「不道徳なロマンティック・コメディを上質な恋愛映画にしたワイルダーの名人芸」アパートの鍵貸します Gustavさんの映画レビュー(感想・評価)
不道徳なロマンティック・コメディを上質な恋愛映画にしたワイルダーの名人芸
ビリー・ワイルダー(1906年~2002年)は脚本家として戦前は恩師ルビッチの「青髭八人目の妻」と「ニノチカ」、戦中はホークスの「教授と美女」やデュヴィヴィエの「運命の饗宴」などに関わり、ハリウッド映画の監督デビューは36歳になった1942年でした。するとすぐに代表作に値する「熱砂の秘密」(43年・未見)、「深夜の告白」(44年)、「失われた週末」(45年)と連続して傑作を発表し、1950年にはアメリカ映画を代表する名作「サンセット大通り」を生み出します。ここまで「深夜の告白」を除く共同脚本を担当したのが盟友チャールズ・ブラケット(1892年~1969年)という人でしたが、その後喧嘩別れしてしまいます。
〔淀川長治さんは、第25回アカデミー賞の美術監督賞に黒澤監督の「羅生門」がノミネートされたことから大映永田社長に頼まれて1953年3月の授賞式に出席しました。ここで会場の下見の時にアカデミー賞会長のチャールズ・ブラケットと出会い、グロリア・スワンソンにインタビューできるコンタクトを取って貰ったそうです。遥々日本から来た淀川さんが作品とスワンソンを褒め称えたのに対して、気軽に優しく対応した当時のハリウッド映画人の姿が眼に浮かびます〕
この盟友とのコンビ解消の7年後に出会ったのが、ワイルダーより14歳年下のI・A・L・ダイアモンド(1920年~1988年)というコメディ脚本家でした。ディートリヒ主演の「情婦」(58年)を除く「昼下りの情事」(57年)から遺作までを共同で担当しました。このワイルダー・ダイアモンド脚本の代表作が「お熱いのがお好き」(59年)とこの「アパートの鍵貸します」になると思います。
初見は丁度50年前の1975年の3月で、映画日記には“僕ご贔屓のビリー・ワイルダー”と書き始めています。17歳まで僅かに「昼下りの情事」と「翼よ!あれが巴里の灯だ」を観ていてワイルダーファンになっていました。しかし、当時は一般的にサスペンス映画のヒッチコックと同じように、コメディ映画のワイルダーも真面目な社会派映画に比べて評価されにくい風潮があったと思います。それで映画に夢中になった頃、ワイルダー監督も全盛期を過ぎたこともあり劇場で観る機会もありませんでした。しかし、今回良く見直すと、先ず脚本の素晴らしさに驚きました。その台詞のセンスの良さに展開の自然な流れと役者の演技が溶け込んで、何とも形容しがたい心温かいロマンティック・コメディとして完成されているのです。最近になく、終始ニヤニヤしながら映画を楽しみました。
プロローグの主人公バドのナレーションから可笑しさ全開です。1959年11月、ニューヨークの人口804万2783人、平均身長166.5㎝、横に並べるとタイムズスクエアからパキスタンまで、総合生命保険社の本社社員3万1259人、19階普通保険部保険料計算課W区861番デスク、名前はC・C・バクスター通称バド、勤続3年10ヵ月、週給94ドル70セント、8時50分始業5時20分終業、各階ごとに時差出勤16基のエレベーター、でも僕だけ1~2時間残業、家賃は月85ドル。ガラス張りの巨大な高層ビルの無機質な広いフロアーにポツンと一人バドが残り、ジョセフ・ラシェルの音楽が、『サンダーバード』のテーマ曲に似た勇ましさからもの寂しいメロディに変わります。この単なる数字の羅列にある細かい説明の律義さとユーモア、そして人間が機械化して巨大企業の中に埋もれているニューヨークの現実。バドは割り切って数字にこだわり、確実に昇給する昇進のために課長4人の“夕下りの情事”を自分のアパートに斡旋します。でも時には予定外の追加もあり、冬の寒い夜の公園ベンチ(何という長さ)で凍えながら時間を潰し風邪を引いてしまいます。