可能とする、そんな映画における最大の魅力を引き出した革命的な手法は、時を超え、国を超えて普遍的に評価される最たるものであるように感じます。
技術的な観点で映画の引き出す最高の魅力を発見した遺産級の作品でありながら、日本的な良さを現代の我々と世界に知らしめる偉大すぎる作品であるように感じられます。登場人物達の人間関係には、なんだか程よい"余裕"があるように思えました。昭和を生きたことがない私には真偽のほどはわかりませんが、当時の社会、人間関係にある種の心の余裕というか、豊かさがあったのではないかと感じます。
会話はゆったりとしたテンポで行われるのに、一切気まずさが感じられません。作中では集合住宅であっても簡単にお隣さん家にトマトを借りられるし、ふらっと他人のお宅も訪問できる。こんなにも密に人と関係を持ってたら、さぞかし気遣いとストレスで疲れるだろうと思ってしまうのですが、お互いに緩やかな人間関係が形成されており、なんともあっさりしています。そんな緩やかな形成体系の中で多くの人と繋がりを保ちながら、適度な距離感がある。例えば、お酒の場でもあっさりとおいとまを切り出せるし、数年前にちょっと関係のあった人と一緒に飲みにも行ける。戦時中に海軍の部下だったという男性から一緒に飲みにいきましょうと誘われて、本人は「はて、どなたでしたか」なんて言ってるにも関わらず、です。現代に生きる私からすれば、そんなこと到底出来ませんけど、それが当たり前にできるなんとも器用な人間関係に、心底憧れました。
戦後間もない、昭和を描いた映画ですから、所々に男性優位が垣間見れるシーンがありますけれども、作品では女性の偉大さを身に染みるように語りかけているように思えます。「私は人生、失敗しました。娘を便利にしすぎたから、独りぼっちです」"ひょうたん"先生の廃れた姿は、女性の存在に支えられながらも、その偉大さに独りよがる世の男性達に警鐘を鳴らしていたのかもしれません。
杉村春子が良い。
哀愁
妻を失った男が、頼りの娘を嫁に出す話。
娘を傍に置いておきたい父親、父親が心配な娘、家族というものが重んじられていた時代を感じることができた。
結婚というものも、現代とは異なる認識であることがよくわかる。
しかし、男やもめとその娘の気持ちはなぜかよくわかる。
東野英治郎さんが演じる男やもめは、娘を嫁に出さなかった。そのしっかりした娘がこっそりと涙を流すシーンは辛かった。
今でこそ、結婚をしなくても男女関係なく好きなように生きていけるが、時代が違えば結婚をしないことは不安や孤独を暗示しているのだなぁ...。
軍艦マーチを懐かしむシーンはあるが、戦争を語ることはない。
ただ、大切な娘を嫁に出すことを考える父親が描かれている。
もっと年をとってからみるともっと深く読み取ることができるのかなぁと思った。
これぞ小津作品の完成形ではないでしょうか
秋刀魚は登場しません
そのほろ苦い味をタイトルにしています
1949年 晩春
1951年 麦秋
1962年 秋刀魚の味
この三作品はテーマが同じです
特に本作は晩春の実質的なセルフリメイクと言って良いと思います
ヒロインが原節子ではなく岩下志麻なのは、流石に年月が流れて彼女の年齢では最早無理との判断と思われます
男やもめの初老の男が娘を嫁に出すという物語なのですから
よって本作のヒロインの名前は路子で紀子ではありません
紀子は原節子の為の永久欠番のような名前なのだと思います
岩下志麻は美しく気品もあり適役ではありました
しかしやはりその姿の向こうに原節子の面影を見ているのは観客だけでなく小津監督もその面影を追っていたように思います
主人公の周平の会社は京浜工業地帯の横浜寄りのようですし、彼の言動から家はどうも川崎辺りの雰囲気です
ヒョウタンのラーメン屋、そこで出会う加東大介の演じる海軍時代の部下が連れていくトリスバーはおそらく蒲田であろうと思われます
長男の光一の住む団地は池上線の石川台駅の近く
あの辺りに公営団地は無いので、社宅という設定なのだと思います
ところが路子は石川台駅で三浦と一緒に石川台駅の五反田方面のホームに立っています
本来なら反対側の蒲田方面のホームに別れて蒲田から京浜線で川崎の家に帰るべきところです
なかなか手の込んだ演出の仕掛けだと思います
同級生があつまる料理屋の若松はネオンの位置から見て銀座6丁目と7丁目の間辺りのようです
ラジオのナイター中継は大洋阪神戦
調べて見るとその年は阪神優勝で大洋は2位の結果でした
杉村春子の演じるヒョウタンの娘
アラフィフで独身のままの無惨さを圧倒に雄弁に演技で語って見せます
晩春における、父親が娘に嫁に行けと雄弁に語るシーンを本作ではその杉村春子のシーンで置き換えているのだと思います
本作の方がよりスマートに雄弁に語っていると思います
のんびりして真剣に取り組まなかったが為に路子の縁談相手が他に取られたと言われて周平が焦るシーンも見事な伏線回収で鮮やかな決まり方でした
軍艦マーチが何度かかかります
それは過去を懐かしむ、過去の思い出にしがみつく心情の記号として扱われています
加東大介が演じる自動車修理工場の社長は周平を案内したトリスバーで海軍時代を盛んに懐かしむのですが、周平は全く関心を示しません
周平もヒョウタンも現在をただ懸命に生きていて過去を振り返って懐かしんだりしていないのです
しかしラストシーンで酔いつぶれた周平は軍艦マーチを口ずさんだのです
過去の方に心が向かってしまった心情を見事に表現した演出です
もちろん娘の路子の面影を反芻しているのです
海軍の思い出なのではありません
自分が若い時の思い出
妻がまだ生きており、まだ小さかった頃の娘の思い出に耽っているのです
しかし彼は泣きはしません
秋刀魚の味のようにほろ苦い思いが胸中に詰まっています
秋刀魚の味は美味しいのです
酒に合うのです
こんな美味しい酒は無いのです
秋刀魚の味を快く噛みしめているのです
晩春での再婚の嘘の設定を、死別した妻にトリスバーのママの面影が似ていたという話で置き換えてよりスマートに処理されています
また娘のエディプスコンプレックスという別の要素を入れ込むこともなく、焦点を絞りめてもいます
本作は大変にスマートに何度もトライしてきた主題を本当に最後の最後で完成させたのだという実感を感じます
これぞ小津作品の完成形ではないでしょうか
なぜこんな映画も飽きずに最後まで見られるのか?
