菊次郎の夏のレビュー・感想・評価
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『正男の夏』ではなく、『菊次郎の夏』。
◯作品全体
『キッズ・リターン』と『HANA-BI』でそれぞれの道を歩く二人の主人公像を描いてきた北野武作品。
本作においても菊次郎と正男という二人の主人公を描く。上述した二作品では別々の道を歩む姿が印象的だったが、本作では同じ旅路であり、互いに「母親がいない」という共通点を持つ。初対面に近い二人がただ一つ、「母親がいない」という共通点のもと破天荒な旅を進んでいくわけだが、破天荒の中身が適度に常識的で、適度に逸脱している菊次郎の行動と普通の小学生である正男の掛け合いがまず面白い。面白いのだが、もう少し二人の関係性を描く時間として使っても良かったのではないかと感じた。菊次郎の暴力的な行動は「武映画ならでは」とか「感情表現の不器用さのあらわれ」とか肯定のしようはあるんだけれど、プールで溺れたり、全部あげたようにみせたおにぎりをこっそり食べたり、弱い部分や虚勢を張ってる姿にこそ人間味があった。そういう部分をもっとクローズアップしても良かったのではないか。
「正男の母親にたどり着く」という目的に到達し、正男が傷つく結果となったあとは、菊次郎の不器用な励ましが「たけし流バラエティ番組」っぽさを感じつつ繰り広げられる。もちろん面白い部分もあるのだが、『キッズ・リターン』と『HANA-BI』、二作続いたシリアスな作品で我慢できなくなって『みんな~やってるか!』のノリを持ってきてしまった感じが否めない。井出らっきょのキャラ立ちっぷりがすさまじく、そっちに気持ちを持ってかれてしまったところもあった。
仲間と少しずつサヨナラをしていくシーンはとても良かった。ここだけは菊次郎もいつもの破天荒っぷりがなく、少し寂しそうにみえるのが良い。順を追ってサヨナラをしていくのがまた、旅の終わりの空気感がとても良く出ていた。
ラストまで見て、『菊次郎の夏』というタイトルの良さを強く感じた。「正男の夏」ではなくて、「菊次郎の夏」なのだ。無下に過ごす毎日に正男という過去の自分と再会したようなファンタジックな少年が現れる。そのファンタジックさは天使というモチーフで語られ、特別な「菊次郎の夏」となる。最後の最後で菊次郎という名前が明かされる脚本が、誰が主役なのかということを改めて教えてくれたような気がした。
正男のひと夏の成長物語のようでいて、「オジサン」の菊次郎が過ごしたひと夏の想い出の物語でもある。オジサン・北野武が描く、幼き頃を見つめるオジサンの描写力が本作の見どころだ。
〇カメラワークとか
・正男が旅支度をして家を飛び出すカットが好きだ。クレーンショットでカメラがどんどんと上へあがっていく。正男の気持ちの昂りとすごく上手にシンクロしていた。
・「キタノブルー」は海のシーンであった。ここだけすごく彩度をいじっている気がする。菊次郎がこの時の美しい景色を思い出しているかのような幻想度。
・時間の経過を思いっきり省略する演出がところどころであった。トウモロコシ畑で偶然旅人の青年と再会して、二人でトウモロコシを売るシーンとか。四コママンガみたいなテンポ感。
・たけしのバラエティー番組っぽいキャンプのシーンだけ舞台を映すカメラのように、カメラと被写体っていう関係性が明確にあった。意図的だろうし、それが面白さに繋がってるんだろうけど、あそこだけ映画のワンシーンじゃなくてミニコーナーみたいになっちゃってた。
・このころの北野作品の芸術にかぶれてる感は、なんというか、浮いてるなぁって思ってしまう。イラストとかダンスとか。作品の中に馴染んでればいいんだけど、イラストのテイストも濃いし、ダンスも天狗が急に現代風ダンスを始めるし、ちょっと前のめり過ぎる。
〇その他
