「節度は保っていた日活映画」銀座の恋の物語 Takehiroさんの映画レビュー(感想・評価)
節度は保っていた日活映画
このタイトルの歌はテレビでもよく流れていって今でも有名だと思うが、NHKBSプレミアムで録画して、映画は初めて観ている。私が生まれる5年前。この文章を書いている55年前の映画ということになる。私が生まれる前。私はそれから今まで、いくつもの分岐点があったはずだが、光り輝いてきたとは言い難い人生を送ってしまった。そんなことを言えば今の周辺に失礼だが、こうした映画の内容にしても、よくみれば主人公にしても、デザイナーの日々の仕事での苦労話から始まるが、交際相手は庶民的なミシンで服を製造する工場の工員である。主人公は石原裕次郎、ヒロインには浅丘ルリ子、裕次郎の友人の音楽家にジェリー藤尾。江利チエミが小唄のような歌をジャズに乗せて歌うシーンがあるが、こうした無国籍的な感じがこの頃だったのか。ヒロインが劇場のライトで、空襲を思い出したといって気分が悪くなるシーンがある。昭和37年だが、その当時の若者の子供の頃に戦争体験があったような時期であったのか。戦争の影がこの映画にも引きずられていたのか。テレビが進出する時に、アナログな絵を描き続けたいという信念を持つ青年が主人公と言うことか。その後、ネットまで現れる予想はこの頃は無かっただろうが、テレビという新しい情報発信する場所が大きな影響をこうした人達の仕事にも影響を与えていったか。露骨な描写はみせないが、婚外交渉している事前事後のような描写があり、ここら辺が日活がロマンポルノに行ってしまう予兆があるのかどうか。主人公は自分自身でデザインをしていたが、デザイン会社にスカウトされ、渋っていたが入社する。江利チエミのミュージカル風の出番がけっこうある。浅丘ルリ子のの若い頃のルックスは坂口良子辺りに引き継がれた感じか。坂口のほうが早く亡くなってしまったが。セリフに「待たせるもんじゃないよ。女は」というのがあるが、デートの駆け引きに女が遅れるなんて言うのはその後のくだらないテクニックまがいなのかなと思った。日活の映画の中でも誠実な相手とは誠実に交際しているのである。ところがそれからハプニングが生じて来る。会社の女上司に急に仕事をしろと言われてヒロインが仕事をせざるを得なくなる。男は駅で待つが女が来ない。仕事を終えて女は男の元へ急ぐが。このすれ違いから話が出来てくるようだ。スマートフォンがある現在なら起きない出来事であろう。そして悲劇がやってくる。男の元に急いでいたヒロインが車に轢かれてしまう。そして死んでしまう。それまで特にサスペンスがはっきりするわけでもなく、どういう話だと思うと、ここで急展開する。と思ったら人違いだという。これも死んだ人には悪いだろうが、
主人公にとってはほっとはする。だが、それではヒロインはどこへ行ったのか。そしてひと月行方不明なのだという。行方不明のヒロインがサスペンスタッチか。男は女を探し続ける。友人の音楽家は愛なんて信じてないで捨ててしまえなどと言う。主人公は仰向けに寝転んでいる。ジュリー藤尾がなぜか女性に対して辛辣な、裏切っただけでよくある話だというような話を主人公にふっかける。静かに怒る主人公。音楽家への取り立てたちと主人公がアクションシーンになる。めちゃめちゃに住まいがなったり、踏んだり蹴ったりだ。そんな時にトランペットを練習している青年が外にいて、主人公はそれを見るが、このシーンは何かを与えているか。音楽家は金だけが信じられるんじゃないかというが、主人公は違うという。そして友人は出て行く。ヒロイン不明で友人も去った後で主人公はデザインの仕事に打ち込む。休憩中に屋上から眺めるとヒロインがいたと思い、走って追いかけるが、これも別人だった。手術で死亡した女も別人だったが、また別人だった映画のトリックに気づかなかった。ヒロインはなぜ消えたのかというミステリーともいえるが、思い出す男心に誠実さがある。江利チエミとかなり裕次郎が共演しているが、江利チエミの元旦那の高倉健と裕次郎の共演作は映画もテレビも無いようである。とうとうヒロインを探し出すが、別の名前の人になっていた。記憶喪失中に別人に仕立て上げられていたケースかとも思うが、そうした話は他にもあったと思うが、思い出せない。テレビでは、『ひよっこ』なんかが記憶喪失ものだった。なにか映画にも似たものがあったかも知れない。医師が催眠術で記憶を思い出させようとするシーンがある。主人公も一緒に見ているが、ここら辺が映画である。55年前に催眠誘導のシーンがあるが、その後精神科学はどうなっているのだろう。そしてミシンをヒロインに踏ませて元職場に案内したり、主人公がヒロインの記憶を取り戻させるために尽力するシーンが続く。ここでなぜか浅丘ルリ子のシーンで音声が出ない場面がある。なんといったのだろう。なぜ記憶喪失の女性にずっと主人公が一緒にいられるのかも、女性の家族も、そこらへんが省略されていて、そこが映画である。
犯罪組織に関わったような友人音楽家や、江利チエミ婦人警官だったことなど、主な出演者たちも交錯している。主人公はヒロインの絵を描くことで記憶を引き出そうとする。友人音楽家はヒロインにヒロインの昔の絵を渡して走り去る。なぜか記憶喪失の女と主人公は一緒に家に暮らしているのも、よく思えば変なのだが、そして友人は警察に行きなんらかの自主をするわけか。そして友人の手渡した絵をみせると、ヒロインに感情的動きが出て、泣いてしまうが思い出せず、主人公は途方に暮れる。留置場にいる音楽家を主人公は訪ねるが、別れてまた会ってを繰り返した音楽家の女も一緒だった。ここら辺にぐれていそうでも、一人の異性がいるという誠実さが日活映画にはあった。和泉雅子なんかも脇役で明るく出ている。友人とも仲直りし、とうとうヒロインも記憶が戻る。
高品格や清川虹子なんかも出ていた。細かな脇役との交錯もあったりしながら、主題歌が流れる中、元に戻った二人は銀座を歩く。紆余曲折があっても運命の異性とは巡り合えるというロマンスだった。キスシーンもベッドシーンもない。抱き合うシーンまでである。良識を外していなかった日本映画がこの時代まではあったようだ。