大曽根家の朝のレビュー・感想・評価
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家庭死守戦
戦争の悪辣を弱者の視点から描く作品は多い。本作も一見するとそのような映画群に包含されるように思われるが、実はそうではない。本作の視点は、特定の登場人物ではなく、大曽根家の屋敷そのものに固定されているといっていい。
カメラ(=視点)は徹底的にその外側を映し出そうとはせず、戦禍の中で次第にやつれ古びてゆく大曽根家の内情だけを丹念に見つめる。そこでは戦争の感触は電話や叔父の武勇伝や遠くで聞こえる戦歌といった非視覚的で間接的なメディアを通してのみ伝達される。そこにはたとえ否定的な形であれ戦争の物理現象を決して描きたくないという木下惠介の強い意志が感じられる。
あるいは、家という無機的なモノにカメラの権能を引き渡すことで、特定の誰かに過度に寄り添うような撮影方式が不可避に孕む事実歪曲的な胡散臭さを徹底的に脱臭した、と考えることもできるかもしれない。
しかしながら、家という物理的境界線を策定することで家庭から戦争をいかに切断しようと試みても、戦争の暴力は容赦なく戸口から滑り込んでくる。大佐という肩書を持つ戦争従事者である叔父が、ほんらい無菌空間であるはずの家庭を我が物顔でうろつくさまはとりわけ恐ろしく、そして不愉快だ。
叔父の存在はまさしくウイルスのように大曽根家を蝕み、いたいけな母親から大切な息子らを次々に奪い去る。外部(戦争)によってひとたび傷口を開かれてしまった内部(家庭)は滅びの運命を辿るほかない。
しかし最終的には息子らを奪われた母親が、そしてその娘が、叔父に隠し通していた本心をぶつける。息子を殺したのはあなただ、この家から出て行ってください、と臆面もなく言ってみせる。
はじめこそ彼女らを歯牙にも掛けなかった叔父だが、彼女らの凄絶な剣幕はやがて彼に「敗戦」という端的な事実を承服させるに至る。大曽根家はこうして遂に家庭を取り戻すことに成功したのだ。
とはいえそこにあるのは単に勧善懲悪的な力学ではなく、敗戦という家庭の外側で生じたリアリティを奇貨とした半自動的な作用である。木下は母と娘の高潔な魂とその勝利を高らかに歌い上げる一方で、それだけでは家庭を戦争から守り切ることはできないのだというリアリズムをも同時に描き出しているわけだ。
一つのシークエンスの中に複層的な意味を持たせる演出の巧みさはさすがの木下惠介といったところか。戦時下の国策映画で反戦映画を撮ってしまうだけのことはある。
母の思い
戦争に反対する長男。思想犯として検挙されたおかげで妹の縁談を叔父が断ることになった。軍人である叔父とは違い、亡くなった父は自由主義者の家庭だった。翌年、美術学校を目指す次男泰二が召集される。彼もまた戦争に対して疑問を持っていた。「武士道とは死ぬことと見つけたり」などと単純思想にはついていけなかったのだ。
泰二が戦病死したと連絡が入り、三男隆も海軍予備学生を志す。娘悠子の再縁談。母杉村が夢の中で見た隆の戦死。やがて叔父が我が物顔で大曽根家を牛耳る姿。そして敗戦後、隆の戦友が形見を持ってくる・・・
戦後最初の木下作品ということもあり、場面は大曽根家の中が中心。舞台劇のほうがいいものになるのかもしれない。軍国主義を徹底的に批判し、捕われた長男を信じてやまなかった母親の力強い台詞が印象的。
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