「なぜ小津は分離を描き続けたのか」秋刀魚の味(1962) kkmxさんの映画レビュー(感想・評価)
なぜ小津は分離を描き続けたのか
小津ちゃんの遺作である本作を鑑賞した後、もしかしたら彼は自身の母との関係をずっと描いてきた人なのでは、という連想を抱きました。
生涯独身だった小津は、終生母親と暮らしていたそうです。そして本作は母親と死別後に撮った作品。トボけた味わいのあるユーモラスな雰囲気ながら、その影響はモロに出ていると感じました。
本作では、対象を喪失した悲しみよりも、強烈な孤独感が印象に残ります。「ついにひとりになってしまった!」という小津の内面に渦巻く動揺が伝わってくるようです。
主人公・智衆の恩師である東野英治郎演ずる老人ひょうたんと、杉村春子演じる中年娘との関係は、小津自身と母親が投影されているように思えました。
ある夜、ひどく酔ったため、智衆ら教え子に自宅まで送ってもらったひょうたん。ひょうたんは歳のいった娘と2人でラーメン屋を営んでいます。
送り届けた教え子たちが去った後、ぐでぐでのひょうたんと娘の2人だけになり、突如娘が涙を流すシーンは強烈です。ライトも陰鬱となり、異常なまでの暗さと惨めさが描かれていました。いずれひとりになり、じわじわと孤独と絶望を生きる運命からもう逃れられない。そしてその運命から脱するチャンスは過去にあったかもしれない。父親から離れて、自身の幸せを追うこともできたかもしれない。けれど掴めなかった。もう遅すぎる。そんな後悔の念まで感じられる、凄まじい場面でした。
ひょうたんの娘は2シーンくらいしか出てきません。役どころとしてはチョイ役ですが、ここに名人・杉村春子を配した意味があるのだと思います。
(東野英治郎と杉村春子の顔が超似てるというギャクの面もあると思われる)
小津のバイオグラフィでは、未婚であるよりも、終生母親と暮らしたことに違和感を覚えていました。そんな人が、娘の嫁入りや家族の死別等、喪失すなわち愛する対象との分離を描き続けたわけです。
(正確に言うと関係性全般がテーマですが、喪失・分離が特に目立つ印象です)
これまで、小津はなぜ分離を描き続けたのかよくわかりませんでした。しかし、本作を観て、小津自身が分離できない苦しさを抱えていたからなのでは、と思うようになりました。
表面は父と娘の物語ですが、それは分離できない母と子の翻訳なのかもしれません。
小津が体験したリアル喪失を彼がどのように乗り越えるのかは見ものですが、それが作品化されることはなく、小津は母の後を追って亡くなりました。本作が遺作になってしまったのは残念です。
演者について。岩下志麻はさすがの美しさですね。鋭い美貌。でも、歳食ってからの志麻の方が妖艶で魅力があるようにも感じます。
あと、智衆の友人の若い奥様がとても美しくて品があり、目を惹かれました。誰かと思いしらべたところ、環三千世というヅカ出身の方でした。若くして引退、しかも早逝された方のようで、wikiもないですが、小津の『小早川家の秋』にも出演されているとのことで、楽しみです。