「映画の最高傑作は七人の侍ではない。」機動戦士ガンダムI KIDOLOHKENさんの映画レビュー(感想・評価)
映画の最高傑作は七人の侍ではない。
機動戦士ガンダムである。
私は40年ぶりにこの作品を見て 作者の伝えたいものが100%伝わってきた感覚を得た。 私がこの作品をリアルタイムで見た時、私の心はまだ少年すぎたようだ 。
この物語は戦ってる最中に相手の心がお互いに見えてしまう・・・という非常に恐ろしい設定でもって戦争の一番恐ろしいシチュエーションを描いた作品である。その時人間は何を感じ、どのように心が動きどう解決するのか・・・?それを描くためのニュータイプという設定だった。かっこいい戦闘シーンを描くためのニュータイプではなかったのだ。
少年の心で見た私はクライマックスで主人公たちがモビルスーツから下りた時にとてもがっかりしたものだ。ガンダムとジオングの戦いはもっと見たかったのだ。今見ると作者の伝えたいものがとてもよく分かるので、一番表現するたいものを一番しっかり表現するためにモビルスーツから降ろす必要があることがよくわかった。それまで主人公たちが経験した悲しみも怒りも恐怖も全て含まれた上での憎しみ合い戦いが生身の体の戦いによって実によく伝わってきた。このシーンにガンダムで描いたものの全てが凝縮されていると言っても過言ではないだろう。そしてこのシーンの終わりでも当時少年の心だった私はガッカリしたものだ。二人の争いが セイラの登場によってあっけなく終わりになってしまうことにしっくりいかないもの感じたものだ。今見るとそれは一番素晴らしい部分であるのに。セーラは非常に特殊な境遇・立場にあるのであるが、彼女の性格は全く一般人のそれであり戦争に巻き込まれた一人の人間の気持ちを増幅して表現できるようなキャラクターとして描かれていた。そして一人の被害者でしかない彼女が主人公たち二人のどうしようもなく増幅暴走した怒りや悲しみや苦痛を和らげたのだ。そのことに私はとても感動した。
これを40年前に見た多くの人々の心の中には、ガンダムはアクション映画としてのみ非常に成功した作品だとして心に残っていることだろう。しかしそれではこの作品の本質を見たことにはならない。もう一度見直すことをお勧めする。
富野由悠季は戦争を描いている作品が多い。1941年の生まれなので戦争の事は記憶には無いはずだ。そういう人がなぜ戦争を描くのか?戦争を知らない世代の人間が戦争をリアルに描こうとすること自体が良いことなのか悪いことなのか?ということはどうしても感じる。1941年生まれというのは非常に微妙なものあれだ。父親はゼロ戦の与圧服(プレッシャー・スーツ)の開発スタッフだったそうだ。 父親から戦争の話を多く聞かされたのか?物心がついた頃に戦争の傷跡が町にいっぱい残っていたのか?・・・周りには戦争で父親を亡くした子供も多かっただろう、そして敵兵を殺してしまったことによって心の傷を負った大人たちをたくさん見たのではないだろうか?相手の顔が見える状態で殺してしまった場合、98%の人がうつ病になると言う統計を見たことがある。大人になった私はそういうことを知っている。そうすると心が少年だった頃見えていなかったものが見えてくる。・・・ たかがアニメの戦争ではあるが、我々は我々の世代では絶対に描けないものがこの作品では描かれていることを感じ取るべきである。そしてこの心に残るずっしりと重いものを、これがガンダムだったのだと再認識してこれから生きていくのだ。
ガンダムのような素晴らしい大河ロマンを書こうとしている作家志望の若い人に私はアドバイスしたい。
ガンダムはアクションを盛り上げるためのストーリー構造を目指して作られたのではない。クライマックスで表現したいことを表現するにはどのような構成が必要かということから考えられた構成をしている。
戦争に巻き込まれる恐怖。戦争の中にも素晴らしい人格者がいること。戦争にまつわる憎しみの数々。悲しみの数々。それによって増幅される感情。シャーのガルマへの仕打ち、やランバラルの登場、母親の目の前で敵兵を殺してしまったこと。マチルダの死、 物語の中に織り込まれた男女の愛。誤解や考え方の違い・・・全てを描いておかないと作者がクライマックスで伝えたいことが伝わらない・・・ だからそういうエピソードの数々があるのだ。
伝えたいものがあるから物語がある。ただ面白いものを描こうとして描き始めても、このような人の心を揺さぶる傑作は絶対に出来ないだろう。