獄門島(1977)のレビュー・感想・評価
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0141 ワタシも犯人の名前を知りません
1977年公開
ターザンよろしく石坂金田一が飛ぶ。
時たまインパクトを与える市川演出は好き!
獄門島は金田一耕助長編デビュー作なので
原作は結構攻めた調子。
しかし本作は犬神、手毬唄からの発展を期待するので
先が見えてしまうところは致し方なし。
ちょいマンネリ気味でもあるがそこもまたよし。
大原麗子、司葉子は「犯人は女性です、それも美しい」
は行けると思うが大地喜和子はそそらんなあ。
吊り鐘の解読は個人的にビジュアルでうまく説明してもらい
面白かった。
80点
初鑑賞 1977年9月1日 梅田劇場
パンフ購入
私にとっては、サスペンスじゃなく、ホラー
ただひたすらに殺人現場の美的様式が印象的。それを映像化したくて映画化したのじゃないかと思ってしまうほど。
「蔑視的表現」と人権団体から袋叩き似合いそうな、三人姉妹や座敷牢の描写。加えて復員兵。おどろおどろしさがこれでもかと醸し出される。
何のための殺人…。一見、理に適っているようで、他に回避策はいくらでもあるのに。
映画で、状況を客観的にみている身には憤りすら感じる。
狭い閉塞された空間で、因習にとらわれた視野狭窄にとらわれた中での凶行。
警察機能が働いていない場所なら、暗黙の了解として、島ごとこの罪を背負っていくのだろうな。「しかたなかったんじゃ」と言いながら。
すべてが決着してから我に返った時の、己の所業への後悔・虚しさ。亡くなった娘たちへの憐れ。
その落差が絶妙。
そして、島を覆っていた因習が瓦解することで、島に新しい風が吹く。
そんな話だと思っていたのに、この映画で結末を変え、別の意味付けをしたことで、後味が変わってしまった。
人間の業の切なさ・怖さは半端ない。
原作通りなら、この殺人の糸をひく人物の掌で動かされる人々。実行犯はただ操られているだけ。この状況でなんで操られる? しかも、理由が、親の因果が子に巡り、って…。そこだけで十分ホラー。
そこに、この映画での犯人の想いが加わる。それは世界・時間軸共通の想い。愁嘆場。胸に迫る。でも、ちょっと清楚すぎるかなあ。この犯人をこの方が、こんな風に演じられると、動機づけが弱く感じる。
それでも、
東野さんの因業おやじを筆頭に、役者は皆さんいい仕事をしている。その演技・たたずまい・お姿を見るだけでも至福。
でも、『犬神家の一族』でも書いたけれど、関東圏の小都市育ちの私にとっては、地方ってこんな風に恐ろしいしがらみに縛られているところなのかって、変な偏見を上塗りしてしまう映画(シリーズ)。
加えて、”障碍者”と定義づけられる人への偏見も上塗りしたなあと不愉快さもまとわりつく。
だから、映画自体にはマイナスつけたいけれど、役者に☆3つ。
確かに、ホラー特有の「怖がらせ」的な演出・映像はない。
「殺人防御率が一番低い」とされながらも、「日本の三大名探偵」の一人に数えられる金田一さんの推理(解説)は冴えわたる(映画では、ストーリーを観客に見せてくれるガイドっぽい役割)。
だから、本当はサスペンス映画なのだろうけれど…。
上記に書いたような、殺人の動機がまるで人身御供とか。
殺すだけで飽き足らなくて、死体に加工して見世物にするのって、なんのため?『犬神家の一族』では復讐相手に思い知らせて怖がらせるためだったけれど、この映画では、背後で糸ひく人物の嗜好って…。それって、快楽殺人?しかも殺す相手って…。
今でもあの島では、
霧の深い夜にでも、梅の木にぶら下がった死体が揺れ、
鐘からは振袖が下がり、
一つ家から鈴が鳴り響いていそうだ。
ほら、やっぱり、ホラーだ。
錚々たる役者たち