ちょっと前には隣に住むドライファス医師にダブルフェッダーの鉄の肉体と勘違いされて、献体を勧められる始末。この風邪を引いたバドがエレベーター係のフラン・キューブリックと交わす会話がいい。疾病保険部の20から50歳まで年平均2.5回風邪を引く統計を聴いて、フランが引かない分誰かが5回引いていると言うと、バドがきっと僕だと答えます。好意をほのめかす粋な台詞です。バドがデスクで体温計を咥えて、高熱に驚き慌ててスケジュール変更するシーンのジャック・レモンの演技の巧さ。自分に言い聞かせるように何度も首を縦に振って三人の課長に次々と電話を掛ける。曜日変更を問われてカークビー課長の電話交換手の彼女が、木曜は『アンタッチャブル』を観る日だから駄目と、わがままを言うのが可笑しい。ワイルダーのここの演出はルビッチタッチを彷彿とさせます。そこからシェルドレイク部長から27階の役員フロアーに呼び出されて昇進かと期待するも、鍵の貸し出しを知った部長とそれを誤魔化すバドの駆け引きの面白さ。シェルドレイク部長を演じるフレッド・マクマレイの余裕ある詰問とレモンの綱渡りの言い訳。そして部長の映画チケットと交換の真意を察してバドがポケットから鍵を差し出すところの、クシャクシャなティッシュで焦らす演出の巧さ。全く予想していなかった戸惑から呆気にとられるレモンの演技も絶妙です。その映画チケットでフランをデートに誘うも後から行くと言われて待ちわびるバドの寂しさと、フランが駆け付けた中華バーにはその妻子持ちシェルドレイク部長がいる驚きの種明かし。でもフランも部長の離婚する詐欺に騙され6週間ぶりのお誘いで愚痴を語る。そこに秘書オルセンが入店してきて慌ててタクシーに乗るフランとシェルドレイク部長。バドの書いたメモで住所を確認するシェルドレイク部長と、もう上映が始まっているであろう映画館前で箱ごとティッシュを抱え鼻をかむバドの対比。平社員の哀愁が漂います。ティッシュ1枚がバドの落ち込んだ気持ちを表すかのように、風邪に吹かれて濡れた舗道に落ちる。ここまで二日間の描写で全体の三分の一を占めます。機知のある洒落た台詞とテンポ良い演出が無駄なく展開し、尚且つ作為がわざとらしくない。ここまでいくとワイルダーの名人芸と言えるでしょう。
ついに勤務評定の忖度のお蔭で総務課第二課長補佐に昇進して個室を与えられるバドに、お祝いに駆け付ける課長4人。でも彼らはシェルドレイク部長がメンバーに加わったことを知りません。スケジュール変更が重なり不満たらたらのところへ部長が登場し、課長たちは退散。スペアキーを提案するシェルドレイクと、忘れ物の割れたコンパクトミラーを返すバド。
そこから12月24日(木曜日)クリスマスイブになり、社内パーティで秘書オルセンからシェルドレイクの本性を知らされ意気消沈するフランに対して、全社で2番目に若い管理職、1番は会長の孫息子と自慢するバドは、新しい帽子を披露して話が止まらない。話の流れでバドが彼女のコンパクトミラーを借りて帽子姿をチェックするカット。シェルドレイクの愛人がフランと分かったバドの困惑顔が二重に写るところの演出が巧い。そして他の社員が盛り上がる中を一人帰るバドのショットは、意気揚々と課長補佐の個室に歩いて行ったシーンの因果応報の答えでもあるでしょう。
失恋に落ち込み、バーで独りマティーニを飲むバドに絡む変な中年女性のキャラクターがまた可笑しい。歳に似合わない甘えた声で話す内容が、キューバ革命(1959年)でアメリカとの友好関係に危機感をもたらした独裁者カストロを持ち出し、騎手の亭主が馬のドーピング?で刑務所に入れられ音信不通という信じがたい話。身長155センチ体重45キロの亭主が可愛いと自慢する彼女、この数字のお遊びもプロローグと同じです。一方バドのアパートでは、離婚したいが出来ないと言い訳ばかりのシェルドレイクの狡さに、そんな男を本気で愛した自分を責めるフランの嘆き。シェルドレイクは家族のクリスマスプレゼントを抱えアパートを後にするが、フランには100ドル札一枚を渡すだけ。結局お金で解決しようとする。