劇場公開日 2014年5月10日

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「ガーリーは正義! 60年代のパパ活&クチャラー! 戦争にひた走る時代にこそ必見の映画。」ひなぎく じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0ガーリーは正義! 60年代のパパ活&クチャラー! 戦争にひた走る時代にこそ必見の映画。

2023年10月21日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

イメージフォーラムのレイトショーはなかなかの入り。
若い女の子も多数。大切だよね。
こういう「元祖」みたいな映画が、世代を超えて継承されるのって。

もともと『ひなぎく』といえば、イメージフォーラム。
VHSやDVDがダゲレオ出版から出ていたこともあって、
恵比寿や新宿のTSUTAYAでは、同じ版元のシュヴァンクマイエルやブラザーズ・クエイ、イジー・バルタ、スーザン・ピットあたりと、「カルト」「クィア」みたいなコーナーを形成して、並べて置いてあったのだ。
今回は、『栗の森のものがたり』と『メドゥーサ デラックス』を観に来たついでに、せっかくなので観て帰った次第。

昔、大学時代に観たときは、単にアーパー娘がわきゃわきゃアホやってるだけの前衛映画ってイメージが強かったのだが、こうやって数十年ぶりに改めて観ると、ずいぶんと政治的メッセージ性の強い映画だったんだなあ、と痛感。
シブヤ系アーティストや岡崎京子あたりがやたら絶賛してることから、世の中的にはファッション映画と捉えられる傾向が強いけど、作られた60年代チェコの政治状況からすれば、これはまさしく反骨の映画であり、自由を求めて権力に公然と抵抗するリベリオンの映画である。

まず、出だしのクレジットから、陸軍の十字砲火や爆撃機による地上や空母への爆撃のフッテージ映像と、グルグル回るフライホイールの映像が交互にモンタージュされる。背後では、小太鼓の連打とラッパのプップクプー。
その後、自由を奪われて人形のようにへたりこんだマリエ(偽)姉妹が登場し、ぎりぎりときしんだ関節の音をさせながら、ぎくしゃくと動きだし、左のマリエは鼻をほじり、右のマリエはラッパを吹き鳴らす。
2体の人形はしゃべりだし、次第に生気をその身に宿し、やがてこの穢れた世界に放たれる。腐敗した世界を笑い、放縦と蹂躙の限りを尽くすために。
この流れで吹き鳴らしている以上、ここでのマリエのラッパは「進軍ラッパ」なのだ。
この映画は、少女たちが「ガーリー」を武器に世界と闘う「戦争映画」なのだ。

一方で、このいかにも人形に命が与えられて下界に遣わされる(そして、知恵のリンゴの実をたわわに実らせた木を中心とする、デイジーが咲き乱れるエデンの園に転送される)ように見える冒頭からは、監督のヴェラ・ヒティロヴァーが素養として、チェコ・アニメーションの伝統をも継承しているのではないかと感じざるをえない。少女二人の扱いが「人間の演者に演技させている」というよりは、ストップモーションの監督がすべてを決めてコマ撮りで動かしている感覚にとても近いからだ。
この映画におけるマリエ1とマリエ2は、能天気に好き勝手を繰り広げているかに見えるが、実はヒティロヴァー監督が手足を動かしている「傀儡(くぐつ)」なのであり、彼女たちの自由意志で動いているわけでは必ずしもない。
二人は、すべてをヒティロヴァーが「やらせたい」ように、一挙手一投足に至るまで振りつけられた「人形」なのだ。だからこそ、二人は街で見つけて来た演技経験のない素人でなければなかったし(マリエ1はシネマクラブで見つけた帽子屋の店員、マリエ2は共産党のマスゲームでビラを渡した女子大生だそうな)、監督によって起動させられた人形であるがゆえに、ここまで「無垢」で「無軌道」で「向こう見ず」な存在たりうるのだ。
チェコ・アニメーションとのつながりでいえば、途中で木のくるくる丸まったおがくずを用いたコマ撮りの部分があって、あそこらへんはほぼほぼシュヴァンクマイエルそのまんまである。

なんにせよ、『ひなぎく』が呈示した「無敵の女の子二人組」というキャラクターは、間違いなくその後量産される「二人セットの女子」のアイコン――規範となった。
身長差のある凸凹コンビ。
かたや金髪のボブに、無垢の象徴たるデイジーの冠をかぶり、
かたや黒髪のツインテに、堕落の象徴たるヴェールをまとう。
Aラインのワンピで街を闊歩し、ときには水着、ときには裸で観客を蠱惑する。
つけま。ぶっといアイライン。大口。ケケケ笑い。

