うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマーのレビュー・感想・評価
全57件中、21~40件目を表示
公開当時、原作者・高橋留美子を怒らせたらしいが、私はこの作品こそ、...
公開当時、原作者・高橋留美子を怒らせたらしいが、私はこの作品こそ、ある意味では「うる星やつらの本質」を原作以上に体現している作品だと思っている。
「うる星」の世界とはまさに「終わらない前夜祭」そのものであり、この作品がファンの叶わぬ作品世界への「現実逃避願望」を象徴しているという事を、他ならぬ原作者が理解でき ていなかったというのは皮肉としか言い様がない。その世界を作り出した張本人であるがゆえに、ファンの「求めているもの」との認識に乖離があったのだろう。アイドルが自分のファンにならない(なれない)のと同じようなものだ。
作中における「繰り返しの学園祭前夜」とは「永遠に続く非日常」の象徴であり、そしてその非日常性こそが「うる星」の世界を根底で支えている原動力=魅力であり、「いつまでも皆と一緒に楽しい時の中にいたい」というラムの願いは、そのままファンの願いの代弁でもあるのだ。
それに対し、ラストのあたるの「それは夢だ」というセリフは、「終わらない非日常」から「平凡な日常への回帰」を促すものであり、それは「どんな楽しい事にも終わりがあるからこそ意味がある」という示唆なのだろう。
恐らくアニメや漫画において、現実と虚構の境界を描く事でメタ視点において「ファンと作品との関係性」を問うた、初めての作品だろう。この作品が後に「エヴァ」や「ハルヒ」、「らきすた」等にも影響を与えているのは周知の通り。
他にもこの作品の魅力を語り出すとキリが無い。面堂の車で迷路のような暗闇の町を走る不安感、外へ出られないと分かった恐怖感、廃墟になった街を背景にバカンスを楽しむ背徳的な高揚感、謎を解きに夜の友引町にハリアーで飛び立つときの爽快感、そしてハリアーの先端にちょこんと座り、煌く星空と町の夜景の中、 緑の髪を靡かせながらこちらを振り返るラムの幻想的なシーンの美しさetc.etc。何度見てもワクワクさせてくれる我が青春の神作品。
ループ作品の原点にして頂点。
40年前の作品なのに、全く色褪せていない傑作。 私の中では「うる星やつら」はこの作品で完結している。そう思う程に、非常に完成度が高い。完成された芸術作品と言っても良い。 一点だけ、夢邪鬼が見せる悪夢のシーンは少し冗長だった感は残る。 だがそれ以外は本当に素晴らしい。
押井守ワールド!! 無限のタイムループからの脱出を謀る作戦だっちゃ!☆
高橋留美子先生の原作の漫画よりも テレビアニメ放送していた当時の 押井守監督の世界観が色濃く表現されていました。 友引町のレトロな街並み、高校の学園祭 昭和時代を懐かしく思えるストーリーでした。
令和という娯楽が溢れた現代では面白くもなんともない
あんまり面白いと思いませんでした。似たような娯楽作品がゴロゴロある現代で、適応する作品かと言われればそうではないなと思いました。 ただ「うる星やつら」自体にわかですが、前半はそんな世界観壊されてなかったな、と思いましたが、見返したくなる程面白い作品とは言えませんでした。
友引町に舞い降りた悪夢…
うる星やつらは元々現代の高校を舞台にした宇宙人ラムと高校生あたるのSFラブコメ。そしてビューティフル・ドリーマーは高校の学園祭の前夜を舞台にしたSFホラーサスペンス。藤岡琢也は兵庫県姫路市出身なのでコテコテの大阪弁で夢邪鬼を演じてる。
押井守さんのうる星やつらです!
