「いかにも、バブル崩壊直前の映画。」おもひでぽろぽろ とみいじょんさんの映画レビュー(感想・評価)
いかにも、バブル崩壊直前の映画。
【バブル崩壊期間は1991年3月から1993年10月までの景気後退期を指す(Wikiより)。】
狂躁的雰囲気に疲れた人々、その雰囲気に合わない人々、先見性を持つ意識高い系の人々の中で巻き起こった自然回帰・田舎礼賛。
1992年ブラジルでの地球サミット。「持続可能な…」はこの頃からの概念なのだけれど、世間には定着せず、最近SDGsとして取り上げられる。
無農薬農業など「ありえない」と農協等にはねつけられても、徐々に、有機農業などに取り組む人々が現れた時代。でも、軌道に乗せた人々はごくわずか。
天候具合で簡単に打撃をうけたというニュースが届く農業。
「仕事なんて、どれも大変でしょ(思い出し引用)」確かにそうなのだけれど…。
子どもに継がせたくないという親世代。離農する人々。
嫁不足。東南アジアから半ば人買いのように花嫁が連れてこられることが問題視されたこともあった。勿論幸せな家庭を作った方々も多い。
だから、ラストのタエ子の行動に、27歳にしては、考えなしに思えて一気に評価が下がる。
せっかく安易に浮かれていた自分に気が付いて大人の階段を上ったと感動していたのに…。
まあ、『卒業』のように、恋を掴みに行ったと思えば、応援したくなるが。
「この景色は全部人が作ったものなんだ(思い出し引用)」
そう、失敗を重ねながら、治水や山崩れしないように工夫して開墾しながら作り上げた。
そういう知恵を無視して、宅地造成して、今、被害が出ている。
監督は紅花等入念なリサーチをしたと聞くが、田舎暮らしは体験しなかったのだろうか。
観光地でさえ、歓楽街がない場所に立つ宿から、日が落ちてから外に出れば真っ暗。歩いて10分くらいのコンビニに行きたいと言ったら、宿の人が車で送ってくれたほど。
だから、タエ子が夜飛び出す場面に、ありえな~いと思ってしまう。月明りで歩けるほど、土地慣れした設定なのか?でも、雲も出てたし、そのあと雨降ったよね。
リアリティを追求したというが、追及してほしいポイントが私とは違うのだろう。
今井さんと柳葉さんの掛け合いは最高。
だが、役者の顔が浮かんできて、その二人ならこんな表情をするだろうという繊細な表情に、アニメが付いてこない。中途半端。いっそのこと、小5時のアニメのように、アニメチックに描いてくれたらそんなに気にならなかったのかもしれないのにと、イライラしてくる。予算の関係もあって、セル画の枚数が圧倒的に足りないのだろう。とはいえ、初期の東映動画『白蛇伝』は佐久間さんたち役者の演技を映してセル画に落としたというが、『白蛇伝』の動きはきれい。だのに、この映画はなぜ…。
そして他の方も指摘しているが、ほうれい線や皺によって、タエ子が40代に見える。
今井さんと柳葉さんの演技を聞いていると、実写でもよいのではないかと思うが、これを実写にすると、ストーリーが甘々すぎて、陳腐となる。アニメだから、このストーリーで観ることができる。難しい。
反対に、小学5年生パートは、郷愁を誘われて懐かしかった。
自分のそのころを思い出してしまう。つぃ、写真のアルバムを取り出してしまう。
たわいがないけれど、その一つ一つが自分を作っていったもの。
父の田舎。夏にだけ会ういとこたちや親戚。いとこにいじめられたり、あまり良い思い出がなく、今のような快適な乗り物などなく、いつも行かなくてすむ方法はないかと考えていた。田舎に憧れるタエ子の気持ちに共感できない。旅に行きたいだけなんだろう。
私も、母の田舎はない。祖母と同居だったからうちが田舎。いとこや親戚が来て遊んでくれたけれど、タエ子のうちには来なかったのだろうか?親類の訪問は非日常ではないのだろうか。
ノスタルジーを含んだユートピア的な映画。