・傲慢な態度を取る一方で、急におとなしくなる相手がいたりするところ、北野武が一番上手だなと感じる。人間関係を描くのもそうだし、態度を変える登場人物の内心に迫る巧さがある。しかもそれが「ブレてるキャラクター描写」でも「人で態度を変える嫌なヤツ」ではなく、「誰にでもある、この人には頭が上がらないという気持ち」を正確に描いてるのが凄い。本作で言えば菊次郎の母がいる老人ホームの職員だったり、旅人の青年がそれだった。
・菊次郎が頭があがらないというのもあって、旅人の青年はなんだかすごいやべーやつに見えてきて笑えた。菊次郎が裏表のない人間と関わるのに慣れてないっていうのもあるのかも。
・だるまさんがころんだで正男が「やさしそうなおじさん」って言って井出らっきょが反応したとき「お前はハゲたおっさんだろうが」って言うツッコミがすごく面白かった。
「菊次郎の」夏
この手の映画は、少年の成長物語がほとんどだが、「菊次郎の夏」は違う。主人公は少年の正男ではなく、成長しきれず社会的に失敗した中年の菊次郎である。それがこの映画の肝であり、斬新さである。
父は死に、母は遠くで仕事をしていると聞かされ、祖母に育てられている正男は、母を訪ねる旅に出る。しかし子供だけで旅に行くわけにはいかないため、菊次郎が付き添うこととなる。どうしようもない菊次郎は、まず競輪に行き、旅費だけでなく正男の小遣いをも溶かす。旅の道中で周りの人に理不尽に当たり散らかし、犯罪まがいというか、犯罪を繰り返す始末。全く手に負えない男だった。しかし、正男との旅を通じて、空回りをしながら不器用なりに、少しずつ優しさや他者への思いやりを取り戻していく。
ストーリーは良い。ありがちなものだが、軸となる主人公を変えることによって、他の作品と一線を画している。この作品で賛否が別れる部分は、後半のギャグのオンパレードだ。ストーリーとして解釈するなら、落ち込んだ正男を変な大人たちが元気づけるために面白おかしいことをしているのであるが、それがあまりにも馬鹿げていて尺が長い。確かに笑えるが、哀しみを帯びたストーリーと対比させるには、あまりにも強烈。しかし、前述したように、この映画の主人公は菊次郎なのだ。そして周りにいる変な大人たちも、間違いなく菊次郎サイドの人間だ。誰よりもよく遊び、楽しいことを知り尽くしている。そんな大人たちと、不器用だけど、徐々に優しさや思いやりを取り戻してきた菊次郎が、正男を元気づけ、笑うこと、人を信じることを思い出させるためには、ここまでやってもおかしくないと、腑に落ちる部分もある。
この映画で最も評価している点は、北野武の類稀なるカメラワークや画の構図。久石譲の芸術的な音楽。その二つの芸術がストーリーにより一層奥行きを与える。一見馬鹿げたドタバタ劇も、それらと対比してみると、なんとも言えない気持ちになる。また、この映画には多くの静寂と余白がある。それらがとても効果的に使われており、鑑賞者に考えさせる間となっている。そうせざるを得なくなった理由の一つにテーマソングの「Summer」が挙げられる。この曲はあまりにもインパクトが強すぎて、良くも悪くも聴き手を感傷的にさせる。この曲を劇中で多用すれば、そのインパクトは薄れ、映画全体がつまらないものになりかねない。だからこそ使う場面は限られる。あの曲が流れる時、鑑賞者の時間の感覚は一瞬止まり、それ以外のシーンでは音を消すことで、映像そのものの美しさが際立つ。
確かに北野武の映像には大きな魅力があった。邦画では珍しく、とてもリアルで重みがある。決して完璧な映画とは言えないが、その不完全さこそが、人間の不器用さや泥臭さを映し出していたように思う。記憶のどこかに残り続ける作品だった。
菊次郎の夏の『の』は修飾の『の』
主格をあらわす『の』でもあります。もちろん。
ラストシーンはこの映画のもう1人の主人公が菊次郎であると明らかにするとともに、
別れによって訪れた夏の終わりで、
この映画の主人公があくまでも少年であり少年がおじさんと過ごした夏、すなわち『菊次郎の夏』であることを見せてくれます。