70年代に流行った金田一映画は全部見た気になっていたが何度も見たのは「犬神家」だけで後は原作を読んでいただけだった(個々の内容はもう覚えてないです)。だからこの映画も初見で新鮮で面白かった。役者の豪勢さに目を奪われてうきうきしてしまったので名前を書かせて下さい!太地喜和子(この時34歳!大人の女ー!)、大原麗子、三木のり平、加藤武、大滝秀治、草笛光子(金歯に凄み)、三谷昇、松村達雄、佐分利信、東野英治郎、司葉子、坂口良子…。
映像、カメラワーク、編集、スピード感、でかい文字のフォントが市川崑だなあと思って楽しかった。冒頭のキノコ雲と復員兵の様子と昭和的ナレーション、一方でエレキギターだかウクレレがハワイムードを醸し出していた。ドラムも何度も聞こえた。
旅回りの役者の話も胸をくすぐられた。道成寺、狐忠信、葛の葉子別れ。最後の二つは親と子の悲しい話。親を慕う子、引き裂かれる思いで子から離れなければならない母親。上手い構成だなあ。古さを感じなかった。蝉の音、冷や麦、絽などの着物で夏を感じることができた。
【”獄門島には、本鬼頭先代の怨念がオンネン・・と呟き、二人は身を投げた。”禁断の結婚による、孤島での血塗られた人間関係を描く、市川崑監督、石坂浩二金田一耕助シリーズ第三弾。】
ー 且つて海賊の住処で、その後流刑地になった、獄門島には、”本鬼頭”と、”分鬼頭”の人々が住んでいる。
だが、両家に間には、隠された血縁関係が・・。
そもそも、島に暮らす人たちが、皆血が繋がっているのかもしれない。
故に、発狂者もしくは精神的に不安定な人たちが多いのかもしれない・・。ー
■感想
・キャスティングで、誰が犯人かが”何となく”分かってしまう、”安心感”。
ー 金田一映画シリーズの特長である。これは、第2作でも記載。
只、今作は大原さんかな?と思いながら、観ていた。ー
・屏風に書かれた俳句が殺人の見立てになる所。
ー これも、金田一シリーズの特長である事は、周知の事実。ー
・登場キャラクターの多さ及び、複雑に入り組んだ人間関係。
隠された血縁関係。
ー 今作では、凄ーくお若いピーターや、殺されちゃうけれど、浅野ゆう子さんも、出演。ー
・”そうか、分かった”が口癖の、全然分かっていない等々力警部(加藤武)も健在で・・・。
<獄門島という架空の島の、近親婚の重なりによる人間の精神性の脆さ、先代の本鬼頭当主の狂気性が惹き起こした事を、じわりじわりと序盤から描く市川崑監督の映画作りが良い。
そして、現在では物故者が多くなってしまったが、”昭和”の名役者さんたちの姿。
第1作、2作と比較すると、作品レベルはやや落ち気味だが、一定レベルの面白さはキープしている作品。
昭和50年代の映画って、残虐描写もナカナカ・・。
ジャパニーズホラーの萌芽時期だったのかな?>
懐かしいけど
惜しい一本。
犯人変更は興行的には成功していると言えても、映画としてはとても成功とは言い難い
市川崑監督、石坂浩二主演での金田一耕介シリーズの第3弾
横溝作品のなかでも人気の高い作品で、特に鐘を使ったトリックは有名
「きがちがうがしかたない」もまた有名
市川崑監督は第3弾も続くとは考えてもいなかったという
流石に新味がだせない
早い話がマンネリになってしまう
それを平然とやれる監督とそうではない監督がいるが、市川崑監督は後者だ
原作の発表順は、本陣殺人事件、獄門島、八つ墓村、犬神家の一族、女王蜂、(中略)、悪魔の手毬唄、病院坂の首縊りの家と続く
つまり第3作は原作の執筆順とは逆に映画化することになるわけだ
監督も東宝もシリーズになるとは考えてもいなかったのだ
執筆順に撮っておれば、各作品が単独であっても自然に展開が作品ごとに発展させてくいことができたはずだ
しかし遡っていく形になってしまった
だから、あの手この手で新味をだす工夫を考えなければならなくなった
その無理が本作の内容に作用した
ツケがわまったと言うべきか
あの手この手では足らなくなってしまった
それが犯人変更になってしまったということだ
原作と違う犯人というのは、確かに大変に話題を呼ぶやり方だ
しかし興行的には成功していると言えても、映画としてはとても成功とは言い難い
