劇場公開日 2014年6月7日

「一度は劇場で見て欲しい名作。 出来れば前の席で。」ゴジラ(1954) TRINITY:The Righthanded Devilさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0一度は劇場で見て欲しい名作。 出来れば前の席で。

2024年11月17日
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鑑賞方法:映画館

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 怪獣王ゴジラの誕生作にして、すべての怪獣映画の原点となる作品。

 同じ1954年に本作に先駆けて封切られた『七人の侍』(撮影は前年から)で島田勘兵衛を演じた志村喬は同作の撮影が押しに押して、本来夏場に撮り終えている筈のクライマックスの雨中の決戦シーンを極寒の2月にホースの集中豪雨を浴びながら撮る羽目になったうえ、古生物学者・山根恭平役で臨んだ今回は、大戸島のシーンのロケ地まで1時間以上も小舟に揺られた挙げ句、現地に到着してからも炎天下に裏山の山頂とふもとの海辺を往復させられてかなり参ったそうで、ほかの多くの出演者やスタッフも日射病でバタバタと倒れたらしい。お疲れさまでした。

 今や日本が世界に誇る両名作映画を同じ年に製作・公開出来るなんて、「さすがは東宝」と言いたくなるが、当時の同社は極度のジリ貧状態。

 戦時中、軍部主導の国威発揚作品、いわゆる国策映画に入れあげたせいで、戦後の東宝はGHQによって多くの重役や職員が公職追放され(本作の特撮担当、円谷英二もそのひとり)、その後の度重なる東宝争議でも最終的にGHQが軍を動員して介入、「戦闘機も来た戦車も来た、来なかったのは軍艦だけ」と揶揄される大騒動に。まるで本作のゴジラの東京襲撃場面みたいだが、戦後の東宝は二回もGHQに叩きのめされたことになる。
 一連の騒動で数多くの人材が流出したため、配給のみに専念するべく、映画製作部門を分離して立ち上げた新東宝が、あろうことか作品の配給を巡って対立したのち独立。
 当時の金額で1億数千万円(今の金銭的価値だと、百倍かそれ以上)の負債を抱え解体寸前だった東宝にとって、1954年の両作品は社運を賭けた起死回生の大バクチの側面もあった。

 結果的に二作とも大ヒットしたことを偶然や追い詰められた末の火事場の馬鹿力とみることも出来るが、残る者は残り、足りない部分を新しい人材や斬新な発想で補った故のケミストリーと捉えることも出来るだろう。

 本作はもともとインドネシアとの合作映画が頓挫した穴埋めとして企画された作品。
 それまでにも、追放解除で復帰した円谷英二が立案した大ダコやクジラの怪物が上陸して暴れるシナリオが却下されるなど紆余曲折のうちに、1954年3月に米軍の水爆実験によって第五福竜丸が被爆したことを期に、前年に製作された米映画『原子怪獣現る』から想を得たプロデューサーの田中友幸が大多数の反対を押し切って製作を実現させている。

 ちなみに『七人の侍』でビッグバジェットを託された黒澤明監督は、会社の状況から製作の中止を予期してシナリオの順番どおり撮影を進行したそう。
 案の定、撮影の遅延を理由に上層部が中止の判断を下すと、撮影済みの前半部分を仮編集したフィルムを試写し、視聴した東宝の幹部を前に「この続き、見たくないですか?」と迫って中止を撤回させたんだとか。

 もし黒澤や田中が上司の顔色を窺うしか能のないサラリーマン気質のイエスマンだったなら、同年の両傑作のみならず、『荒野の七人』(1960)や、ゴジラシリーズを含むその後の怪獣映画も誕生しなかっただろうし、そもそも東宝の未来さえ危うかっただろう。

 国策映画で威勢を振るったばかりに、敗戦後GHQから二度も抑圧され存亡の危機に瀕した東宝は、真珠湾攻撃で勇んで開戦したものの、二発の原爆で降参した日本軍の皮肉なメタファーのよう。
 本作に先行して公開された『七人の侍』は大ヒットした反面、当時の評価は賛否両論だったと聞く。
 侍(兵士)を雇って戦うという作品の主題が、新憲法で謳った戦争放棄や平和国家の理念を無視して同年に発足する自衛隊と絡めて「好戦的」との批判に曝されたからだが、戦時中の体質が変わっていないと判断されることへの危機感を東宝は持った筈。
 水爆実験による被曝を作品のモチーフに択んだことは偶然の積み重ねとはいえ、結果、反戦・反核が本作のテーマとなったことは、戦時協力への東宝の悔悟と贖罪の表明ともいえるかも知れない。

