「女王は、公の存在か、一人の女であるべきか?それは問題だ」クィーン Ryuu topiann(リュウとぴあん)さんの映画レビュー(感想・評価)
女王は、公の存在か、一人の女であるべきか?それは問題だ
この映画が公開された2007年当時は、この作品に強い関心を持っていたが、映画館へ足を運ぶ気にならず、見逃していた。と言うのも個人的な話だが、この作品のキャッチコピーは、「全世界が涙したその日、ただ一人、涙を見せなかった人がいた」と言うもので、私も、涙を流した中の一人として記憶に鮮明に今も残る出来事だからだ。ダイアナ妃が突然の交通事故に巻き込まれて亡くなった時の英国王室の様子を、エリザベス女王の立場から描くと言う作品は、1997年当時のニュースを知る者には、どんな作品か深い興味と当時に、あの悲しみを蘇えさせる、2つの気持ちが揺れ動く。
冷静に映画そのものを楽しめない事もあり、今日まで映画を見逃して来た。
私と同じような気持ちでこの映画を見ていないファンの方も多分多くいらっしゃると思う。偉人伝は、ドキュメンタリー映画の事もあれば、役者の演じるドラマとしてフィクションの場合もあるが、ドキュメントで事実の羅列以外は総て、ドキュメンタリー映画と呼ぶが、それでも真実からは程遠いのだ。作者の意図を反映し、その描かれる人物その者を理解出来る作品では決して無いのだ。
この作品を見ていると、人は個人で存在するプライベイトの顔と、公に存在する顔の二面性を持って生活しなくてはならない、現代社会の人間の複雑な社会性が良く覗われる。
一般人の私達は、あまり公の立場の顔とプライベイトと言う違いは無いが、それでも仕事の顔と、家庭の顔の2種類の顔を使い分け、不本意ながら、2つの世界で生きる事の矛盾を突いてくる。そして本心とは違う自分の公の顔を演じると言う意味では、王室ともなれば、全くのプライバシーも無く、権力の総て、望むものこの世の総てを手中に出来そうに思うが、逆に全く総てを持ちながら、その総てを自由に出来ない、一人の人間としての苦悩が、胸に深い迫り来る作品だった。エリザベス女王が、「選挙権」を持って見たいと呟くシーンが総てを明らかにしてくれている気がした。
そして、エリザベス女王自身も自分の創り上げた王室のイメージと創り上げられた庶民の王室に対するイメージの狭間で出口を模索すると言うこの作品も、一人の人間か、その人間が作り出した虚像を生きるのが先か、と言う人生の選択の連続で悩む一人の女性の姿が愛おしく想える。
女性なら誰でも憧れる、白馬に乗った王子様が、迎えに来て結婚する事こそが、女性の幸せと夢見る人もまだまだ多いが、実際に、そのシンデレラ物語を生きたダイアナは良いにつけ、悪いにつけ常にマスコミの餌食となり、結婚に破れて離婚をするという天国と地獄に生きた女性であり、別の視点では、権威と伝統と言う保守の世界で生きるエリザベス女王と、民間からロイヤルファミリーへと仲間入りをし、新しい時代に生きようと試みた一人の女性との生き方の相違、或いは身近に考えれば、嫁姑と言うジェネレーションギャップ+家族ならではの愛憎問題と言う側面を映し出す作品としても必見の価値がある。
一つ物事に対しても、10人十色の生き方と、考えがある。その人間の多様性と自由と言う点について、考えて見るのもとても面白い。
補足だが、ダイアナ妃の死後1週間後、ダイアナの生き方に最も多大な影響を与えたエリザベス女王以外のもう一人の女性として有名な・マザーテレサその人が亡くなった。
世界で有名な、世界中から愛されている2人の女性が1週間で2人も亡くなると言う不思議な運命の1週間であった。