『ひなぎく』の二人がいなければ、もしかするとPUFFYも、ゆいかおりも、harmoeも存在しなかったかもしれないし、『少女革命ウテナ』の影絵少女も、『パンティ&ストッキング』も、みんな生まれなかったかもしれない。
少なくとも『ひなぎく』のアイコンは、間違いなくシブヤ系歌姫のヴィジュアルに強い影響を与えたし、ファッション界やCM界にもそのセンスは援用されてきた。昔のレナウン娘だとか、今のルミネあたりで流れているガーリーなコマーシャルなんて、まさに『ひなぎく』チルドレンのようなものだ。

『ひなぎく』の中身自体は、それこそどうでもいいことの詰め合わせだ。
マリエ1とマリエ2は、既存の権力を蹂躙する。
「父親のような齢の紳士」を籠絡し、食事をおごらせ、身体も与えずに電車に乗っけて追い返す。まさに今でいうところの「メスガキパパ活」である。
あるいは、「大人の社交場としてのナイトクラブ」に闖入し、ボックス席で暴れまわったあげく「1920年代スタイルのダンサー二人組」のショーを徹底して妨害する。
あるいは、豪勢なお屋敷の「奢侈なシャンデリア」にぶらさがって、ブランコにして猿のように遊びまわる。
あるいは、デコレーションケーキの置かれたパーティ会場で、ひたすらケーキ投げにいそしむ。
あるいは、共産党の幹部連中のために用意されたと思しき饗宴のテーブルで、くちゃくちゃ汚い音を立てながら、食べて食べて食べ倒す。最後はテーブルにあがって、料理を踏みしだきながらランウェイよろしく闊歩し、転がり回り、「豪華な食卓」それ自体をめちゃくちゃに壊し尽くす。
とにかく、二人の言動は「アナーキー」で「破壊的」。
しかもそれを、「怒り」や「思想」に基づいて行うのではなく、
子供の「笑い」と「遊び」と「いたずら」の延長上で、
あくまで「無垢」に「無邪気」に、やってのけるのだ。
だから、観客も怒らない。みんな半笑いで観ている。
少女であること――可愛いことは、既存の権力に立ち向かうにあたって、圧倒的な「武器」たりうるのだ。

権威と戦うためには、それを破壊するだけの野放図さが必要で、
単に野放図であるだけでは、大衆がそのレジスタンスに共感してくれない。
大衆を味方をつける野放図さ、誰からも許される反権威というのは、
極限までカッコいいか(チェ・ゲバラとか)
極限までバカまるだしか(チャップリンとか)
極限まで可愛いかしかない。
それが、武器としてのガーリーだ。

常に適当であること、真剣でないこと、いつも笑っていること、世間の無用者であること。
それが、彼女たちが世界を破壊するための免罪符だ。
結果的にやらかしていることが、ただのパパ活だったり、パリピ飲みだったり、くだらないパイ投げもどきだったとしても、それが一体どうしたというのか。
ここでバカのかぎりをつくしているアーパー娘×2は、民衆に満ちるエネルギーの象徴だ。
チェコスロヴァキアを支配する共産党とソヴィエトという圧倒的な権力に立ち向かい、それを内側から破壊し尽くそうとする、哄笑するジャンヌ・ダルクであり、イノセントな文化的反骨心そのものの具現化なのだ。