他の方のレビューを読むと、子ども時代に見たのと、社会に出て、社会の歯車役割をある程度果たせるようになった頃に見るのと、感想が違うとある。人生に迷っているアラサーには評価が高い。
けれど、社会に出てから長い大人としては、27歳パートに関しては、夢見る夢子ちゃんではなく、地に足つけて欲しいと思ってしまう。
(原作未読)
★ ☆ ☆
ある授業で鑑賞するようにと言われた映画。
<問1>両親の優しさ・厳しさ。
昭和世代にはあるあるのタイプ。
経済的なことさえやっていれば家長としての面目が立っていた時代。新聞読みはその象徴。買ってもらうことで愛を図っているような言動。基本的信頼感は構築できているうえでの、些細なやり取り、甘え。
給食の食べ残し。給食より、作文を誉めてあげて欲しいとは思うけれど、パンだけを入れた袋と総菜の汁がついた袋の汚れ方の違い。手間が増えることへの怒りが先に立ってしまうのは共感してしまう。家事を助けてくれる家電は今より少ない。
タエ子の気持ちを汲もうとするけれど、”寄り添う”という意識はなかった。けれど、いつも子どもの言動は視野に入っていて、心理的ネグレクトというほどではない。
優しさ・厳しさというより、気持ちがすれ違っているようで繋がっている。
<問2>ハンドバック事件
お下がりばかりの末っ子。しかも、姉は気持ちよく譲ってくれない。常に末っ子としてないがしろにされている感じに癇癪を起してしまうタエ子。せっかく両親を独り占めできると思っていたら、割り込んでくる姉。タエ子は大切にされているという確証が欲しかったんだよね。癇癪起こせばなだめてくれるって期待してしまった。でも期待は裏切られ、見捨てられたと思ってしまい、慌てて靴も履かないで飛び出してしまう。自分の力で解決しようとせずに(ex.気持ちを説明することなく、察してくれるのを待っている)、甘えが駄々洩れ。
そんなタエ子の気持ちには気が付かず、家族のためのイベントを潰されたような気持になってしまった父。”ちゃんと”しないタエ子をつい、平手打ち。そのことを反省して、たぶん、二度と手を挙げなかった父。
そんな父や、楽しみにしていたイベントがダメになってがっかりする母と姉の気持ちにも、27歳にもなっても気が付かないタエ子。どこまで自分のことだけなんだ。
両親は両親なりにタエ子を愛してはいたが、タエ子の気持ちに共感することはなかった。だから、タエ子は相手の気持ちに気が付けない大人に育ったのだろうか。
<問3>割り算事件
分数の掛け算・割り算は私も納得いかなかった。姉の如く、私も未だに説明できない。
でも、割り切って、教えられた作業を続けている人の方が多いであろう。そう、世の中の総てを知らなくてもいい。とりあえず、言われた作業をやればいい。だって、興味ないし。興味を持てたら突き詰めればいい。そんなことに時間を使うなら、本当に自分にとって大切なものに時間を使えばよい。そんなふうに割り切れないタエ子。つい最近まで、私も優先順位をうまくつけられなかった。そんな風に絡まってしまうから、刺激の多い都会は住みづらく、空間の多い田舎に憧れるのだろう。ましてや、”手伝い”なら、一つの作業に集中していればよく、皆から感謝され、大切にされる。地元の人になったら、納得いかないことも多く出てきて、農作業だけでなく、経営や地域振興等やらなくてはいけないことは、OLより多いのだが。大丈夫かと心配してしまう。
母や姉の反応。昭和の学校が求められたのは工場のラインで働く人を育てること。つまり、皆と同じことができる人を育てること(バブル前後、日本の企業がアジアに工場を作った時、ラインで働ける人=均一に同じことができる人がいなくて、工場を起動させられなかった。そういう人を作るところから始めた)。理屈じゃない。地頭の良さでも発想の豊かさでもなく、同じことができるか、できないか。「こんな理屈もわからないの?」ではなく、「こんな作業もできないの?」だ。分数の割り算を説明できない姉だって本当は理解していないのだが、それには気が付いていない。だが、作業はできる。
