「過去と現代は海峡で隔てられていても航跡は繋がっているのです」飢餓海峡 あき240さんの映画レビュー(感想・評価)
過去と現代は海峡で隔てられていても航跡は繋がっているのです
1965年1月公開作品ながら白黒で撮影されています
それもかなり画面が粗く撮られています
序盤ほど画面の粒子がかなり粗く、後半になるほどその画面の粗さが無くなっていきます
意図的な撮影方針であって監督の映像演出であるのは明らかです
冒頭の東映マークの下に大きくW106方式と表示されています
その様に撮れる撮影方式を開発して、冒頭に誇らしげにまるでテクニカラーとかシネマスコープ作品のように映像方式を誇示しているのです
カラーで撮れるにも係わらず白黒撮影を選択し、さらに解像度を可変させる
ソラリゼーションの効果を適時取り入れる
世界的にみてもこういった前衛的な技法を採用しているのは最も早い部類ではないでしょうか?
公開の1965年は昭和40年
物語の発端は昭和22年、ラストシーンは昭和32年
本作公開時からすれば、それぞれ18年前と8年前に過ぎないのです
21世紀の現代の日本人からすれば、その時代は最早遠い異世界、海外の大昔の物語の様なものかも知れません
しかし、製作当時は本作の内容はついこの間のこと、当時の現実と確実に地続きのものだったのです
公開の僅か3ヶ月前には東京オリンピックが華々しく開催され、夢の超特急と言われた東海道新幹線も開通していたのです
時代はこの映画の映像のような白黒の世界から総天然色の世界にまるで海峡を渡ったかの様に変化を遂げようとしていたのです
つまり監督の意図は、この様な映像方式を開発してまで撮影することで、観客に実際の出来事の記憶とのシームレスな映画体験をさせることを目指したのだと思います
それは何かというと
飢餓=貧困の記憶、戦後混乱期の困窮の記憶
それだけでなく戦前の苦しく貧しい生活から懸命に努力して這い上がろうともがいた記憶とのシームレスな物語なのです
本作は主人公が誰だかはっきりしません
犬飼こと樽見京一郎でも、函館署の弓坂刑事でも、千鶴こと杉戸八重でも、舞鶴東署の味村刑事でもなく、それぞれが物語の進展にしたがってバトンタッチしていくのです
彼らは実は全員脇役なのです
本当の主人公は当時の観客であるのです
いえ、日本という国そのものが主人公だったのかも知れません
極東の貧乏弱小国が列強の圧力に負けまいと懸命に努力して這い上がろうともがいていた樽見のような存在なのです
その過程では多少のやましいことにも手を染めてきた自覚が当時の国民に共有されていたのです
そして敗戦し全てを失います
しかし戦後の混乱を乗り越え苦労を重ねて新生民主化日本を再建して、今やオリンピックを開催して成功させるまでに成長してきた記憶
その国民の記憶こそが主人公なのです
それ故に樽見の困窮を極めた過去は捜査会議や取り調べで語られるだけで映像では説明されません
なぜならそのシーンは当時の観客それぞれの胸の内にはっきりとあったからなのです
戦前の記憶は北海道であり、戦後の記憶は下北や東京などの内地であり、そして両者を隔てている津軽海峡は戦争そのものであるのです
層雲丸遭難は戦災の象徴です
このアナロジーで読みとくと本作の主題が明瞭に見えてきます
樽見は戦前の論理で生きてきた国民自身
弓坂刑事はその罪の意識
八重はだって仕方なかったの言い訳です
味村刑事は戦後日本の論理で生きる国民
だから味村刑事は高倉健が演じるのです
パリッと真面目で正義感にあふれ若々しいのです
だから樽見は北海道のことと内地のことを分けて考えさせるのです
戦前と戦後を違うことと切り分けさせることにこだわるのです
その目で見れば、八重がいそいそと樽見邸に赴く際に写される舞鶴市街の風景に警官のような軍服のような男達が大勢歩いていることに気がつきます
彼らは創設されたばかりの自衛隊の訓練生なのです
反省もなく戦前を再生させつつある町であるというメッセージだと思われます
八重は国民の仕方なかった
流れのままこうなったと考える被害者としての意識の象徴です
それ故に土俗性を強調するためにイタコのシーンがあるのだと思います
八重は真面目に働く積もりだったのですが、それでは幾らも稼げず女郎になるしか家族に満足な仕送りができないからであるし、父親もそれを分かっています
東京に出ても結局亀戸天神の裏手の公認の売春地域である赤線地帯の料理屋に住み込みするのです
そして犬飼の爪で自慰を始めようとするほどに昔の思い出に浸るのです
つまりあれは戦前への郷愁の暗喩だったのです
その前の国電のガード下のエピソードやオンリーさんの風景も当時の国民に共有され共感される記憶なのです
有楽町のガード下はいまも微かにその時代の面影は店構えだけに残っています
そして味村刑事はそんな国民を取り調べ断罪するのです
そんな身勝手な言い逃れが通用すると思うのか!と
高倉健はその演出意図を読みとって演技に反映させています
ラストシーンは序盤で和尚さんが弓坂刑事にいう軽口が伏線になっているものですが、同時に戦前の日本への鎮魂だったのです
それ故に海峡で読経するのです
飢餓海峡とは
貧困から脱出しようともがいた末に起こった戦争
そこから死んでいった人々に罪をなすりつけて自分だけが生き残り、戦後の困窮と悲惨をくぐり抜け這い上がり、ようやく成功をつかもうという今との間にある海峡
それら全てが過去になろうとしていることをテーマにしているのです
だからエンドマークは青函連絡船のどこまでも長く続く航跡なのです
過去と現代は海峡で隔てられていても航跡は繋がっているのです
それは21世紀にまでも繋がっています
確かに当時の左翼的な史観で製作された作品であります
21世紀の現代の目で見ればその感覚には違和感も覚えます
しかし映画としての価値と意義は21世紀の今日であってもいささかも薄れはしません
見事な演出、演技、音楽どれも全て最高峰のものです
序盤で樽見から切符を回収して顔を覚えているはずのバスガイドが、大湊の駅前交番で警官から聞き取りして成果なしと諦めている正にその後ろで、終点になったバスを転回させている所を弓坂刑事の肩越しで小さく捉えるショット
あと一歩で八重に迫れたはずのシーンです
これが終盤の弓坂刑事が舞鶴東署での捜査会議で間の抜けた事でと語るシーンへと繋がる伏線回収の超ロングパスなど本当に見事です
そこであの時のシーンでのバスガイドの動きと彼の諦め顔が明瞭に思いかえされるのです
伴淳三郎の演技も本当に抑制された渋いもので本作を名作たらしめています
そして八重役の左幸子の迫真の演技
薄幸の女性の生来の真面目さ、性格の良さ、だらしなさ、打算、純情、その人格全てを余すことなく演じ切っていると思います
さらに現代のハンス・ジマーに勝る環境音楽と言うべき音楽をつけた巨匠冨田勲の仕事は心に残りました
これ程の大作で在りながら前衛的で野心的な構成をとり、破綻なく完成させ隅々まで神経が行き届いているのです
間違いなく名作中の名作といえます