 本編(ドラマ部分)の監督は、のちに何度も東宝特撮シリーズに関わる名匠、本多猪四郎。
 彼が択ばれたのは、特撮に欠かせない円谷との東宝復帰後のコンビ経験が多かったからといわれている。

 本多が村田武雄と共作した脚本は被曝事故だけでなく、水爆マグロや残留(浮流)機雷、国会の紛糾に外交問題と、当時の世相をふんだんに盛り込むことによって時代のリアリティを映し出すことに成功している。
 東静子演じる若い女性の「せっかく長崎の原爆から命拾いした大切な体…」という逃避的なセリフや態度も現代人の目には軽薄に映るが、終戦を経てまだ九年の封切当時の観客には、連れの男性の「やだなあ、また疎開か」というぼやきともども、実感のこもった切実な会話に聞こえた筈。

 本編の映像はゴジラが絡まない部分は端正で静謐。
 水平のアングルやニューフェイスの三人(宝田、平田、河内)の素朴で初々しい演技も相まって、小津安二郎作品を観ているような雰囲気すら感じる場面も。
 そんな中、ふだん黒澤作品で大仰な演技を要求されることの多い志村だけは、最初は訥々とした委員会での答弁も、次第に熱がこもって最後はまるで選挙演説。学者としての正論を語っていても、見る側にマッドサイエンティストのような印象を与えている。

 本編中、本多監督はいくつかの対比関係を物語で巧みに取り入れている。

 一つ目は、志村演じる山根博士と新吉少年(鈴木豊明)との対比。
 山根は貴重な研究材料であるゴジラを殺すことに反対する。それは専門家としては当然の主張だが、理解されずに孤立し、次第に感情的になっていく。
 一方の新吉は、家族を家ごとゴジラに押しつぶされ、山根家に厄介になっている身。尾形(宝田明)から「先生はゴジラを死なせたくないんだ」と聴かされ、苦々しい表情を浮かべるも、立場上、文句は言えない。
 二人の対比は、戦争を遂行、もしくは兵器を開発・使用する側と、戦争や兵器の犠牲になる側の寓意と捉えることも可能だろう。
 ゴジラに関して考え方の異なる二人は二度めの東京襲撃で、ゴジラの猛威をともに目の当たりにすることになる。
 想像を絶するゴジラの破壊力に唖然とする山根の傍らで、新吉は「ちくしょう」と繰り返しながら慟哭する。この時点から、山根は研究対象としてゴジラを生存させるべきという主張を封印し、ラストの「水爆実験を繰り返せば、ゴジラの同類がまた現れるかも知れない」という有名な警句に繋がるが、そこには学者としてのあらたなサンプル登場への期待感は籠もっていない。
 惜しむらくは、新吉の慟哭に接した際の山根の心境の変化や葛藤をもう少し丁寧に描き込んで欲しかった。せっかく名優が出てるんだから。

 二つ目は芹沢博士(平田昭彦)と尾形との対比の構図。
 二人は恵美子(河内桃子)を巡る三角関係、恋のライバルという単純な図式ではなく、明らかに戦争体験者と未体験者との寓意的な対比として描かれている。
 そのことは「戦争さえなければ、あんなひどい傷を受けずに済んだ」という尾形のセリフに端的に示されている。
 映像で確認する限り、芹沢の怪我は右顔面の傷痕(あざ)と右眼の失明。もちろん軽い怪我ではないが、戦場での「ひどい傷」の程度はこんなものではないはず。つまり尾形は戦場の悲惨な状況を知らない立場の人物として設定されている。
 その一方で、発明が兵器に転用されることを極度に畏れる芹沢は,自身が罹傷しただけでなく実際の戦争の惨状を知る立場のトラウマや苦悩として描かれている。。
 終盤のオキシジェン・デストロイヤーの使用を巡る二人の激論も、新兵器が悪用されることへの危惧だけでなく、もっと根源的な、戦争を知らない世代の安易な選択への予言的な警告と読み取ることも出来る。

