劇場公開日 1982年9月18日

「刑事国選弁護人の役割」疑惑 talkieさんの映画レビュー(感想・評価)

3.0刑事国選弁護人の役割

2025年1月28日
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球磨子に対する本件の殺人被疑事件を契機として、もともと白河家の顧問弁護士だった原山弁護士が辞任したのは、本当に原山弁護士自身の健康問題の故でしょうか。

あくまでも評論子の憶測なのですけれども、原山弁護士は、やはり球磨子の無実を信じることができなかったからなのでしょう。
実際、事件の審理が裁判所に係属した当時の世評は、球磨子が福太郎を殺害するために彼を助手席に乗せ、クルマごと岸壁から海に飛び込んだというもののようでしたから。

実際、海面に突入直前には、球磨子が運転席に座っていたという目撃証言も出ている状況では、真実がどこにあったにせよ、原山弁護士も、弁護士=刑事弁護人としての良心に従って行動したことは、少しも非難はできないことと、評論子は思います。
(刑事被告人の無実を信じることができないのに、引き受けて、いい加減な弁護をすることの方が、むしろ大問題)

一方で、国選弁護人として裁判所から任ぜられた佐原弁護士は、どうでしょうか。

国選弁護人は、刑事被告人との信頼関係に基づいて弁護を引き受けたものではなく、あくまでも裁判所から頼まれて「報酬を得るための仕事」として、刑事被告人の側の立場に立つ者―。

その「しがらみのなさ」が、今回は真実の発見に大いに寄与したともいえそうです。
佐原弁護士の「誤解しないでね。私は弁護人としての仕事をきっちりとしているだけのこと。」という彼女の台詞に、球磨子の事件に対する彼女の…そしてそれは、とりも直さず刑事裁判における国選弁護人の、いわば「立ち位置」が、くっきりと浮き彫りにされていたように、評論子には思われます。

「(刑事事件の)法廷には、敵も味方もいない。(検察官と弁護人は)協力して真実を明らかにする者たちがいるだけだ」という別作品『ステキな金縛り』で、検察官役の中井貴一の台詞が思い起こされますし、別作品『事件』での谷本裁判長の「法廷は、検察官と弁護人が論争をする場ではありません」という発言も、その意味では正鵠を得た台詞として思い起こされます。

そうして、そういう理想は、糾問主義的な旧刑事訴訟法の呪縛を免れ、より的確な真実の発見を期して、新(現行の)刑事訴訟法が弾劾的な手法を取り入れた意味合いを、いっそう明確にするものとも、評論子は思います。
(そして、実際の刑事裁判によく取材していなければ書けないであろう、こういう脚本にも敬意を禁じ得ません)

刑事裁判における弁護人(国選弁護人)の役割を鮮やかに描き出した作品ということではCinema de 憲法」、「Cinema de 刑事訴訟法」としても、優れた一本として、充分に佳作としての評価に値するものと、評論子は思います。

talkie