狂った一頁

1926年製作/59分/日本

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映画レビュー

4.0 どこまでが幻覚なのか?

2025年10月23日
PCから投稿
鑑賞方法:その他

日本映画史の中でも、これほど特異な作品はほとんど存在しないと思います。
衣笠貞之助監督による日本初のアヴァンギャルド映画であり、脚本は若き川端康成。さらに特撮に円谷英一が関わっており、1926年という時代にすでに多重露光などの実験的技法を駆使した、日本の映画表現の原点とも言える作品です。

物語は精神病院を舞台に、養務員として働く男と、その病院に入院している妻、そして結婚を控えた娘をめぐる幻想的な悲劇として展開します。男はかつて船乗りで、放蕩の果てに妻を捨て、贖罪のために病院で働いている。妻は過去に娘を池に落としてしまった罪の意識から心を病み、精神病院に閉じこめられています。娘は結婚の報告に母を訪ねますが、母が精神病院にいることを婚約者に知られまいと苦悩し、そこから現実と幻覚が入り混じる混沌へと物語は沈み込んでいきます。最後には病院がパニック状態に陥り、男が暴走する場面が描かれますが、それが現実なのか幻覚なのか、観客には判然としません。結末は、すべてが養務員の見た幻覚だったのではないか、とも解釈できるつくりになっています。

この映画の最大の特徴は、多重露光や重ね合わせによって「精神の内面」を可視化している点です。冒頭で登場する踊り子の少女は、実際に当時の前衛舞踊のダンサーであり、彼女の舞いは患者の幻想世界の象徴として描かれます。格子状の球体の前で踊るシーンは、精神の歪みや閉塞を表しており、ドイツ表現主義映画の影響を明確に感じます。檻や影といったモチーフが繰り返し登場し、精神の“折”=無意識の拘束を象徴しているようにも見えます。これは同時代に広まっていたフロイトの精神分析とも響き合うもので、衣笠と川端が「人間の無意識」を映像で表そうとした試みのように感じます。

特筆すべきは、この作品が「字幕をあえて廃した」点です。
もともとは字幕付きで制作されましたが、完成後に監督が「言葉による説明を排して、映像だけで精神を表現する」ことを決め、すべて削除したと言われています。その結果、観客は意味を掴もうとしても掴めず、映像の奔流に呑まれるような体験を味わうことになります。私自身、最初に見たときは音楽だけを聴きながら完全に理解不能で、途中で眠ってしまいました。それほどまでに、意味の手がかりを徹底して排除した映像です。けれど二度目に、脚本を解説してくれる人の動画と併せて見たとき、ようやく構造が見えてきました。それでも、これは「理解する映画」というより、「感じる映画」なのだと思います。

多重露光によって現れる重なり合う人物像、踊り子の回転する身体、森の光のちらつき――これらはすべて「狂気」そのものではなく、狂気を通して見える人間の内面を描いています。
つまり、夢オチ的な構成ではあっても、夢そのものを描いているのではなく、夢という構造そのものを映画化した作品なのです。

『狂った一頁』は、意味の消失の中にこそ美を見いだす、きわめて大胆な実験映画です。
日本映画が後に到達する「精神の映像化」――たとえば黒澤明の『どですかでん』や増村保造の心理的カメラワークなど――の原点を、すでにここで提示していたと感じました。
観る者を混乱させ、眠らせ、そして無意識の奥に連れ去っていく。そんな、1926年という時代にしか生まれ得なかった、まさに“狂った”一頁でした。

鑑賞方法: Youtube

評価: 80点

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neonrg

3.5 特撮の原点にして、邦画SF・アヴァンギャルドの起源

2025年6月3日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

斬新

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菊千代

3.0 難解

2024年11月19日
Androidアプリから投稿
鑑賞方法:VOD
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カミムラ

