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映画レビュー
特撮の原点にして、邦画SF・アヴァンギャルドの起源
本作製作は大正末期1926年。まだ夢野久作小説『ドグラマグラ(1935)』やルイスブニュエル「アンダルシアの犬(1928)」公開前、チャップリンの「黄金狂時代(1925)」やセルゲイ・エイゼンシュテイン「戦艦ポチョムキン(1925)」、フリッツ・ラング「メトロポリス(1927)」が作られた頃。ドイツ表現主義の影響が色濃く反映されつつも、強烈なまでにオリジナリティを追求した革新的一作。
長い間、失われたと思われていた映像が1971年発見されるも、ビデオやDVD化されず観る機会が無く作品の名前は知っていたものの、そんなこんなで年月が経った。
先日なんとアマプラで配信されてるのを知り、早速、鑑賞。
まさしくアヴァンギャルド!
当時のキャメラは勿論モーターではないので、手回し、基本はフィックスなはずのに、その映像はとにかく“斬新”!。撮影は杉山公平とあるが、クレジット(アマプラ配信では無い)には円谷英一(後の円谷英二)の名が写されていた(撮影助手と言うよりはアドバイザー的な役割だったらしい)。
円谷英二曰く「初めて特撮を撮影したのは『稚児の剣法(1927)』」と語っているインタビュー記事を見ていたが、この作品でもアニメーションによる雷や多重露光、歪曲鏡による人物撮影、紗幕の様な薄いガーゼ越しに人物を霞ませる技法など当時としては画期的なトリック撮影が盛り沢山。そして何よりも本作で円谷英二が思いついたと証言している、パン棒を使った“パンつなぎ”は、今では当たり前のように使われているが、当時としては画期的な技術だ(当時のキャメラはフィックスで、左右上下に振る場合は右手でフィルムを回しながら、左手や助手がクランクで動かしてた)。
これら全てのアイデアが円谷英二のものか、衣笠貞之助のものかは定かでは無いものの、その後のゴジラなどの特撮作品のみならず、多くの映画作品に影響を与えた事は言うまでも無い。
ちなみに、本作にはふたつのverがあるらしい(正確には「染色版」を含めて3ver?」アマプラで見ることができたのは1971年のニュー・サウンド版(トーキー24fps59分)。オリジナルはインタータイトル(中間字幕)無しの無字幕、サイレント、16コマ?(衣笠貞之助監督曰く「18コマで回している、何故ならチャップリンがそうしていると聞いたから」と語っているが、当時のカメラマンはハンドル一回転8コマを2回転/秒が身体に染み付いているのでどう考えても16fpsと考えるのが自然)かと思うが、なにぶんオリジナル上映も無いので確認が出来ない。※:オリジナルは79分(サイレント版、18fps)とされている。
しかし、京都文化博物館で24fpsでも18fpsでも無く、16fpsで映写してみた記録には
「初めて上映された十六コマ版は、十八コマ・二十四コマ版ではバラバラに解体されていた物語が一気につながり、無理なくストーリーが理解出来る。“狂った一頁”と言う映画の姿を大きく変えた。上映後に、思ったより切ない話しだった。あの日その場にいた全員が確信したほどの衝撃的な体験だった」と言うのだが、未だ十六コマでの上映機会は無い。
想像してみたが、あの南栄子のダンスが2/3倍ゆっくり、滑らかに踊られているとしたら・・・。
この作品に対する印象が変わる事が容易に想像できると共に、よくよく考えると世に知れ評価されている「狂った一頁」の真の姿とはなんなのか、そして、インタータイトル無しのサイレント映画な訳で、活動弁士がこの前衛的な作品をどう伝えていたのか、そんな事も考えると尚更興味深い
1926年当時は編集機が存在していないので、監督もカメラの中に現像済みネガを入れ、杉山カメラマン本人に回してもらいながらレンズを覗きタイミングをはかってフィルムを切り貼りしていたという、撮った本人のスピードで再びカメラを回してるので、監督は十八コマと思っていた物が実は十六コマだったとしても齟齬は生じないし、ラッシュがある訳でも無いので衣笠監督本人も当時劇場では観ていない可能性は否定できない。
余談だが、スターウォーズのオリジナルが47年ぶりにロンドンで公開されるらしい。ディレクターズカットはそれとして、やはりオリジナルの衝撃ってその時その場でしか味わえない“歴史”も含まれるので、ディレクターズカット版と共にオリジナル作品も大切にして欲しいと改めて感じた。
難解
サイレントだから台詞わかんないし、あらすじと場面から推測することしか出来ないんでこの映画の本質とか真意をちゃんと汲み取れてるか自信ないです。
にしても後半の展開はよくわかんなかったな。
まず脱走を企てた理由。
家族で幸せに暮らしたい?