初鑑賞 タイトルからして夢オチを予告する良心的手法 Dr.スランプは原作もアニメも夢中になったがうる星やつらはそうでもなくあまり見なかった なぜかはよくわからない 面白いのに ラムちゃんがあたるに付き纏い電気ショックを浴びせる光景が子供の頃はダメだったのかもしれない 志村けんが若い頃に別れ話がもつれ包丁を持った女に追いかけられ甲州街道をしばらく走った逸話があるが似たようなものだろう 原作は『めぞん一刻』『らんま1/2』『犬夜叉』の高橋留美子 脚本と監督は『人狼 JIN-ROH』『機動警察パトレイバー』シリーズの押井守 押井守監督の代表作かつ出世作 第一作より第二作の方が評価が高い作品はわりとあるが日本のアニメではこれがその代表格 しかし原作者が怒り心頭に発する正真正銘の原作レイプの代表格 原作者が概ね満足していればファンの一部がいくら怒っても客観的にいって原作レイプではない メキシコ旅行の際に久米田康治にもお土産を買ってくる優しい人が激怒するのだからよほどのことなんだろう 近いうち原作を読んで確認した方が良かろう 友引高校学園祭準備期間中 同じようなことを繰り返す毎日 帰宅しようにもなぜか街から出られなくなった SFミステリーコメディー 巨大な亀の上に友引の街の光景 古代の人々が想像した世界観を彷彿させた 亀と居住スペースのあいだには象ではなく巨大な人間の石像が支えている サクラが「2度目は悲劇 3度目は喜劇」と言っていたがこれはマルクスの名言で2度目3度目ではなくはじめ2度目が正しいのではないか 「暗いよー狭いよー怖いよー」の面堂終太郎 声を担当する神谷明やっぱり大好き 格が違う 一方でサクラの声を担当した鷲尾真知子 ドスのきいた声でいい味を出している 彼女をサクラの声としてスカウトの人はかなりの有能 神谷明を除くと一番印象に残っている うる星やつらといえばラムちゃんあたる以上に面堂やサクラが印象深い タクシードライバーとして重要なキーパーソン夢邪鬼としてなぜか藤岡琢也がゲスト出演 パトレイバーの竹中直人みたいなものだろう あといくら高校生のノリとはいえ純喫茶第三帝国はヤバすぎる
遅れてきた青年が青春の学生運動の夢を総括
押井が政治好きなのは有名だと思うが、その原点は大学に入ったらキャンパスにはもはやヘルメットを被った各セクトの学生はいなかったということだろう。大江健三郎のいう「遅れてきた青年」。それが押井である。 その欲求不満を彼はさまざまな形で映像化しているが、もっともオリジンに近い具現化が本作ではないか。 高度成長の後、東西冷戦構造ががっちり固められた何一つ変わらない日本には、永遠なる日常の倦怠が支配する。 その倦怠を密かに打破したいという願望を、あろうことか永遠なる日常の代表作マンガの中で達成するという野望が、本作の最大の動機である。 映画はお馴染みの学園ドタバタ騒ぎで始まるものの、そもそも学園祭の前日が果てしなく続いているという設定だから、それが「終わりなき永遠なる日常」という現実の比喩であることは明らかだ。 ところが、雨上がりの通学路の水たまりに溺れてみると、永遠だった日常が突然、非日常の様相を呈し始める。 その果てにあるのが、階数がしょっちゅう変化する学校校舎や荒廃した世界の中で繰り広げられる非日常の自由と解放、無政府主義的全学連的安田講堂占拠的wな世界である。 本作のハイライトは、間違いなくメガネが語る似非革命コミューンの年代記だろう。それ以外のカメや夢邪鬼やらのエピソードは、単なる辻褄合わせに過ぎない。 学生運動で存分に遊んだ押井は、最後に日常に戻らなければならない。青春は終わった。そろそろ現実に戻って、人々とちゃんと向き合って、付き合った女性にも責任を取らないといけない。 押井はそうした私的思い入れを、ラムの「責任取ってね」のセリフで示唆している。交際女性の妊娠でも連想させるかのように、わざわざラムを幼女の姿にまでして…。その意味で本作は、彼の青春の「総括」なのである。 高橋留美子がそれに気づかないはずがない。自分の作品の中で、他人に勝手に青春の総括などされてはたまったものではない。原作者激怒必至の怪作というしかあるまいw
子供の時何回見たかわからないくらい見た映画
子供の時大好きで何回見たかわからないくらい見た映画だった。
幻想的な演出とドタバタギャクの世界が不思議な雰囲気を醸し出してて
何度見ても飽きさせられることはなかった。
学園祭のドタバタな雰囲気や世界が滅んで仲のいい友人だけで
サバイバル生活をしていくという妄想は私にも学生の頃からい懐き
正にこの世界観にマッチしたのがこの映画に惹かれる理由だったと思う。
この映画を見た時はまだ若く理解できない部分も多かったけど
以前見てわからなかった所がわかったりして良かったと思う。
あたるが現実の世界に戻る直前、幼いラムに責任とってね、
と言うセリフなどは学生の自分にはちょっと理解できてなかったのを
思い出したりした😅
この映画を今日数十年ぶりに見たくなってレンタルしてみたが、
当時であれば★5つは間違いないのだけれど、大人になった今
見直して見たら、やはり新鮮さや絵のクオリティ、果たしてうる星やつらで
描く世界だったのか?など色んな疑問も湧いてきて大人の私としては
★3.5かなと思った。
ちょっとメガネの出番が多くあたる、ラムの出番が少なすぎるため
押井守のオリジナルの世界観を押し出し過ぎている嫌いがあった。
もちろん好きな映画であったのでこの物語は評価するが、
複雑な思いがあるなと思った。
答え合わせで観た
本広作品のビューティフルドリーマーで分からないシーンが多すぎたので観た。 答え合わせにはなったが、世代なのに観ていないのに加えて、世代なのにあんまりピンと来なかった。 ただ、押井守作品の傾向の原点を確認出来たのは良かった。
実写映画の予習として鑑賞
実写映画のビューティフルドリーマーを観るために予習で鑑賞。有名な作品だからネタバレも含めてある程度知っていたのにちゃんと観るのは初めてだったかも。 うる星やつらであってうる星やつらでない。押井守監督の映画はどんな原作であっても押井守作品にばけてしまう。それがよくわかる映画だった。 正直、子どものときからうる星やつらにそれほどハマっていなかったし、押井作品にハマったこともない。むしろ難解な話にする押井監督は苦手という印象さえある。だからなのか、それとも時代の違いなのか、やはり退屈にさえ感じてしまうのだった。 でもこれで実写映画のビューティフルドリーマーを観ることができる!