ピーターは素晴らしい存在感で原作にある淫靡さを示したのだが、竜頭蛇尾の出番に終わった
まだまだ足らない、もっともっと濃くても良かった
そこに本当の本作の成功の答えがあったのだと思う
それでも内容は濃く見応えたっぷり
原作のエキセントリックな殺人現場が忠実に映像になっているだけでも、ファンなら満足できるだろう
把握するのにめっちゃ時間がかかった。
『獄門島』鑑賞。
*主演*
石坂浩二
*感想*
金田一が千万太が亡くなったことを家族に知らせる為に獄門島へ向かい、そこで連続殺人事件が起こるお話。
前作の「悪魔の手毬唄」も観ましたが、やはり、今回も登場人物を把握するのに時間がかかったし、バックボーンも全体的によくわからなかった。犬神家や悪魔の手毬唄もややこしいって書いてありましたが、個人的には難しいです。(^^;
しかし、おどろおどろしい雰囲気が良かったですし、鐘のシーンはグロかったな~(^^;
犯人の動機がイマイチよくわからない。海賊と入り乱れて、解説見てもあまりよくわからなかったです。(笑)
キャスト陣が凄い豪華だった。石坂浩二さんを初め、大原麗子さん、浅野ゆう子さん、大滝秀治さん、、ん?大滝秀治さんといえば、前作にも出てたような、、、、?
金田一少年の事件簿の世代なので、僕は合わないのかな?(笑)
ははは・・・(^^;
雪月花という3人の妹。頭が悪そうだけど可愛い。浅野ゆう子、中村七枝子、一ノ瀬康子。
海賊と流人の子孫の島、獄門島。冒頭のナレーションが怖い。 そしてキ...
金田一・市川論
冒頭、プロローグ的に原爆のきのこ雲や復員列車のモノクロ映像が流れる。そして、金田一耕助が訪れる瀬戸内の小さな島では、戦争から戻ってくるはずの若者を待ちわびる者たちが、例によって陰惨な事件を引き起こすのだ。
市川崑は、一連の横溝正史シリーズだけではなく、他の作品でも、戦後の混乱を執拗に描く。彼によって描かれる戦後は、それ以前の習俗、生活習慣、社会階層の崩壊過程として描かれる。
名探偵・金田一耕助が訪れるのは、決まって岡山県のどこかの旧い封建的な因習の残る村である。
なぜいつも岡山県なのか。それは、いつもの早とちりな県警の警部・加藤武に「よし、分かった!」の名セリフを言わせるためだけではあるまい。岡山県は関西にも近く、そうした都会との交流が決して多くはないが、少なからず存在する。海と山の自然が豊かで、都会からもそう遠く離れてはいないことが、物語の舞台としての要件なのだ。
その舞台となる村には、たいてい金田一以外の他所者の存在があり、そのことが村人の旧来の価値観にゆさぶりをかけている。しかし、その他所者が恐ろしい殺人を行うことはない。むしろ、殺人の首謀者は旧制度によって最も守られている人間であり、しかも、その犯人が守ろうとするのは自分自身ではなく、その最愛の者の利益である。
犯人が連続して顔見知りの人間を殺さねばならないきっかけは、戦争へ行った者の帰還もしくは帰還しないことであることが多い。こうした戦争が人の心の中に落とす暗い影は市川崑の映画の通奏低音ともいえる。
殺人の被害者たちは、おそらく戦後の社会変動ののちには生きて行くことが最も難しい人々である。それは、村の有力な家の娘たちで、彼女たちの生活と人生は、その家の経済力と村人からの畏敬によって保証されている。旧来の制度が失われたのち、彼女たちの居場所はない。多くの横溝作品で、若い娘が次々と殺されるのだが、仮に殺人が行われなかったとしても戦後社会に彼女たちの生きて行く場所が存在しないのである。
闖入者である金田一耕助によって、たまたま事件は解決されるが、そのために犯人が守ろうとした旧い家族制度が崩壊していく悲劇。
しかし、戦争が終わった後の大きな社会の変化の中では、遅かれ早かれ彼らの守ろうとしたものは失くなっていく運命だった。そうした、戦後史の視点でみるとこの殺人事件は喜劇的なものになる。
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