「超能力による暴力の復讐劇。暴力によって生み出された暴力的で哀れな鉄男はまるで人類そのものでありその哀れな人類の一人である私はこの暴力的な映画に興奮するがそれを認めてしまうのは悲しいと思った。」AKIRA eigazukiさんの映画レビュー(感想・評価)
超能力による暴力の復讐劇。暴力によって生み出された暴力的で哀れな鉄男はまるで人類そのものでありその哀れな人類の一人である私はこの暴力的な映画に興奮するがそれを認めてしまうのは悲しいと思った。
本作「AKIRA」(1988年)は日本の漫画「AKIRA」(1982年-1990年、全6巻)が原作の日本のアニメ映画である。架空の第3次世界大戦後の東京を舞台に軍隊の秘密研究の事故に巻き込まれた暴走族グループの少年たちを描く。学校でも所属する暴走族グループ内でも劣等生である主人公の少年、鉄男(てつお)は人気者で女性にもてる暴走族グループのリーダーの少年、金田(かねだ)に対して妬みや嫉妬などの負の感情を抱き、いつか金田を超えたいと思いながらも陰鬱な日々を送っていた。鉄男はある日、軍隊の秘密研究所から脱走した少年に出会う。その少年は軍の研究によって人工的に作られた超能力者であった。そして鉄男自身も彼との出会いにより超能力に目覚める。超能力に目覚めた鉄男は圧倒的な超能力による暴力でいままでのうっぷんを晴らすのだが彼の超能力のチカラはやがて制御不能となり暴走して東京全体が危機になる。金田は友人である鉄男を何とか元に戻したいと思い説得を試みるのだが…。
点数:3.0。お勧めします。暴力の連鎖を描いた悲しい作品であるが映像のクオリティがすごい。高品質のディズニーアニメのようにヌルヌルと動くアニメーション。スピード感のあるバイクどうしの戦いや軍隊や超能力や巨大レーザー兵器など多数登場し迫力の血みどろアクションが繰り広げられ興奮する。暴力的な作品であるが思春期の少年の心情を見事に表現した繊細な作品でもある。思春期の少年の持つ暴力的な一面を鉄男が演じ思春期の少年の持つ熱さをもう一人の主人公、金田が担当する。悪い点だが鉄男とカオリがかわいそうで救いがない様に見えるので-2.0して点数3.0にした。
侮辱され暴力を受け抑圧されていた劣等生の鉄男は偶然に超能力のチカラを手に入れても自分がされたように他人に暴力をふるうことしかできなかった。これは悲しいことだ。暴力を受けてきた人類がまた暴力を繰り返す。この悲しい連鎖を本作は描いている。鉄男はさんざん集団ストーカー行為を受けてPTSDに苦しんだ。ぬいぐるみが動き出し、内臓が落ちる妄想も発現した。そして超能力を手に入れた鉄男は暴走族だろうが軍隊だろうが容赦しない鬼になった。暴力は暴力的人類を育てることしかできないと思った。暴力の連鎖を描いた作品は他にもある。アメリカ映画「ジョーカー」(2019年)は真面目に生きていた社会的弱者の主人公のアーサー・フレックが社会から理不尽な集団ストーカー行為を受けついに自らも暴力をふるう無慈悲な狂人ジョーカーに変貌する話である。アーサー・フレックも鉄男も暴力を受けなければああいう風にはならなかっただろう。暴力が暴力的人類を育てる。その無限の連鎖が今日まで続いている。暴力の連鎖を止めるためには暴力を減らさないといけない。ところが本作はその逆で究極のチカラを求める軍隊がついに人工的に超能力者を開発するような話である。超能力者には兵士も戦車もかなわない。本作は兵器開発競争の行き着く先を超能力として描いている。鉄男は暴走族の端くれでいわば暴走族もチカラを追及する組織の末端である。暴走族と軍隊の共通点は人間の飽くなきチカラへの渇望であるので暴走族と軍隊を関係づける本作はよくできている。本作の結末の通り圧倒的な暴力のチカラを手に入れれば一時的には何でもできるが結局は後世の暴力的人類を育てているだけである。私は後世の人類がどうなるかは予想できない。戦争に勝ちのこった後世の人類はさらにチカラを求めて永久に戦争を繰り返すのだろうか。鉄男はラストでその体が制御不能になり自滅するが後世の暴力的人類は自滅しないとはいえない。