映画史に残る映画だと思います。
「文化祭前日」と言う時間ループに捉われたあたる達が、そのループから抜け出す為に奔走する物語。 映画史に残る名作だと思います。 映像の美しさ、荘厳なBGM。ストーリーも「独創的」と言うだけでなく、2回転調を行うことで鑑賞者を飽きさせることがありません。難解に成り勝ちな押井ワールドも、個性豊かなうる星やつらの面々が演じることにより、絶妙に中和されていると感じます。 そして、最後のエンディングで「謎かけ」を放り込むオマケ迄つける周到さは、流石としか言いようがありません。 1984年は、アニメにおいてエポックメーキングな年だと思っています。このビューティフルドリーマーとナウシカが劇場公開された年だからです。この2作は、映画専門誌の「キネマ旬報・読者投票」でナウシカが1位、そしてビューティフルドリーマーが7位にランキングされました。格調高き映画専門誌の読者に2作も認められたことは、アニメの認知が一般社会にも広まったことを証明したと思っています。 そして、前評判が高くアニメファン以外からも注目度が高かったナウシカは兎も角、オタク向けと思われていたビューティフルドリーマーが高く評価されたのは、そのままこの作品の完成度の高さの証左だと思っています。
インセプション?
うる星やつらは、ファミコンで少々嗜んだくらいでアニメをマトモに観たのは初めて。 で、この高濃度の出来! これは現実?夢?夢の中でまた夢?…インセプションか! 観終わったばかりの今も、なんだか夢うつつでぼんやりとしています。 いやー想像だにしなかったこの展開。あっぱれ。
長年、何度も見ていると流石に飽きる
斬新な展開、設定、絵づくりで、何度見たか分からない。 このコンテンツはかなり好きだけど、劇場版を最も見ていて、次がテレビアニメ、そして実は原作への思い入れはほとんどない。 最初にテレビから入り、劇場版のビデオでハマって、原作を読んでみると意外と楽しめなかった記憶─。 最も見たであろうこの劇場版、何がそれほど自分を引きつけたのか─。やはり一風変わった作品だったからだということが大きいからで、その摩訶不思議な映像を繰り返し見て楽しめた。 時を経て改めて見ると、さすがに全てにおいて色褪せたものを感じてしまって、あの感動はもう皆無、残念ながら・・・。 ふと、思い出すのは、繰り返し見続けていく中で、一番面白いと思っていたビューティフルドリーマーからかわって、最初のオンリーユーが自分の中でだんだん一番になっていったこと。挿入歌含め、やっぱ最初が一番─。 とはいえ、このビューティフルドリーマーの情熱、野心、トライは消えることはなく、観賞の面白みが減ってきているとはいえ、色々と見るべきところはまだまだある、というかフォーエバー。
『巻き戻され無限ループに陥った現実と云う虚構』
原作はおろかTVアニメ版も殆ど観た事が無く、実はアニメ自体が無知蒙昧なジャンルではあるものの自宅にて鑑賞。難解なモチーフをクール且つ可愛らしい絵柄で見せる。主観性と客観性、或いは時間や空間、意識の共有、心象面・物理面を含めた他者との距離感、自我に寄ったそれらの産物と云ったテーマが描かれ、“タクシー運転手”が“サクラ”に語り掛ける科白にそれらが凝縮されている。度々登場する「浦島太郎」における仮定のエピソード、云う迄もなくそこに本作の肝がある。好みの噺でもあるが、なるほどよく出来ている、存分に愉しめた。75/100点。
・夜半にのっぺらぼうのチンドン屋一行は正に悪夢で、ここのみでも立派なホラーシーケンス。このチンドン屋にも同行し、他にも現実が巻き取られる様な様々なシーンに登場するつば広帽子にワンピースと白で統一された衣裳を纏う少女が奇妙な存在である。ラスト近くで明かされる彼女の素顔(正体)は意外に思えたが、シリーズの他作を知らないので、詳細はお詳しい方にお任せする(ちなみにこの少女とフランケンシュタインと云う構図は『ミツバチのささやき('73)』そのものである)。本作の元となるシリーズの世界観やキャラクターの詳細、原作等を殆ど知らないが、この少女は有名なキャラクターなのだろうか。公衆電話を含め一斉に鳴り出す電話も気味が悪い。それらとは対照的に路地裏で大量の風鈴が横切るシーンや手掛かりを求め迷路じみた夜の校舎を探索するシーン等は幻想的である。
