座頭市物語のレビュー・感想・評価
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盲蛇に怖ぢず、されどをみなの情けに怖づ。 心を通わせた2人の決闘はほぼブロマンス…💖
盲目でありながら居合抜きの達人でもある博徒、座頭市の活躍を描く剣劇映画『座頭市』シリーズの第1作。
流れ者の博徒、座頭の市は下総のやくざ飯岡助五郎の下に身を寄せる。市は江戸から流れてきたという浪人、平手造酒と親交を深めるのだが、彼は飯岡の宿敵である笹川繁造の食客であった…。
大映の看板役者・勝新太郎の人気を不動のものとした伝説の時代劇シリーズ、その嚆矢となった1本。
『座頭市』シリーズは1962年に公開された本作から最終作『座頭市』(1989)まで、27年の歴史の中で26本の映画と100話のテレビドラマが制作されており、その後も北野武監督作品『座頭市』(2003)や綾瀬はるか主演による女性版座頭市『ICHI』(2008)、更には香取慎吾主演による『座頭市 THE LAST』(2010)など、リメイク版が多数制作される事となる。
そして何より“盲目の最強剣士“という強烈過ぎるフックはその後のエンタメに多大な影響を及ぼした。座頭市の類似キャラクターは『スター・ウォーズ』(1977-)にも登場しているし、「ONE PIECE」(1997-)に至っては見た目から喋り方までほぼそのまんまなキャラクターが存在している。ほぼフリー素材と化しているが、これ権利関係ってどうなってんだろう…?
昭和リアルタイム世代からZ世代まで、座頭市というキャラクターは人口に膾炙しているのだろうが、作品を観た事があるという人はそれほど多く無いんじゃないだろうか。自分も今回の鑑賞が完全なる初『座頭市』。いや、たけし版は観ているんだけど、あれが完全に別物であることくらい分かるよバカヤロー。
パブリック・イメージから、てっきり天下無敵の剣客がヤクザや侍をバッサバッサと切り倒す無双系映画だと思い込んでいたのだが、まさかの激渋系でビックリ。剣戟映画というよりは、不器用な生き方しか出来ない哀しき男たちの姿を描いた文芸映画という趣である。
作中、市つぁんが切ったのは蝋燭1本とヤクザ2人、そして剣豪・平手造酒のみ。いざここぞという場面でしか刀を抜かないというのが渋い。この「どうせバカ映画なんでしょ」という事前のイメージを覆される感じ、『ランボー』(1982)を初めて観た時に似ている。『ランボー』の1作目も激渋な作風で、実は1人しか死人が出ないんすよね。『ランボー』も実は『座頭市』の影響を受けていたりするのかも…。
平たく言えば、本作は任侠映画であるが、ここに登場するヤクザには仁義のカケラも無く、全くヒロイックに描かれてはいない。それどころか彼らのトキシック・マスキュリティーを馬鹿げたものとして突き放している。学生運動最盛期の62年に、既に白けムードを打ち出しているというのはかなり先進的だったのでは無いだろうか。当時の事なんか全然知らんけど…。
宿場をメチャクチャにしながら殺し合うヤクザたち。彼らの狂乱には目もくれず、ただ静かに向かい合う2人の剣士。この決闘シーン、下手なBGMもSEも無く、ただ風が流れる音のみがさらさらと響く。2度、3度、互いに刀を交わし、そして不意に訪れる決着の時。刀を突き立てれた平手造酒は、市の肩に頭を置きただそっと「つまらん奴の手に掛かるより、貴公に斬られたかった…」と呟く。息を呑み、顔を歪める市。そして崩れ落ちる平手をがっしりと抱き止める。短い抱擁の末、平手を横たえらせた市は嗚咽の声を漏らす…。
いやん、こんなのもうラブシーンじゃないの💖心の通い合った男と男が魅せる、短いながらも濃厚な絡み合いは美しく、そして上品。このシーンに漂うエロスは確実に意図的に作り上げられていますよね。有害な男らしさを否定し、男同士の愛情を描く。やっぱりこれってもの凄い先進的な映画じゃん!