視聴(今回):液晶テレビ(有料配信NETFLIX) 視聴日(今回):2025年6月20日 初視聴日:何十年も前 視聴回数:今までに3~4回は見た 視聴人員(今回):1(一人で見た)
2025/06/20の昔のレビュー:
鉄男とカオリがかわいそう
火垂るの墓(1988年)によく似た悲しい話であった。おそらく第三次世界大戦の孤児である鉄男とカオリは大戦後の生存競争の厳しい腐敗した大都市を生き抜こうとするが鉄男はクスリに溺れ妄想に苦しみカオリも悲惨な運命をたどる。アクションシーンもあるが鉄男とカオリの悲惨な運命が主題と思われる。アメリカで話題になった映画ジョーカー(2019年)のアーサーのように本作の主人公の鉄男は社会から仲間はずれにされていると思い込んでいる人であるが私はなんとかしてハッピーエンドにしてほしかった。視聴日2025年6月20日 視聴回数1回(早送りあり) NETFLIX 評価3.0
2025/08/11 追記1:
この作品の作られた1988年ごろはまだ米ソ冷戦の時代で核戦争の危機が高かった。あれほどテレビで言っていた核戦争の危険は21世紀に入り叫ばれなくなった。おそらく、ソ連が崩壊して湾岸戦争があって2001年同時テロがあってから核戦争の危険はうやむやになったのだと思うが人類は危機が増えすぎて核の脅威を忘れてしまった。本作「AKIRA」(1988年)では核兵器を超える兵器として超能力が登場するが日本のアニメには核兵器を超える架空の兵器がたびたび登場する。テレビアニメ「機動戦士ガンダム」(1979年-1980年)では宇宙空間にうかぶ巨大なスペースコロニー(巨大宇宙都市)を地球に落としたり、巨大なスペースコロニーをまるごと巨大なレーザー兵器にしたりして核兵器を超える兵器が登場する。テレビアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」(1995年-1996年)ではセカンドインパクト、サードインパクト、人類補完計画などの核兵器を超える兵器(人為的に起こせるという意味での兵器)が登場する。これらは日本人がいかに核兵器に敏感でそれを超える兵器を考えていたかの証拠であると思う。1988年ごろの日本では超能力やオカルトが流行していた。これは万能と思われていた科学技術に限界が見えて科学技術に期待しすぎた反動であったのだろうか。1969年アポロ11号が月面に到達し世界は科学技術に期待しすぎてしまった。1980年代に入ると人々は科学技術に失望し超能力やオカルトに注目するようになったのではないだろうか。テレビアニメ「機動戦士ガンダム」(1979年-1980年)でも「ニュータイプ」と呼ばれるオカルト超能力が登場する。科学技術が進めば進むほど絶望的に人類を殺傷できる兵器が増えるだけでいっこうに世界は平和にならない。それで人々は科学技術に失望したのではないだろうか。
追記2:
本作「AKIRA」(1988年)は思春期の少年の繊細な心と暴力の話である。思春期の少年は繊細である。まだまだ未熟な心しかもたないにもかかわらず環境変化、友人関係、進学、就職、恋人、チカラへの憧れ、不条理な社会への適応などやることが多い。なので思春期の少年は繊細で壊れやすい。グレたり、不登校になったりするのは繊細な心を守る自己防衛のためであろうと思う。鉄男は繊細すぎて心が壊れてしまったよくいる悲劇的な少年である。私も思春期の頃から心が繊細で壊れて修復不能である。思春期にはまず環境変化に悩まされた。中学まで徒歩で20分ほどだったのに高校は電車バスを乗り継ぎ2時間かけて通わねばならなかった。勉強内容も格段に難易度が上がりついてゆくのは無理であった。周囲の学友は異性の話題ばかりしだし、もてたいのでファッションに気をつかい、オートバイやアルバイトに手を出し始めた。私は友人関係に悩み集団ストーカーにも悩まされ心は壊され私が鉄男なら鉄男と同じことをしたと思う。鉄男が自身の繊細な心を壊された原因の世界にたいして復讐心が芽生えるのは当然であると思った。映画では鉄男は今の世界をぶっ壊し自分に優しい世界を新しく作り直そうとしたのであった。テレビアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」(1995年-1996年)ではラストで主人公の少年シンジが巨大人造人間ロボットであるエヴァンゲリオン初号機のチカラを借りて今いる世界をぶっ壊して自分に優しい世界を新しく作り直そうとするのだが途中でやめて中途半端に新しい世界となるがこの時のシンジはどんな気分だったのだろうか。思春期の私が「新世紀エヴァンゲリオン」を観ていたら共感できると思った。「AKIRA」で繊細な心を持つ少年の鉄男がかわいそうなのは同じく繊細な心を持つ少年だった私が共感できるからであろう。