 そして最後にもう一つ。
 戦争が原因で、どちらもそれまでの生活が一変することになる合わせ鏡のような芹沢とゴジラとの関係。
 戦争で顔面を損傷し、ひと目を避けて研究室に閉じこもる生活を続けながら、純粋に科学の平和利用を希求する芹沢と、水爆実験で得た破滅的なパワーで安住の地を追われた報復を躊躇なく人類の文明に遂行するゴジラ。
 両者のいびつなシンメトリーと、科学の誤った使用の結果、その清算のために若い才能が命懸けで人類の脅威に対峙する関係はM・シェリーの小説『フランケンシュタイン(或いは現代のプロメテウス)』にも通ずる。
 ほかの学者が知らないところで水爆を開発したばかりに、同じ科学者の一人として責任を負う羽目になった芹沢にすれば、とんだ「大怪獣のあとしまつ」だが、最後は従容として、絶対に発明が悪用されないやり方でゴジラを始末する。

 黒澤明は盟友の本多が監督した本作を観て、「自分が監督したら、警官だって避難誘導なんてしてないで真っ先に逃げ出す」と語ったそう。
 気付いた方も多いと思うが、この映画には善人しか出てこない。それは本多監督のポリシーでもあるし、「幸福に暮らせ」と言い残して自らの命と引き換えに人類を救う芹沢の人間性に集約されている。

 初めて本作をTVで観たとき、一番印象に残ったのは、逃げずに実況中継を続けて命を落とすアナウンサー。 演じた役者(橘正晃)の必死の形相や「これで最後、さようなら皆さんさようなら」のセリフが子供心に強烈に焼き付いたのを思い出す。
 今観ると、戦時中の報道管制下で事実を正しく伝えなかったメディアの贖罪にもみてとれるが、この場面や芹沢の死を特攻と重ねてしまう人も多いだろう(二度とそんな世の中にしないと考えることも大事)。

 芹沢の犠牲は、間違いなく作品の印象を暗くしている。だがだからこそ、この映画がゲームのように痛快なだけの怪物退治の物語にとどまらず、反核・反戦のメッセージを伴った重厚な作品として高く評価されているのだと思うし、最後の山根の警告もよけいに胸を打つ。

 戦争の結果がもたらした自身の分身のようなゴジラを道連れにした芹沢の最期は同時にゴジラの悲劇性をも強調し、水爆実験の落とし子であるゴジラも「戦争の被害者」であることを鑑賞者に想起させる。そのことが反核・反戦だけでなく、文明批判という評価に繋がっているのだろう。

 夜間にゴジラが上陸し、都心を火の海にする場面は東京大空襲をイメージしたとも言われるが、二度にわたる襲撃は、終戦の判断が遅れたために広島・長崎に投下された原爆の寓意なのだろうし、メディアとして戦争に加担した結果、戦後にダメージを受けた東宝のトラウマをも暗喩しているのかも知れない。

 本作の劇場での鑑賞は、今夏(8/15)の京都府立博物館のフィルムシアターが初めてだったが、アーカイブの素材を使っていたので、正直言って映像のコンディションがあまり良くなかった(料金500円だから文句言えないけど)。
 今回、デジタルリマスター版のクリアな画像をTOHOシネマズ二条で拝見出来て非常に満足。
 ただ、こんな名作がたった1週間、昼の12:15からの上映だったのは残念。平日でも児童や学生が学校終わってから見に行ける時間設定にして欲しかった。

 TVやレンタル、配信で見たことがある方も、機会があればぜひ一度、劇場の大きなスクリーンで。その際は、なるべく前の席を択ぶことをお薦めします。
 その方が、大きさだけでなく、ゴジラの高さも実感出来るから。

 2024.11.17 加筆修正。

TRINITY:The Righthanded Devil
トミーさんのコメント
2024年11月15日

「オッペンハイマー」は色々と資料を集めたり、事実を検証したりして作ったんでしょうが、この作品には戦争体験者の生々しい記憶がくっきりと感じられます。

トミー