ちなみに音楽は『ゴジラ』(1954)の伊福部昭大先生。劇伴の使い方は大変抑制が効いており、マジで引き算が上手い。ここぞという大事な場面でしか音楽は流れないにも拘らず、大見せ場である決闘ではあえて音を抜く。くぁーこいつぁ粋だねぇ!!こうなると、この映画が白黒なのも時代的なものではなく意図してそうした様に見えてくる。本作に満ちる哀感と侘び寂びは、仮にカラーであったならここまで切に迫って来なかったであろう。
そういえば、市が平手の亡き骸にはさっと手拭いを被せてあげるという演出、『ドラゴンへの道』(1972)のブルース・リーもチャック・ノリスに対しておんなじ事やってたね。リーも座頭市観てたのかしらね?
ブロマンスの撮り方も上手いが、男と女のロマンスの撮り方も上品。市とおたねが行く夜道、互いの愛情を確かめ合う様に、それぞれのほくろに触れ合う2人の後ろにはまあるいお月さまが浮かんでいる。この情感がなんとも美しい。しかもここ、十六夜月というかのか立待月というのか分からないが、満月では無くすこうし欠けているのがまた良い!「ながれものには惚れてはならぬ」という歌があったが、ロマンチックでありながら2人の別れを予期させる様な、見事な月の使い方だと感心させられました。いや、本当傑作だなこの映画…。
メクラだカタワだと差別的な扱いを受け続け、その怨念で鬼神の如き剣の冴えを手に入れた市。温厚そうに見えるその内側に渦巻く怒りとプライドが、ところどころで顔を出す。対する平手造酒は、剣の達人でありながら酒で身を崩し、肺病みとなってしまった浪人。死を悟った彼の内には虚無感が救う。
友でありながら対比的に描かれたこの2人のキャラクター造詣が秀逸。それを演じる2人の俳優、勝新太郎と天知茂の表現力も素晴らしく、特に勝新のぬるりとした演技は唯一無二の個性を放っている。マジ座頭市って怖いんすよ。タダ飯食わせてもらってるのに態度デカいし、何考えてるかわかんないし、異様に迫力あるし…。もし勝新じゃなければ、座頭市はこんな訳分からんキャラクターにはなっていなかっただろうし、未だに語り継がれる伝説的ヒーローにもなっていなかった事だろう。やはり勝新あっての座頭市なのである。
キャラクターでいえば、印象に残るのは小悪党の蓼吉。最初は気の良いアンちゃんかと思っていたのですが、だんだんと救いようのないクズだという事がわかってくる。蓼吉に捨てられた女が溜池に身投げをするのだが、これが本当に自死だったのかどうか…。ここが曖昧なのも、蓼吉の小悪党っぷりを強調している様で大変良い。
その最期は呆気なく、刀を手放した市に切り掛かるもあえなく一蹴。泥沼に沈み絶命してしまう。「どうせ、碌な奴じゃねぇだろう」という市の捨て台詞は、切り掛かったのが蓼吉だと気が付かなかったのか、それとも蓼吉であると気が付いていていたのか、どちらの意味にも取れる見事な一言。
「足を洗ってカタギになればいいじゃないですか」というおたねの言葉に「泥沼に足を入れたのと同じ様に、なかなか抜け出せねぇんすよ」と返した市。その通り、どうしようもないヤクザもんが泥沼に沈んでおっ死んじまうというのは、まぁ気が利いてますぁねぇ。
時代劇史上最もエピックであると言っても過言ではない『座頭市』。この見事な第1作があったからこそ、その後20年以上に渡って続く長寿シリーズとなったのだろう。古い映画だと敬遠していたが、やはり今なお語り継がれる名作は伊達ではないのだ!
…にしても、市つぁん刀を埋葬しちゃったけど、この後どうすんすかね?新しいの買うの?