追記3:
私は何十年も前、ひとりで夜中コンビニに出かけた時暴走族ぽい原付バイク二人組(茶髪と覆面、どちらも若く十代くらい)にカツアゲされそうになった。彼らは歩道にもかかわらず堂々と原付バイクで走行し私の後ろから追ってきて「ひいちまうぞコラ!」みたいな事を言っていた。私は怖かったが無視しているともう一人が回り込んで来たので勇気を出して「道を尋ねたいなら言ってみたまえ。」みたいな事を空威張りで言ってみた。そうしたら、「~はどういけばいい?」みたいな事を茶髪が言ったので「コンビニで地図を見てやる」と私は言い近くのコンビニに急ぎ早歩きで戻ると彼らは追って来なかったので私は助かったのであった。(当時はスマホなどという便利なものはなかった)私と暴走族との縁はこれっきりである。ところで「AKIRA」に登場する暴走族のリーダーの金田は友人思いの素晴らしいリーダーである。しかし私は上記の暴走族の思い出もあり金田は好きになれない。
暴走族っぽいバイク映画といえばアメリカの実写映画「イージー・ライダー」(1969年)であろう。麻薬の密売で大金を得た無法者のワイアット(ニックネーム:キャプテン・アメリカ)とビリーはバイクに金を隠し、現実逃避のためバイクでアメリカを横断する旅に出る。ワイアットとビリーは「自由」を求めて自由の国アメリカをバイクで疾走するがアメリカの現実はひどいありさまであった。彼らは旅の終点で本当の自由は逃げることでは手に入らないと気が付くのであった。この映画の良いところは素晴らしいBGMと自由を求める主人公たちの悲劇的結末である。自由はどうやったら手に入るのか考えさせられる。この映画を観ると暴走族は見た目は自由な様でも実は全然自由ではないと気が付かされる。
追記4:
本作ではカオリというヒロインが登場するがカオリは鉄男以上に不幸で救いなく描かれている。しかし、アメリカのCGアニメ映画「スパイダーマン:スパイダーバース」(2018年)ではカオリそっくりなスパイダーマンの仲間の一員のペニー・パーカーが登場する。ペニー・パーカーは未来時代からやってきた日系アメリカ人の女子高生で日本の女子高生の制服を着ておりスパイダーマンと同様の力を出せるメカ「スパ//ダー」に乗り込んで敵と戦う強い少女である。幸福で救いのあるカオリが見たいのなら「スパイダーマン:スパイダーバース」(2018年)を観ることをお勧めする。
追記5:
私はこのアニメ映画「AKIRA」(1988年)の人工的な超能力者の子供たちが好きになれない。子供たちはマサル、タカシ、キヨコ、アキラの4人が登場するが、幼稚園児くらいの背格好にもかかわらず、この子供たちは顔だけ老人のように年を取っている。実際に子供が早く老化するような病気があるようだが好奇的関心のためだけに映画でこのような設定をしたのだとしたら気持ちはよくない。映画にはよく障害者が登場する。アメリカ実写映画「チョコレートドーナツ」(2012年)では本物のダウン症の少年が登場しとてもいい演技をする。映画の内容はゲイのカップルが育児放棄されたダウン症の少年の親になろうとする話だ。ルディ(アラン・カミング)とポール(ギャレット・ディラハント)はゲイで愛し合っていた。ある日、育児放棄されたチョコレートドーナツが好物のダウン症の少年マルコ(アイザック・レイヴァ)を保護し二人は親がわりになろうとするが…。この映画は主人公のアラン・カミングが演技をがんばりすぎているのが気になるが良作である。この作品での障害者の描かれ方は良いほうだ。障害者は好奇的関心のためだけに映画に登場することが多いのは気になる事案である。