― ― ―

そのほか、観ながら思ったことを箇条書きで。

●この映画を観ていてつとに思うのは、その貪欲なまでの「食」への執着だ。
彼女たちは、パパ活中でも、ナイトクラブでも、共産党幹部の邸宅でも、とにかく食って食って食いまくる。それから飲んで飲んで飲みまくる。
ただ食べるだけでなく、彼女たちはとことん「遊び食べ」「遊び飲み」をする。
長いストローで吸ってみたり、ぶくぶくしてみたり、酒の泡でシャボン玉作ったり。
食事も、こぼすわ、手づかみするわ、踏むわの乱痴気騒ぎ。しかもくちゃくちゃくちゃくちゃ食べ方が汚い(笑)。あと、牛乳風呂に入ってぺろぺろしたり、部屋の中で紙を燃やしてソーセージを炙って、それを手槍みたいなもので刺して食べたり。
ケーキを前にすればさっそく投げ合い。マリエ1が足で投げられたケーキを防ぐアクションは、さりげに奇跡のショットだと思っている(笑)。
要するに、コントロールを喪った幼稚園児がやるような食べ方・飲み方なのだ。
あと彼女たちは、なんでも食べる。調理済みの食事だけはなく、生のニンジンも生のトウモロコシもかじるし、あげく料理のプリントされた「紙」まで食べる。
食べることへのあまりのこだわりの強さは、ちょっとマルコ・フェレーリの『最後の晩餐』(73)を思わせる偏執ぶりで、監督の幼いころに何かあったのか不安になるくらいだ(笑)。
一つ言えるのは、彼女にとって「豪勢な食事」というのは権力の象徴・搾取の象徴でもあって、それを踏みにじることもまた戦いなのだということだ。
有名な最後の一節、「サラダを 踏みにじられただけで 気分を害する人々に この映画を捧げる」は、かつて誤訳され、逆の意味で字幕がついていた曰く付きの代物。それは一流の皮肉であると同時に、検閲への反逆でもあり、かつ共産主義に付和雷同する「道徳的な」大衆へのアナーキーな当てつけでもある。

●この映画を観て、何を一番連想するかというと、実はマルクス兄弟の無声映画だったりする。要するに、このアヴァンギャルド・ムーヴィーは、間違いなく「サイレント映画への憧憬と懐古」に満ちた、「悪戯とスラップスティックに満ちあふれた古き良き時代」へのオマージュ的な作品でもある。
すべての所作や演出が、トーキー的というよりはサイレント的だし、ナイトクラブでのダンスシーンなど、66年の映画というよりは、20年代の映画だといったほうがしっくりくるほどに古風。マリエ1&2と舞台上のカップルを対比するシンプルなモンタージュも、古めかしいが効果的だ。
そういえば、チャップリンもマルクス兄弟もキートンも、こうやって周り中に悪戯を仕掛け迷惑をかけ続けることで、既存の世界を破壊し、変革しようとしていたのだった。

●この映画では、音楽も比較的古いダンス・ミュージックや鼓笛隊風の音楽、チェンバロを用いた古楽など、昔志向のもので固めている。饗宴を踏みしだいてのランウェイ・ウォークでは当時のポップスがかかっていたけど。
とくにクラオタとしておっと思ったのが、紙に火をつけて燃やす美しいシーンでかかるブラームスの「ドイツ・レクイエム」と、終盤の戦争と関連付けてナチスを想起させるようにかかるベートーヴェンの「第九」の断片と、ワーグナーの「神々の黄昏」の葬送のライトモチーフあたりか。

●総じて前衛的なカットや色彩設定、コラージュのようなぶっ飛んだ技法が目立つ一方で(概ね監督の夫君でカメラマンのヤロスラフ・クチェラによる貢献が大きい)、部屋の背後に鏡を置くことで空間の奥行きを明示し、死角で起きていることを映し出して見せる演出があちこちで多用され、ヒティロヴァー監督の手堅い技術を見てとることができる。

●「最もつよいのは戦争に対する恐怖です。人間の愚かさ、不寛容さへの恐怖です。私は映画の中でそれと戦いつづけてきました」「私が最もいらだつのは、保守主義です。おしつけがましい態度、愚かさ、怠けもの根性です。この三つは男たちがつくりあげたもののうちで、つくづく私が考えさせられるものです。そのどうしようもない不寛容さ、無邪気さ加減、あどけなさぶりは、私が男社会をつよく批判する要素です」
と主張していたヴェラ・ヒティロヴァー監督(1981年11月)。
彼女がもしまだ生きていて、ウクライナやアルバニアやガザでまさに大規模な戦闘と殺戮が発生し、今にも第三次世界大戦がはじまろうとしている現在の世界情勢を見たとしたら、いったい何を語ったのだろうか。
左翼諸氏が言っていたのとはまったく別の方角からマジで「軍靴の音が近づいてきている」。戦争を知らない我々世代として、どうやったらそれに対処できるのか。あるいは無力なまま途方に暮れて見守るしかないのか。
「ひなぎく」の再上映には、おそらくなら、そんな意味合いも込められていると思う。

じゃい