3.0 ノウズイはものを思うに ものを思うにはあらず。そして“さん”をつけろよ!このデコスケ野郎!問題。

2023年12月8日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

怖い

難しい

いきなり訳わからんタイトルでごめんなさい。
大好きな筋肉少女帯の「サンフランシスコ」って曲の一節なんですね。モロに『ドグラマグラ』のパクリです。後半は脱線話への伏線←またか!
そういえば『ドグラマグラ』って映像化されていなかったっけ?と思いアマプラへGo!でした。←強引すぎる導入部。
実写版はあるにはあったんですが、ストリーミングではラインナップされておらず。
アニメーション作品ならあったんですが、OVAだったのか?.com様でのデータがありませんでした。タイトルだけ借りた全く別物作品ぽかったし。
妙に自己顕示欲の強い私のことですので「せっかく観てもレビュー書けへんのんはイヤや!」と思い、鑑賞しなかったんですよね。←めっちゃいやらしい性格!
なので、他に候補として挙がっていた本作を鑑賞することに決めました。
尺も1時間ほどで、サクっと観ることができそうでしたので。
1時間ってことは、ニューサウンド版ってことなのかな?←Wikipedia調べ
79分のサイレント版って、もしや音楽すら鳴っていなかったのかな?
制作年が1962年、つまり大正15年=昭和元年の作品ということにも気を引かれまして。←大正ってマジか!
かの川端康成原作・脚本じゃないですか!←マジか! 読んでいませんけれど。
“トーキー映画”以前の作品じゃないですか!←マジか! こういうの初めてです。
当然モノクロ映画です。
そーゆーのが、めっちゃ琴線に触れたんですね。
初っ端から、気がふれて踊り狂う娘のシーンで、既に禍々しさ全開です。
おどろおどろしい絵面に合わせて流れるBGMが、本当に怖いです。そして困ったのは“無声映画”だったってこと。台詞が全くないので、お話の5W1Hが、まるでわからないんですね。読唇術でもできないと、お話の筋を追うことなんて、とても無理。
ただひたすら、狂人たちの奇行を描いてるだけの作品に思えたの。前衛的にも程があるって感じ。その趣がよかったんですけれど。
なもんで、お話を紹介しようにも、できないんですよ、本当に。なので、アマプラの表題下の紹介文をコピペしますね。
「精神病院のブースメッセンジャーとして、精神障害のある男性と妻を見守る彼は妻帯者であり妻は重病患者であり、男性は彼女を救うことができると確信し、ある夜彼は彼女を病院から連れ出そうとし、彼女を混乱させ、激怒させた。それは失敗に終わります。」
って、なんなん、この怪しい翻訳?(笑)
一部始終、観ているこちら側まで精神錯乱に陥りそうな映画なんですよ。

スタッフ一覧に「特撮補助」として、かの円谷英一=円谷英二のお名前があったのですね。←マジか!
だからかもしれないのですけれど、本作、特殊っぽい撮影技術が多用されているんですね。
導入部での雷を絵(?)で書いて、映像と重ねてみたり。
多重露光を多用したり。
何という手法かは、わからないのですが、映像をぐにゃぐにゃと歪ませたり。
当時としては画期的な手法っぽいですね。何しろ撮ったのが、大正15年ですからね。

えっとね、尺もかなり余ったっし。ついでにこの際ですから、悩んでいることを書かせてくださいな。
俳優に“さん”を付けるのか付けないのか問題。
故人に対して“さん”を付けるのか付けないのかには答えがあったのですね。
【敬称をつけない場合】
●歴史上の人物(歴史上の人物として定着したかどうかは没後30年をめどとする)
織田信長さんとは言わないもんね。
でもね、ご存命の著名人に関しては、大いに悩むところなのですよ。
私のレビューね、監督・俳優に“さん”くれるかくれないのかが混在してるんですよね。
きっと初期のころは“さん”を付けていたと思います。なので
「“さん”をつけろよ!このデコスケ野郎!」
「そんかし、俺が勝ったらちゃんと“さん”くれろ。“ペコさん”。そう呼べ」
って自分でも思うところあるのですが。
色々と調てみたのですけれど。“さん”くれなくてもいい理由が、こう記されていたんですよ。
【NHK放送文化研究所】の見解です。
“さん”は名前の後について、敬意や親しみの気持ちを表す敬称です。しかし自分の実生活とは直接関わりのない、客観的な存在、例えば歴史上の人物などには“さん”を付けず、呼び捨てにするのが一般的です。
“さん”を付けるのは、その人の生前の姿が多くの人の記憶に残っている場合や、その人に特別な親しみを感じている場合になります。
“さん”を使わなくても、○○総理大臣や、○○医師など、名前の後ろに付ける肩書きがある場合は、その肩書きで紹介することができます。しかし、作家や俳優など、名前の後ろに付けづらい肩書きもあり、その場合、名前の後に“さん”を付けるべきか迷うようです。

って…俳優については何の解決にもなってないし。
もう少し深掘りで調べてみました。知恵袋の過去回答からの引用です。
●タレントにとっては、敬称なしに語られることが、ステータスシンボルでもある。著名であるということの証なのだ。(野口恵子『かなり気がかりな日本語』の抜粋)
こうも記されておりました。
●芸能人を“さん”付けで呼んではいけないということではなく、“さん”付けをすることで、著名人を一般人に格下げし、かえって無礼に当たる。
●芸能人の名前にさん付けするのは、芸能人と一般人の距離感が縮まった現在においては、何ら問題ないというべきでしょう。
●“さん”を付けることで、距離感が出る要素もあり、一方で親近感が出る場合もあります。
ともありました。
結局は、どっちなんや。付けても付けなくても、なんか釈然としませんが。
きっとこちらの多くのレビュワーさの方々でも意見が大きく分かれるところでしょうね。
ややこしい案件。破蛇つつくんじゃなかった。
ちなみに私は“さん”付けをしていらっしゃる方々を非難したり否定しているわけではありませんよ。
むしろ、立場はどうであれ“さん”くれるのが礼儀の正しい姿勢だと思うです。
私の場合は便宜上、前述の引用文の「個人的な繋がりがなければ“さん”を付けないのが常識です」と「タレントにとっては、敬称なしに語られることが、ステータスシンボルでもある」がしっくりくるので、呼び捨てにしているのに過ぎないのです。確固たる信念なんてないんですね。←風見鶏。一番アカンやつ(笑)
そして、お詫びの意味を込めて、姓だけで書く時は“さん”くれるです。どっちやねん。統一しろし。

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野球十兵衛、

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