サイボーグでも大丈夫 : 映画評論・批評
2007年9月11日更新
2007年9月15日より新宿武蔵野館にてロードショー
憎悪よりも愛へと比重を移したパク・チャヌクの新世界
おそらくパク・チャヌクを支持してきた観客の多くは、この新境地を否定するのだろう。「復讐」という大義の下に暴力を激しくスタイリッシュに描き続けてきた彼が、一見優しげなファンタジーへと移行したかのように見える。タランティーノ的な直情タッチからジャン・ピエール・ジュネ風のシュールで切ない世界へ。本当に彼は変わったのか?
舞台は新世界精神クリニック。そこは独自の世界観を抱く人々が思い思いに過ごす秩序なき空間。自分をサイボーグだと信じる少女は感情を押し殺し、機械の身体が壊れないようにと絶食してエネルギー源の乾電池だけを舐めている。どうやら彼女には、心に大きな傷を負った口に出せない過去があるようだ。
少女の魂を救おうと手を差し伸べるのは、自分が消滅することを怖れる青年。頑なに殻に閉じこもっていた彼女に変化が訪れるのは、青年が自分をサイボーグとして扱ってくれたとき。傷つき排除された者同士は、異なる価値観を認め合うことで心と心を通わせる。たった一人の理解者を得られれば、ネガティブな感情はたちまち弱まっていく。憎悪よりも愛へと比重を移したチャヌクの新世界。確かにバイオレンスの度合いは薄まったが、これまでの復讐劇のような頑強な肉体と強靱な精神を、少女と青年が持ち合わせていないだけではないのか。そう、これは繊細な魂の持ち主たちが、トラウマを克服しようとしてもがく内的な復讐劇に違いない。
(清水節)