妻に娘の花嫁姿を見せたい?
とかならしっくりくる気がするけど、娘は精神病の母の存在を旦那に知られたくないわけだから普通は来て欲しくないよな?
そして脱走時の暴動とその後。
ここがマジでわかんなかった。
先生殺しちゃった?あれ?生きてる?
そしてあんなことした男が普通に働いてる?
結局どういうこと?
難解な映画だったけど、演者の迫真の演技は凄かったな。マジで。特に妻をはじめとした精神病患者の面々。
ノウズイはものを思うに ものを思うにはあらず。そして“さん”をつけろよ!このデコスケ野郎!問題。
いきなり訳わからんタイトルでごめんなさい。
大好きな筋肉少女帯の「サンフランシスコ」って曲の一節なんですね。モロに『ドグラマグラ』のパクリです。後半は脱線話への伏線←またか!
そういえば『ドグラマグラ』って映像化されていなかったっけ?と思いアマプラへGo!でした。←強引すぎる導入部。
実写版はあるにはあったんですが、ストリーミングではラインナップされておらず。
アニメーション作品ならあったんですが、OVAだったのか?.com様でのデータがありませんでした。タイトルだけ借りた全く別物作品ぽかったし。
妙に自己顕示欲の強い私のことですので「せっかく観てもレビュー書けへんのんはイヤや!」と思い、鑑賞しなかったんですよね。←めっちゃいやらしい性格!
なので、他に候補として挙がっていた本作を鑑賞することに決めました。
尺も1時間ほどで、サクっと観ることができそうでしたので。
1時間ってことは、ニューサウンド版ってことなのかな?←Wikipedia調べ
79分のサイレント版って、もしや音楽すら鳴っていなかったのかな?
制作年が1962年、つまり大正15年=昭和元年の作品ということにも気を引かれまして。←大正ってマジか!
かの川端康成原作・脚本じゃないですか!←マジか! 読んでいませんけれど。
“トーキー映画”以前の作品じゃないですか!←マジか! こういうの初めてです。
当然モノクロ映画です。
そーゆーのが、めっちゃ琴線に触れたんですね。
初っ端から、気がふれて踊り狂う娘のシーンで、既に禍々しさ全開です。
おどろおどろしい絵面に合わせて流れるBGMが、本当に怖いです。そして困ったのは“無声映画”だったってこと。台詞が全くないので、お話の5W1Hが、まるでわからないんですね。読唇術でもできないと、お話の筋を追うことなんて、とても無理。
ただひたすら、狂人たちの奇行を描いてるだけの作品に思えたの。前衛的にも程があるって感じ。その趣がよかったんですけれど。
なもんで、お話を紹介しようにも、できないんですよ、本当に。なので、アマプラの表題下の紹介文をコピペしますね。
「精神病院のブースメッセンジャーとして、精神障害のある男性と妻を見守る彼は妻帯者であり妻は重病患者であり、男性は彼女を救うことができると確信し、ある夜彼は彼女を病院から連れ出そうとし、彼女を混乱させ、激怒させた。それは失敗に終わります。」
って、なんなん、この怪しい翻訳?(笑)
一部始終、観ているこちら側まで精神錯乱に陥りそうな映画なんですよ。
スタッフ一覧に「特撮補助」として、かの円谷英一=円谷英二のお名前があったのですね。←マジか!