・同じ一日がリピートされる中、街中の人が消失すると同時に街が退廃して行く設定が興味深い。無限に繰り返される現実は本作以降、多数のフォロワーを産んだと思われるが、本篇内でも触れられる通り、古くは荘子の記した私は蝶になった夢を見ているのか、それとも人を夢見た蝶なのかと云う「胡蝶の夢」であり、このテーマや疑似体験・仮想現実、模造記憶等を手を変え品変え書き続けた感のあるP.K.ディックの「虚空の眼('57・他人の夢の共有と云う設定は本作と全く同じ)」や「時は乱れて('59)」他、彼の諸作を想起した。
・ネタバレとして、第三者による環境下でのコントロールされた日常生活と云う世界観や設定は、『新・世にも不思議なアメージング・ストーリー2('88)』に収録されている『シークレット・シネマ "Secret Cinema('86年4月6日米国TVにて初放送)"』、『トゥルーマン・ショー('98)』、『エドtv('99)』、『ダークシティ('98)』、『シグナル('14)』等に酷似している。
・本作はTVシリーズの一エピソード、'83年7月27日放送された第101話『みじめ! 愛とさすらいの母!?』が元ネタであると脚本を兼ねた監督が認めている。尚、TV放映当時、制作側から虚構と現実を往き来するこの様なのは二度とやるなと釘を刺され、大目玉を喰らったと監督は回想している。
・監督が絵コンテをきっている際の仮題は"Forever Dream"であり、製作時には"Remember Dream"と呼ばれていた。“サクラ”が“面堂終太郎”と“諸星あたる”を呼び出す際に宛てた手紙にある「ありおり侍りいまそかり(そもそもは古文におけるラ行変格活用の暗記法)」と云う文面は、小松左京が書いた「明日泥棒」に登場する“ゴエモン”の口癖から引用したらしい。
・本作のタイトルはスタッフロールが始まる直前迄表示されず、更にそこで写される校舎に在る時計台はロールが終了し、BGMがフェードアウトする中、画面が暗転する迄、チャイム(鐘)を鳴らし続けている。
・本篇前に表示されるロゴでも判るが、本作の権利は東宝が所有しており、その関係で劇場でかかっているコンテンツ(メタ的な劇中劇)の一齣や準備される学園祭のコスプレ、張りぼてとしてかの“キング・オブ・モンスターズ”やウルトラマン、バルタン星人、ピグモン、カネゴンと云った円谷のキャラクターも顔を出している。亦、シリーズ中、当時米国で唯一リリースされなかった一本(東宝が米国の上映権も所有してた為)であると云う。
日常系SFアニメの構造を逆手に取った名作。
今なお高い人気を誇るアニメ『うる星やつら』の劇場版第2作。
文化祭前日のため準備で大忙しな友引高校に起こるある異変に、あたるたちが巻き込まれてしまう。
監督/脚本は前作から引き続き押井守が担当している。
名作と名高い本作。
季節が巡っても進級も卒業もしない日常系アニメであることのアンチテーゼとして、文化祭の前日という1日がループしているという構造が面白い。
冒頭の文化祭準備シーンはキャラクターが活き活きして非常に楽しそうだが、同じ1日が繰り返されている事に視聴者も登場人物も気付いていく。それにつれ徐々に恐怖が募るような演出は流石。
♨️がさくら先生に自分の考察を話すシーンは本当に総毛立つ。
ループ空間から抜け出そうとするまでは本当に面白いが、ループ世界の崩壊から先は正直盛り下がる。黒幕である夢邪気がでてからが一番面白くないのはなんだかなー、という感じ。
個性的なキャラクターとそれを演じきる声優陣は最高。
粘りある作画、丁寧な動き、音楽の使い方は非常に良い。
オチはあっさりしすぎだと思うが…
大人になって…
当時、小学生だったが、劇場で観たのだ! 勿論、内容なんて解らなかったのだが、"何かスゴい物を観た"という興奮だけは残った。 大人になって改めて観た時、あの時感じた興奮は間違ってなかった!…と納得の大傑作!!
全57件中、21~40件目を表示