今なら、そんな屁理屈を気にする着眼点を誉めることもできるだろう。作文や他の才能を伸ばすことも考えられたであろう。WISC等で知的素質を調べることで、対応も考えられる。尤も、点を取る方法を学んでいるお受験組も、実は教えられた作業をうまくこなしているだけの人は多い。たとえ、東大を卒業しても。有名教育大を卒業しても。難関の各種公務員試験に受かっていても。
何のために勉強するか。たんに、点数や偏差値を挙げるためだけでなく、この学習・知識・作業がどう人生に役立つのかを考えてしまって不登校になっている子どもたちも多い。そんな時に、もっとメタな視点から説明ができたら、その勉強・作業をする意味づけができて、やる気も出てくるのになあと思う。
とはいえ、そんなことにも気が付かない家族からバカ認定されて、馬鹿じゃないと思いたい反面、自分に自信を持てないタエ子。田舎への憧憬も、今の現状からの逃避に見えてしまう。都市では普通に仕事をこなしても誰も認めてくれない。田舎なら、こんな軽作業でも、皆がちやほやしてくれる。
<問4>学芸会事件
役に合わせて演じ方を工夫したタエ子。頑張ったねと声かけたい。半面『ガラスの仮面』を思い出してしまった(笑)。端役の方が目立ってしまって、”舞台嵐”として、干されそうになった北島マヤ。先生にとっては、そこまでやる気を見せてくれて嬉しいけれど、舞台・クラスメンバーを考えると、却下せざるを得ないであろう。27歳になってもそこに気が付けないタエ子。ここでも自分のことだけしか見えていない。
そうして目立ったタエ子。お声がかかる。即座に反対する父。芸能界は「銀幕」という言葉が表すように、今よりももっと敷居の高いものだった。モー娘も、AKBも動画配信もない時代。一芸がなければ、あっても大成しない。今でこそ、大人になっても俳優を続けている方がたは多いが、子役は大成しないといわれた時代。父が反対するのも当然。母が一緒に浮かれている方が信じられない。
そして、母の口留め。今なら、子の方がやっかみからのいじめを気にして言わない。母がママ友に吹聴してトラブルになる。時代を感じてしまった。
努力をないがしろにされ、認められても発揮できず、それを周りに言うこともできない。やる気の空回り。殻を破りたい思いが募る。田舎では皆が私を大切にしてくれる。だから、ここでならできると思う。こんなにのびのびできているのだもの。
<問5>阿部君
本音と建て前について悩んでいるというタエ子。
「皆仲良く」という小学校の教えから27歳になっても脱却できないタエ子。人付き合いには相性もあるし、すべての人を好きになるなんて不可能なのだけれど。嫌いだからこそ、仲良くするというのは他の人でも取っている対人作法なのだけれど。嫌っていないふりをすることで、教員からの、周りからの承認・称賛を得たかった。阿部君の為じゃない。自分のための行動。だから、後ろめたいのであろう。
自分だけ握手してくれなかったのは、そんなあさましい考えを見抜かれてしまったからと思うタエ子。ここでも、阿部君への配慮ではなく、自分の傷つきばかり。
「握手しない」=「嫌われた」。「嫌われる」ということに、過剰反応する女児・女性。自分というものを持っていないから、他者評価を自分の評価とするしかない。
そのことについてトシオから違う解釈を与えられる。しかも、ずっと欲しかった「あなたのことを好きだった」という言葉。心が軽くなる。
この話と、表面的な田舎礼賛との関係性が今一つ、腑に落ちていない。
田舎の良いところだけを見て、安易に「良いところですね」と答えていたタエ子。でも人生の選択を迫られて、覚悟がない自分に気づく。
こんな腹黒い自分をトシオが受け入れてくれるかってこと?で、このエピソードが出てきたのだろうか。トシオに受け入れてもらえたように感じたのか。
何が言いたかったのだろう?
タエ子の成長譚ではあるのだろうけれど…。