ここからバドがその変な中年女性をアパートに連れ込んで展開する模範的シチュエーションコメディに、ワイルダー演出が冴えわたります。中年女性を追い出すところにドライファス医師が駆け込み、バドとの別れ話から自殺未遂と思い込まされる上、別の女性を引き入れたと軽蔑します。無理やり追い出される中年女性は帰り際に、亭主に言いつけて仕返しさせてやると意味不明の啖呵を切りますが、これが後にフランの姉の亭主が登場して強烈なパンチを喰らわす展開の面白さ。ドライファス医師は手慣れた応急処置を施し、意識を戻すために何度もフランの顔を叩きます。その音が響くシーンのリアルさがあって、翌朝家主の女性が苦情に来ます。朝食を用意してくれるドライファス医師の奥さんは旦那からすべて聞いていて、バドに蔑む視線を浴びせます。踏んだり蹴ったりのバドですが、フランを思いシェルドレイク部長に電話をして顔を見せて下さいとお願いする優しさを見せます。4時になり金曜日予約の課長が愛人を連れて来て、フランを見つけて帰るのはいいとして、外で待つ愛人がドアを叩くところをドライファス医師が見てしまう脚本の細かさと密度がいい。
2人でパスタのメインディッシュのクリスマスパーティーをしているアパートに義兄が現れ、睡眠薬を飲んだ原因を自分の所為だと言ってパンチを喰らっても、何処か嬉しそうなバドの表現。数日一緒に暮らし知れば知るほどフランが好きなのを自覚しても部長に遠慮していたバドが、このパンチを貰って男に目覚める演出がいい。意気揚々と出勤したバドは、個室でフランを引き受けますの予行練習をします。ところが秘書オルセンの密告により奥さんから家を追い出されたシェルドレイク部長は、フランと寄りを戻そうとする。そして、事件を隠密に収め、フランを介抱したバドに新しいポストを提供します。人事部長補佐の後任という役員フロアー27階の部長室の隣の個室です。その日の帰り、デートの彼女が待っているとフランに見栄を張るバドが売店に向かうところのズームショットは、ヒッチコックタッチの演出でした。
大晦日、フランと一緒に過ごしたいシェルドレイク部長が鍵の貸し出しを要求するも、バドが渡したのは役員トイレの鍵でした。抵抗を見せたバドに、27階までは何年もかかるが失墜は30秒だと脅すシェルドレイク部長。辞職を覚悟して個室を出るバドが事務員の男性に帽子をかぶせるシーンの潔さ。勇壮なテーマ曲が一番ピッタリ当て嵌まります。そして、アパートで引っ越しの為の荷造りをするシーンでピストルを仕舞うところを見せて、フランとシェルドレイク部長がいるレストランのパーティーシーンに変わり、鍵の貸し出しを拒否して退職したことを知るフランの表情。本当の自分を愛してくれている男性はバドだったと漸く気づくのです。蛍の光を聴きながら微笑むシャーリー・マクレーンの可愛さが真剣な表情に変わる演出の細かさ。微笑みながら走るフランのショットからアパートの階段をのぼり切ったところでなる銃声のような爆発音。ドアを開けるバドがシャンパン溢れるボトルを持っている。ラストシーンまでも予定調和で終わらせず、観客にサプライズのドキドキ感とそこから安堵感を満喫させる憎い演出です。
それでも誇張されたコメディとは言え、大企業内の不道徳な男女関係は、今の時代から見ればパワハラ・セクハラの乱れた内容です。それが少しも嫌らしく感じないのは、主演のジャック・レモンとシャーリー・マクレーンの個性と素晴らしい演技の賜物と言えましょう。出世街道をあのまま突き進めば、バドは一生孤独だったはずです。人を愛するのを諦めた孤独な男の悲哀と涙ぐましい努力の動きを巧みに演じたレモンの素晴らしさ。マクレーンも男に騙される痛い女性の純粋ゆえの思い込みを見事に演じて、本当の愛に気付き大人になろうとする女性を演じ切っています。そして、この二人を盛り上げる悪役シェルドレイク部長のフレッド・マクマレイのキャスティングの良さ。脚本・演出・演技・撮影・音楽のすべてが揃った、楽しく心温まるアメリカ映画でした。
ワイルダー監督に、乾杯!!