「飛散する悪意」教祖誕生 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
飛散する悪意
オウム不安の世情に乗っかった新興宗教批判コメディかと思いきや、悪意の矢印は画面上を行き交うすべての人物に対して向けられる。
中でも救いようがない末路を辿るのはやはり和夫青年だろう。
和夫は司馬率いるインチキ宗教団体をインチキだと知りながらも暇と好奇心に突き動かされ、興味本位で彼らと活動を共にするようになる。
実際、オウム真理教の信者の人たちにも和夫と同じくらいフランクなノリで入信を決意した者が案外多いそうだ。
さて、入信したとはいえ特にカタストロフィックな神秘体験などが待ち受けているわけではない。入信前と同じように胡散臭い布教活動に明け暮れるだけだ。来る日も来る日も布教、布教、布教。
しかし反復はリアリティを生む。繰り返し繰り返しニセモノを演じているうちに、いつの間にかそれをホンモノと錯覚するようになる。和夫はすでに引き返せないところまでホンモノに染まりきっていた。
何が恐ろしいって、ニセモノだった頃とホンモノになった今との間に明確な転換点が存在しないことだ。だから和夫は過去を反省しようにもそもそも目印を見つけられなかった。自分が何か危ない領域に踏み込みつつあることに気づけなかった。
神の存在が嘘だろうが本物だろうがそんなことは大した問題ではない、という司馬の言葉はかなり正鵠を射ていたといえる。しかし司馬やその仲間の呉が自身の宗教団体を最後までドライブできなかったのは、彼らが反復の力を軽視していたからに他ならない。
どれだけバカバカしいことであっても、それを絶えず繰り返し、積み上げていくと、何か精神的な重力のようなものが生まれる。そしてそれは現実的な真偽を超越した価値と化す。司馬や呉には信者のそのようなリアリティが理解できていなかった。
いや、和夫だって同じだ。彼もまた真偽という表層においてのみ宗教を理解していたために、更なる深みに嵌ってしまった。
つまり真偽の先にある反復の強度と、それが生み出しうるおぞましい世界を想像できない者は、誰であれ悲惨な目に遭うのだ、ということをこの作品は言っている。
さて、スクリーンの前のお前はどうだ?と。