最初にして最高傑作
子供の頃から座頭市シリーズはテレビでいやというほど見てきた。1970年代の時代劇といえば勧善懲悪――悪人が悪事を働いているところへ正義の味方が現れ、バッサリ斬る。そんな痛快アクションが定番だった。だから座頭市も、原作からしてそういうものだろうと思い込んでいた。だが初めてこの映画『座頭市物語』を観たとき、その内容に驚かされた。
まず、座頭市は正義の味方ではなく、はぐれヤクザのように描かれている。盲目であるがゆえに軽んじられ、時にはたかられる。だからこそ、生き残るために強くなければならず、その強さが人斬りを呼び、ヤクザの抗争に巻き込まれていく。そのリアルさと哀しみが全編を覆っているのだ。さらに、盲目でありながらも卓越した聴覚で敵を斬る。その力はほとんど超能力めいているが、映画ではすべてがリアルに描かれているため、不思議とその「超能力」にもリアリティが宿り、むしろ不気味さすら漂わせている。
その不気味さを最もよく示しているのが、平手との魚捕りのシーンだ。2人はすでに死闘を避けられぬ運命を感じながらも、どこか打ち解けている。だが平手は重い病を抱えており、それを座頭市に知られたくない。咳を必死に抑え込む彼の姿に、座頭市が気づいているのかいないのか――平手には判然としない。その曖昧さが画面全体を不気味にし、この映画の独自性を高めている。
日本映画は初期から無数のチャンバラを作ってきたが、実際に世界的に通用するほど成功した作品は少ない。黒澤明の『用心棒』(1961)がその嚆矢であり、斬新なドライさを持っていた。『座頭市物語』(1962)はその翌年に作られ、逆に人情の線で成功を収めた。この二作以後、それを超えるヒーロー時代劇がほとんど生まれなかったのは実に不思議である。
『用心棒』はシリーズ化されなかったが、『座頭市』は国民的人気を得てシリーズ化され、テレビを通じて庶民の心に深く刻まれることになった。
座頭市のデビュー作であるとともに、平手造酒との映画史における「交代劇」でもある。
黒澤明監督作品とともに、世界中に影響を与え続ける座頭市シリーズの第一作。講談・浪曲で人気を博し、幾度となく映像化された大利根河原の決闘(いわゆる「天保水滸伝」のハイライト)が作品の舞台。
原作者・子母沢寛の、ほんの10ページほどの随筆を元に、盲目の居合斬り(抜刀術)の達人・座頭の市をケレン味たっぷりに演じた勝新太郎は、この役が自身のライフワークに。
シリーズが進むにつれ、人当たりが良く腰も低くなる市は、初登場の本作ではいかにもヤクザっぽく、ドスを利かせた声で凄むし啖呵も切る。この辺りは前年の『悪名』の主人公・朝吉のイメージを引きずっているが、平行してシリーズ化したので差別化が必要だったのかも。
一方、同作がカラーだったことを思えば、あえて本作をモノクロ作品にしたことには『用心棒』〈1960〉の影響も感じる。
監督の三隅研二は本作以降もシリーズに関わり、TVシリーズ『必殺仕掛人』でも監督を担当。白黒画面特有の陰影を活かした演出や大胆な画面構成で剣戟の凄味と悲哀を見事に描き出している。
この映画の見どころは、何といっても座頭市と実在した剣豪、平手造酒(本名・平田三亀)の一騎打ち。
創作物中心に語り継がれているのでどこまで史実を反映しているかは不明だが、平手造酒の本来の最期は飯岡の子分に寄ってたかって斬り殺されるというぶざまな死に方。
そんな末路哀れの造酒の死に様を、本作では盲目のヤクザと余命幾ばくもない剣士との一対一の真剣勝負という、滅びの美学ともいうべき名シーンに昇華させ、実力を認め合った達人同士の否応なき対決は、同年公開の『椿三十郞』のラストシーンをも彷彿とさせる。
