「岩手の自然と農村の習俗をセミドキュメンタリータッチで映し込んだ、黒澤初期の力作。」馬 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
岩手の自然と農村の習俗をセミドキュメンタリータッチで映し込んだ、黒澤初期の力作。
『昨日消えた男』を観に出かけたついでに、つづけて高峰秀子特集で上映していた『馬』を鑑賞する。
上映前に館主の女性から説明があり、フィルム上映のつもりで映画会社からフィルムを借りてきたのだが、状態が悪くてどうにも上映できそうにないので、DVD上映でご勘弁くださいとのこと。上映直前にフィルムが到着して試写にかけたが、今にも切れそうな保存状態で、とくに最初のクレジットのあたりがヤバい。なおかつ終盤の音声フィルムがイカレてしまっていて、何を言っているのかさっぱり聞き取れない。苦渋の決断ですが本当に申し訳ありません、といった内容で謝っておられた。
個人的には別段DVDでまったく構わないけど、人によっては気にするのかなあ。
とにかく予備知識ゼロで(いや高峰秀子が出ていることくらいはわかっていたがw)、『馬』ってなんじゃらほいくらいの気持ちで観たので、思いがけず良い映画でとても満足度は高かった。
映画を観終わってからネットを見て知ったが、
これ、黒澤明の実質的デビュー作と言われてるんだってね。
最初のクレジットに「製作主任」って名前が出て、おおおっ!って思ったけど、実質半分くらいは黒澤がひとりで仕切っていたらしい。
当時、山本嘉次郎監督は超多忙で、おおむね黒澤にいろいろ任せたまま、複数の映画をかけもちしていたそうで、脚本のほうにもかなり黒澤の手が入っているとのこと。
そういわれると、たしかに黒澤ぽかった気がしてくるから不思議なものである。
しかも、長い撮影の間に、黒澤と高峰は恋仲になり、最後は婚約スクープが流れて別れさせられたという。で、公開の年に日本は太平洋戦争に突入するわけだ。
考えてみると、さっき観た『昨日消えた男』と同年の作品なんだな。
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『昨日消えた男』がいろいろな意味で「人工性」の強い作品だったのに対して、『馬』は徹底的にリアリズム表現に傾斜した、セミドキュメンタリータッチの作品である。
岩手の農村を舞台に、貧農の一家が一頭の妊娠馬を預かり、出産させ、その仔馬が二歳馬になるまでを、四季の移り変わりとともに丹念に描き出していく。
冬の寒さ。
夜の暗さ。
ひもじさ。
まじない。
農家の厳しい生活ぶりがリアルに伝わってくる。
食事は雑炊のような質素なもの。
ケガをして臥せる父親には、薬替わりに卵を吸わせ、
馬が病に倒れても、馬医者の替わりに祈祷師を呼ぶ。
濡れた雪靴や蓑は囲炉裏の上で乾かし、温泉までは徒歩3里。
正月。新巻鮭。かまくら。藁細工のバスマット。なまはげ(なもみ)。
岩手の農村風景と習俗が、じっくりと、記録映画のように描き出されてゆく。
特に、お母さんのキャラクターが結構生々しい。
外からきたお客さんにはやけに愛想がよく、村落共同体の一員としての気配りが出来ている一方で、娘に対してはやたらきつく当たる。もちろん娘のことは心から愛しているのだが、扱いはかなり雑だ。一方で旦那さんに対しては、立てる姿勢を一貫して崩さない。
いろいろな意味で、「昭和のお母さん」の類型をフィルムに刻印しているといえる。
そして、長い冬があければ、やがて春がくる。
生命の息吹。
子供たちの歓声。
牧場で草をはむ馬。
舞い狂う、さんさ踊りの一群。
一年を通じて彼らを包み込む、岩手山。
そんななか、一家の長女であるいね(高峰秀子)は、預かった馬を丹精込めて育てながら、たくましく成長してゆく。
つねに奥行のある重厚な構図感。
色彩感の秘められた繊細なモノクロのグラデーション。
そこに焼き付けられる、岩手の美しい農村風景と自然。
記録映画のようなテイストの中、骨太の家族のドラマを高らかに描きあげつつ、1940年代の岩手の民衆の暮らしぶり、方言、習俗をタイムカプセルのように保存してくれている。岩手山のようにどっしりと腰の据わった、良い映画だ。
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いねとダブル主演と言っていいのが、
仔馬の「小僧」だ。
長く厳しかった冬と、借金苦に押しつぶされそうな小野田家の苦境を、打ち破るかのように5月に生まれてきた若駒。仔馬の成長に合わせて、いねも、家族も成長していく。