この作品は確かに皆さんがおっしゃるように庶民生活の喜怒哀楽が込められていて美しい映画である。すぐに飽きてしまいそうでなかなか飽きない。微妙に面白いエピソードが連ね流れており、最後まで飽きない味わいのある作品になっている。
しかし本当にそれだけの映画なのだろうか?
それだったらこんなふうに人物を正面と彼から取る必要があるのだろうか?
この映画の冒頭部分に注目すべきショットがある。穏やかな対応している主人公の背後で煙がもくもくと渦巻いているショット。このショットを我々は見逃してはならない。
人間の顔というものは感情を表現するためにできているのであるが、同時に感情を偽ることもできる。
この映画には「嘘」にまつわるエピソードが2つも含まれており、それは明らかにこの作品のテーマあるいはアンチテーゼを暗示している。まるで、この作品全体を通した「嘘」を見抜いてみよ…と挑戦されているようだ。私にはこの映画が、単なる人情物語だとは、どうしても思えない。
常に人物を正面からとらえることにより、だんだんとそれが人間ではないように見えてくるから不気味だ。この人は口ではこう言ってるし顔では笑ってるけども本当にそうだろうか…という不安に駆られてくる。人間が相手と心が通じたとか感動を共有したというのは実は稀なことであり、またそれも全面的ではなく1部分のことである。しかし、その一部が通じたということか、また人間にとって、とても嬉しいことなのだ。この映画の一場面一場面を見るにつけ、きっとこの登場人物は、こう考えてるに違いない…と考えてみる。私はこの映画をそのようにして味わってみた。
この作品は、小津安二郎の作品の中では3番目とか4番目に位置づけられているが、私はno1と推薦したい。
なぜ小津は分離を描き続けたのか
小津ちゃんの遺作である本作を鑑賞した後、もしかしたら彼は自身の母との関係をずっと描いてきた人なのでは、という連想を抱きました。
生涯独身だった小津は、終生母親と暮らしていたそうです。そして本作は母親と死別後に撮った作品。トボけた味わいのあるユーモラスな雰囲気ながら、その影響はモロに出ていると感じました。
本作では、対象を喪失した悲しみよりも、強烈な孤独感が印象に残ります。「ついにひとりになってしまった!」という小津の内面に渦巻く動揺が伝わってくるようです。
主人公・智衆の恩師である東野英治郎演ずる老人ひょうたんと、杉村春子演じる中年娘との関係は、小津自身と母親が投影されているように思えました。
ある夜、ひどく酔ったため、智衆ら教え子に自宅まで送ってもらったひょうたん。ひょうたんは歳のいった娘と2人でラーメン屋を営んでいます。
送り届けた教え子たちが去った後、ぐでぐでのひょうたんと娘の2人だけになり、突如娘が涙を流すシーンは強烈です。ライトも陰鬱となり、異常なまでの暗さと惨めさが描かれていました。いずれひとりになり、じわじわと孤独と絶望を生きる運命からもう逃れられない。そしてその運命から脱するチャンスは過去にあったかもしれない。父親から離れて、自身の幸せを追うこともできたかもしれない。けれど掴めなかった。もう遅すぎる。そんな後悔の念まで感じられる、凄まじい場面でした。
ひょうたんの娘は2シーンくらいしか出てきません。役どころとしてはチョイ役ですが、ここに名人・杉村春子を配した意味があるのだと思います。
(東野英治郎と杉村春子の顔が超似てるというギャクの面もあると思われる)
小津のバイオグラフィでは、未婚であるよりも、終生母親と暮らしたことに違和感を覚えていました。そんな人が、娘の嫁入りや家族の死別等、喪失すなわち愛する対象との分離を描き続けたわけです。
(正確に言うと関係性全般がテーマですが、喪失・分離が特に目立つ印象です)
これまで、小津はなぜ分離を描き続けたのかよくわかりませんでした。しかし、本作を観て、小津自身が分離できない苦しさを抱えていたからなのでは、と思うようになりました。
表面は父と娘の物語ですが、それは分離できない母と子の翻訳なのかもしれません。
小津が体験したリアル喪失を彼がどのように乗り越えるのかは見ものですが、それが作品化されることはなく、小津は母の後を追って亡くなりました。本作が遺作になってしまったのは残念です。
演者について。岩下志麻はさすがの美しさですね。鋭い美貌。でも、歳食ってからの志麻の方が妖艶で魅力があるようにも感じます。
あと、智衆の友人の若い奥様がとても美しくて品があり、目を惹かれました。誰かと思いしらべたところ、環三千世というヅカ出身の方でした。若くして引退、しかも早逝された方のようで、wikiもないですが、小津の『小早川家の秋』にも出演されているとのことで、楽しみです。
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