「つまらん奴の手に掛かるより、貴公に斬られたかった」との造酒の末期のセリフは、武士でありながら酒乱の挙げ句になぶり殺し同然にチンピラの手に掛かる彼の無念の浄化と魂の安堵ともいえる。
この作品の公開前まで40本を越えていた平手造酒が登場する映画は、本作以降は僅か4作に激減。
市と造酒の対決は、邦画史における名キャラクターの交代劇でもあったのだ。
過度の飲酒で命を縮めた悲運の剣豪・平手造酒を鬼気迫る演技で見せたのは天知茂。
映画・TV双方で扮した『四谷怪談』の民谷伊右衛門役が有名だが、TVの『江戸川乱歩の美女シリーズ』や『雲霧仁左衛門』の主役など善悪どちらでも存在感を示した昭和を代表する名優。大映のもう一つの看板シリーズ『眠狂四郎』にゲスト出演した際は、その存在感で主役食って市川雷蔵を怒らせた逸話は有名。
映画の終盤で造酒の亡骸と一緒に埋葬するよう、市が仕込み杖を寺の小僧に託した場面からも、当初はシリーズ化を念頭にしていなかったことが窺えるが、続編を検討させるまでの人気作になった理由は勝新が演じる主人公の魅力のみならず、平手造酒に扮した天知の存在感抜きには語れないのでは。
1985年に54歳で他界。
最近、映画のレビューを投稿するようになってから、出演俳優について調べると道半ばでの死亡が多いことに驚くが、この人の急逝は子供心にもリアルタイムに悲しかった。
本作で演じた平手造酒とは逆にアルコールを嗜まなかったと聞いていたので、突然の訃報は青天の霹靂だった。
「生まれ時が悪いのか、それとも俺が悪いのか…」
そんなこと、知るもんか。
とにかく、もっともっと活躍が見たかった…。
BS12トゥエルビにて視聴。
気品があってカッコいい
昔の時代劇は言葉遣いに品があってカッコいい。イーストウッドの早撃ちよろしく、勝新太郎の居合斬りも神業で惚れ惚れする。平手も良き好敵手だった。何となく、2人の間には友情とはまた違う絆を感じた。尊敬と愛のような。
予想外に面白い、人気シリーズの最初の作品だけはある
三隅研次 監督による1962年製作の日本映画。配給:大映。
勝新太郎出演の映画を初めて見た。加えて、三隅研次監督の時代劇も初めて。大ヒット映画のしょっぱな作品だけに、とても面白かった。
勝新太郎が居合い抜きの名手とのことだが、一見そうは見えず、妙に謙虚なとこが上手い。勝がずっと目を閉じていて、最後の方でかっと眼を見開く様も迫力あり。天地茂演ずる結核持ちの剣豪との二人の触れ合いも良い。ただ、二人の闘いは今一つ迫力不足であった。ただ勝の有する剣の光る様は何とも美しく切れ味抜群の様で、剣技には怖さを感じた。
監督三隅研次、原作子母沢寛、脚本犬塚稔、撮影牧浦地志、照明加藤博也、録音大谷巌、美術内藤昭、音楽伊福部昭。
勝新太郎(座頭市)、万里昌代(おたね)、島田竜三(笹川繁造)、三田村元(松岸の半次)、天知茂(平手造酒)、中村豊(飯岡乾分猪助)、真城千都世(半次女房お芳)、毛利郁子(繁造女房お豊)、南道郎(飯岡乾分蓼吉)、柳永二郎(飯岡助五郎)、千葉敏郎(飯岡乾分政吉)、守田学(飯岡乾分清助)、舟木洋一(笹川乾分与五郎)、市川謹也(笹川乾分茂吉)、尾上栄五郎(笹川乾分利兵衛)、山路義人(蓼吉の父親弥平)、堀北幸夫(笹川乾分金治)、越川一(百姓男)、浜田雄史(飯岡乾分安七)、木村玄(客の正六)、小林加奈枝(笹川飯炊お兼)。
面白かった❗人生初の座頭市。
ふと思ったのですが、本作が公開されたのは1962年なら当時ってまだ「お爺ちゃんがお侍様だった」とかいう方も生きていたのではないでしょうか?武士の話をよく聞いてたよ~とかいう方。大政奉還が1867年。んー、微妙な所かな?