ヒッチハイクの夏でも、お母さんの夏でも、キャンプの夏でもなく『菊次郎の夏』。
この余韻が素晴らしい。
ところで平成にいたこういうろくでもないおじさんって、今はもう居場所はないんでしょうね。
その意味でもノスタルジーを感じました。
よかった
前に見た時は退屈な印象があったのだけど、今見てもけっこう長くて飽きる。旅の途中でバス停で三日も過ごす。まさおに個性がない。まさおがお母さんに会いに豊橋まで行くのだけど、お母さんを見つけて会わないことを選択した後もだらだら続く。合成がしょぼい。他の映画でもそうだけど、たけしとキャラが被るヤクザみたいな人が、トラックのドライバーとかお祭りのヤクザとか何人かいる。役割や立場が違うだけで、同一人物のような、描き分けをするつもりもないかのようだ。
「菊次郎だよ、バカヤロウ」はやっぱりちょっと感動する。
ぼくとおじさんの夏休み
思い出しレビュー41本目。
『菊次郎の夏』
母親を捜す少年と彼に同行する事になった中年男のひと夏の旅。
北野武がバイオレンスを排して描く、心温まるロードムービー。
子供一人じゃ危険だからと、近所のおばちゃんが自分の旦那を付き添わせてくれたんだけど、この男の方こそ問題児。
旅費を早速競馬に使っちゃうわ、無責任だわ、元ヤクザなのかどうか分からないけど、全然優しくないし、口も悪いし。
先行き不安…。
旅はシュール。
目的の傍ら、皆で遊んでいるのだ。
少年も、男も、出会った人たちも。
それぞれ、あの日の夏休みのように。
母親の居場所が分かった。
が…。
落ち込む少年に男は同情する。
男と全く同じなのだ。男もまたそうだったのだ。
男は少年を励ます。
ちょっとバカやってしまった男を、少年が気遣う。
いつの間にか愛情が芽生えていた。
「ぼうず」とぶっきらぼうな呼び方が「坊や」に。
旅が終わって別れる際、「おばあちゃん、大事にしろよな」と抱き寄せる。
最後の最後に名前を聞かれ、はにかみながら答える菊次郎。
二人のひと夏の旅は終わってみれば、優しく、温かく、大切なものになった。
順番が問題か?
予告編を見ると、楽しく過ごし、悲しいこともあり、最後はしんみりという展開になってます。
なぜか本編は悲しいことが早めに来すぎちゃって、あとのおふざけが強く感じられちゃいました。
「おい、ぼうず」から「坊や、ありがとな」
映画「菊次郎の夏」(北野武監督)から。
「ばかやろう」とか「てめぇ」とか、乱暴な言葉で
相手を威嚇してきた遊び人の主人公と、母親を探す小学生、
不釣り合いなふたりが繰り広げる一夏の冒険に違いないが、
気になる台詞をメモしていて気がついたのは、
北野武さん扮する菊次郎が口にする、子どもに対する呼び方。
旅の最初から途中までは、ずっと「おい、ぼうず」。(坊主)
それが、辛く哀しい経験をしていくにつれて「坊や」に変わる。
小学生が探していた母親が、あまりに幸せそうだった場面、
「人違いだった」と嘘をつきながら、引き返すシーンや
浜辺をてをしっかり握りゆっくり歩くシーンに、涙腺は緩んだ。
そして、お祭りで悪いことをして殴られ血だらけになった主人公の顔を、
小学生が、走り回って見つけた薬屋で買ったガーゼ等で、
丁寧に拭き取るシーンでの台詞「坊や、ありがとな」で最高潮に達し、
これ以後「坊や」と呼ぶシーンが増えた気がする。
この変化、きっと意識的だろう。
主人公・菊次郎の心の変化が、こんなところに表現されているとすれば、
メモが役にたったこと喜びたい。
「おじいちゃんの名前なんていうの?」という問いに
「菊次郎だよ」の会話で「ぷっ」と吹き出し笑いするラストシーン。
何か意味がありそうだなぁ。
P.S.
「競輪で6-3配当17,660円」を当てた時だけは「坊や」だったかも。(笑)
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