だからかもしれないのですけれど、本作、特殊っぽい撮影技術が多用されているんですね。
導入部での雷を絵(?)で書いて、映像と重ねてみたり。
多重露光を多用したり。
何という手法かは、わからないのですが、映像をぐにゃぐにゃと歪ませたり。
当時としては画期的な手法っぽいですね。何しろ撮ったのが、大正15年ですからね。
えっとね、尺もかなり余ったっし。ついでにこの際ですから、悩んでいることを書かせてくださいな。
俳優に“さん”を付けるのか付けないのか問題。
故人に対して“さん”を付けるのか付けないのかには答えがあったのですね。
【敬称をつけない場合】
●歴史上の人物(歴史上の人物として定着したかどうかは没後30年をめどとする)
織田信長さんとは言わないもんね。
でもね、ご存命の著名人に関しては、大いに悩むところなのですよ。
私のレビューね、監督・俳優に“さん”くれるかくれないのかが混在してるんですよね。
きっと初期のころは“さん”を付けていたと思います。なので
「“さん”をつけろよ!このデコスケ野郎!」
「そんかし、俺が勝ったらちゃんと“さん”くれろ。“ペコさん”。そう呼べ」
って自分でも思うところあるのですが。
色々と調てみたのですけれど。“さん”くれなくてもいい理由が、こう記されていたんですよ。
【NHK放送文化研究所】の見解です。
“さん”は名前の後について、敬意や親しみの気持ちを表す敬称です。しかし自分の実生活とは直接関わりのない、客観的な存在、例えば歴史上の人物などには“さん”を付けず、呼び捨てにするのが一般的です。
“さん”を付けるのは、その人の生前の姿が多くの人の記憶に残っている場合や、その人に特別な親しみを感じている場合になります。
“さん”を使わなくても、○○総理大臣や、○○医師など、名前の後ろに付ける肩書きがある場合は、その肩書きで紹介することができます。しかし、作家や俳優など、名前の後ろに付けづらい肩書きもあり、その場合、名前の後に“さん”を付けるべきか迷うようです。
って…俳優については何の解決にもなってないし。
もう少し深掘りで調べてみました。知恵袋の過去回答からの引用です。
●タレントにとっては、敬称なしに語られることが、ステータスシンボルでもある。著名であるということの証なのだ。(野口恵子『かなり気がかりな日本語』の抜粋)
こうも記されておりました。
●芸能人を“さん”付けで呼んではいけないということではなく、“さん”付けをすることで、著名人を一般人に格下げし、かえって無礼に当たる。
●芸能人の名前にさん付けするのは、芸能人と一般人の距離感が縮まった現在においては、何ら問題ないというべきでしょう。
●“さん”を付けることで、距離感が出る要素もあり、一方で親近感が出る場合もあります。
ともありました。
結局は、どっちなんや。付けても付けなくても、なんか釈然としませんが。
きっとこちらの多くのレビュワーさの方々でも意見が大きく分かれるところでしょうね。
ややこしい案件。破蛇つつくんじゃなかった。
ちなみに私は“さん”付けをしていらっしゃる方々を非難したり否定しているわけではありませんよ。
むしろ、立場はどうであれ“さん”くれるのが礼儀の正しい姿勢だと思うです。
私の場合は便宜上、前述の引用文の「個人的な繋がりがなければ“さん”を付けないのが常識です」と「タレントにとっては、敬称なしに語られることが、ステータスシンボルでもある」がしっくりくるので、呼び捨てにしているのに過ぎないのです。確固たる信念なんてないんですね。←風見鶏。一番アカンやつ(笑)
そして、お詫びの意味を込めて、姓だけで書く時は“さん”くれるです。どっちやねん。統一しろし。