何度も何度も失敗しながらも立ち上がろうとする、生まれたての小僧。
その姿は、そのまま生活苦を押し返して次の年に臨む小野田家と、冬を乗り越えて春に向かう岩手の民の象徴でもある。
馬は、あそこで立てなかったら死ぬしかないと良くいう。
岩手の農民たちは、何度も「ここで立てなかったら死ぬ」という状況を、自分を奮い立たせて乗り越えてきたのだ。
この映画には三度、馬の疾走するシーンが出てくる。
一度目は、生まれてすぐの小僧が脱走して、家の周りを駆け回るほほえましいシーン。
二度目は、小僧の姿を求めて脱走した母馬のはなが、岩手山の裾野を駆け巡る悲痛なシーン(しゃべらない馬にモンタージュだけで演技をさせ、切ない親心を描き出してみせる、演出力の冴える名場面)。
三度目は、馬に乗ったいねが、東京に旅立ってゆく弟を追って電車を並走するシーン。
いずれも、この映画のピークといってもよいような、情感のたかぶるシーンだ。
映画の「動」と物語の「動」、そして観客の心をリンクさせるのは、まさに黒澤明の得意としたところ。やはり、若き日の(恋する)黒澤の手腕が発揮されていると見るべきなのだろう。
もう一点、この映画には戦意高揚映画としての側面がある。
冒頭には、あの東条英機陸軍大臣による「軍馬」を称揚する直筆メッセージが出てくる。
そのあと、リアリティあふれる馬の競りの様子が出てくるが、馬および馬主にとっての最高の栄誉は、陸軍による軍馬調達だ。
終盤、馬の競り市が冒頭に続いて再現され、小僧は550円の高値で見事、軍馬として徴用される。ラストでは軍地に出征する小僧を見送る、家族といねの姿が描かれる。
要するにこの物語は、手塩にかけて良い馬に育て上げて、戦地で軍人とともに戦う強い軍馬を作れよという、富国強兵の思想のもとに撮られた映画なのだ。
だが実際に観ていても、そんな感じはほとんどしない。
おそらくそれは、山本嘉次郎監督にとっても、黒澤助監督にとっても、「お題目」自体は映画の企画を通すための単なる「方便」にすぎず、実際に撮りたかったのは戦意高揚のプロパガンダではなかったからだろう。
あくまで彼らが目指したのは、岩手の自然と岩手の民をそのままフィルムに収めること。
それから、人と馬の真摯な交流をそのまま描き出すことだった。
手塩にかけた馬を手放し、金に替えて、さらには戦地に送り込む。
その行為をヒロインのいねは、必ずしも喜んでいないし、むしろ涙にくれている。
いねの姿は、万歳三唱で戦地に子息を送り出す当時の人々の心情の写し鏡でもある。
これから戦争が本格化せんという時期に、山本と黒澤は、戦意高揚映画の皮をかぶらせながら、大切な子息を兵隊を出すしかない庶民の心を映画のなかに落とし込んだのだった。
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●朴訥としたなかで家長としての威厳を見せるお父さん役に、藤原鶏太。
映画を観たあと、のちの藤原鎌足だと知ってびっくり。まったく気づかなかった……。
●いつも、おまじないとお祈りに乗っかって来るおばあちゃん。「馬で迎えに行くからな!」みたいなことを言ったすぐあとのカットで位牌になっているあたり、黒澤の笑いとペーソスのセンスを感じさせる。
●都市に出て、紡績工場で女工をやらされるいねと少女たち。いわゆる学徒徴用ってやつか? 洋装でやたらおめかしして、日傘をさして送り込まれるあたりに、皮肉な味わいを感じる。なんというか、華美な装いに身を包んで春をひさぐ女郎や、さんざん飾り立てられて出征していく兵士たちにも似た、つり合いのとれない感覚というか……。
●まあ2年もかけて一生懸命育てた馬を、手放した挙句に軍に売りつけるとなると、観ているこちらも微妙な気持ちにはなるけど、言い方はなんだが、豚や牛のように「食べられちゃう子」を育てる話よりはよっぽど描きやすいよね。
畜産というのは、本当に人の心を試すしんどくて尊い仕事だと思う。
●高峰秀子は、本作において正しくヒロインとして君臨している。
可憐で、愛嬌があって、ひたむきで、芯が強い。
黒澤が惚れるのもむべなるかな。
幼少時から映画に出始め、天才子役として名を馳せ、高校生くらいでここまで可愛くなって、このあとも20代から70代まで、キャリアを途切れさせることなく歌に芝居にと活躍し続けた、稀有な女優である。決して美人ではないが、下がり眉で愛されるタイプ。あと、あれだけエッセイを残しているのをみると、とにかく頭の良い人だったんだろうな、と。
今でいうところの、芦田愛菜ちゃんみたいな感じだったのかな?
また機会があれば、ぜひ観てみたい女優さんである。