そんなこんなで「午前10時の映画祭」で人生初の座頭市でした。タイトルは有名なのですが、何故か今までご縁がなかった座頭市。いやー、カッコいいですね✨多分「午前10時の映画祭」でやってくれなかったら引き続き縁がなかったと思います。ありがたや、「午前10時の映画祭」。
Wikipedia先生によると座頭市は映画だけで26作品、更にはテレビドラマでもあるそうです。勝新太郎、物凄く座頭市漬けな人生ですね。本作はその後も長く続いたシリーズの第1作目だけあって良くできてました。
座頭市がホントに目にも止まらぬ早業なのですが、あれは勝新太郎本人がやっているのでしょうか?だとしたらスゴイ!やるなぁ勝新。キャラクターも飄々としているようで決める時にはビシッと決める。こりゃ人気出ますわ。相手役の病気を抱えた用心棒とのやり取りも良かったです。
白黒時代の映画って事もあり、ちょっとハードルが高く感じるのですが、本作はストレートなお話ながらも十分面白かったです。こういう情緒ある映画って日本ならではですよね~。最近の邦画は詳しくないのですが、やっぱり邦画って昔の方が面白かった気がしますね。
けっこうよかった
勝新太郎の『座頭市』を見るのは初めてで、たけしのしか見たことなかった。
盲目であることで人々を油断させて、人間性を試す。相手によって態度を変えていると、ひどい目に合わされるので本当に気をつけたいとつくづく思う。敵の剣客が最初から腕を見抜いていてシンパシーを抱く。ヤクザの世界だからか、クズみたいなやつばっかり出るのもいい。
シリーズ第一作で、継続することを考えていなかったようで、最後仕込み杖を処分している。
笹川親分
壺ふりをやらせてもらって、サイコロが壺の外に出る。みんな丁に張り、市の一人負け。もう一度振って、みな半に張る。今度は「おっと袖からサイコロが落ちた」と言って壺を開けると丁だった。今後も同じようなシーンがあるかも。 目明きの蓼吉に腰をもませる座頭市。こんなシーンがあったのかぁ。
ストーリーの伏線として、おたね(万里)の兄・蓼吉(南道郎)が宮大工の娘・咲を孕ませて、咲が沼に身を投げたという悲恋。でも中途半端・・・
やがて笹川の用心棒となった平手が血を吐いて倒れたと聞いて、飯岡は殺された子分の弔い合戦を仕掛ける。平手のいない分、鉄砲で市を倒すと聞いた平手は病床から這い出して喧嘩に参加するのだ。労咳(結核)を患っていた平手。何人も斬ったあとで血を吐く姿は痛々しい。そして座頭市と平手との対決。「つまらねぇ奴に斬られるよりはお前さんに斬られたかった」という最期の言葉が印象に残る。
やくざの道に一旦入ってしまったら、簡単に抜けられるもんじゃない。喧嘩に勝って祝い酒をふるまってる飯岡の親分には、「お前さんのために死んでいった奴がいるんだぞ」「ヤクザは世間の嫌われ者。どうしてお天道様を拝めるんだい」などと、ヤクザ業の哀しさをも表現する。そして市の旅に連れて行ってもらおうと待つおたねの表情もいい。
神速の居合い⋯勝新太郎の当たり役!
Amazon Prime Videoで鑑賞。
原作は未読。
勝新太郎の当たり役と云えば、座頭市。その原点である本作を初鑑賞した。まず感じたのは役作りが凝っていると云うこと。座頭市の性格や動きはこの時点ですでに完成されていたのかと驚嘆した。
仕込み杖から繰り出される居合い斬りは電光石火の速技で市の実力がどれほどのものか、盲目だからとナメていた連中を一瞬で黙らせる威力である。
普段の仕草からは想像もつかない剣の使い手である、と云うギャップに心底シビレた。これが座頭市なのか、と⋯。勝新太郎にしか出せない魅力だ。
平手造酒との運命的な出会いと友情。敵対する組織の用心棒同士とは云え、互いの実力と人間性を認め合っていたふたりの宿命の対決が悲しい。
平手造酒は肺を患い、その命は風前の灯。死を前に現れた好敵手との死闘を望んだ心は、剣に生きる者の悲しいさだめだったのかもしれない。
そんな造酒の想いを汲んで決闘を受け入れた市の心のなんと美しいことかと思う。心が美しいから、己をやくざな人間だと理解した上で、極悪な親分の所業に怒り、鋭い啖呵を切ることも出来る。渡世稼業に身を置きながら任侠道のなんたるかを忘れず、筋を違えぬ生き様に憧憬の念を抱いた。
[余談]
三隅研次監督の優れた演出もさることながら、本作を格調高いものにしているのは伊福部昭の音楽の力も大きいのではないかなと思う。特撮作品の劇伴とはまた違った、伊福部音楽の荘厳な部分を感じ、新鮮な気持ちで聴くことが出来た。
*修正(2025/11/30)
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