「配達されなかった“手紙”によってとりもどす兵士たちの日常」硫黄島からの手紙 瑠璃子さんの映画レビュー(感想・評価)
配達されなかった“手紙”によってとりもどす兵士たちの日常
「父親たちの星条旗」に続く「硫黄島からの手紙」は、“悪役でも中国人俳優でも合作でも流用でもない”市井の日本人が戦場へと駆り出されていった姿をアメリカ人映画監督が初めて描く画期的な作品である。『日本にあるのは「反戦」映画ではなく「反軍」映画である』とは映画評論家双葉十三郎氏の名言だが、私はこの作品で初めて日本はその「呪縛」から逃れることができるのではないかと期待していた。その期待にそぐうように話自体はよくできている。だがどんなによくできた話でもやっぱり俳優の演技力が物語を左右してしまうんだな。まあなにがいいたいのかというと二宮の演技が本当にダメダメだということです。
言葉遣い自体はだいたい東京の下町なんてあんな言い方だったりしたわけで、そこに対する違和感は正直あまりないのだが、彼の場合、発声そのものがダメなので、演技以前の問題というかなんていうか、なにか喋るたびに“パン屋の無教養だが実直な主人”というよりもチンピラDQN風になってしまう。演劇的発声法(ex.ケンワタナ~ビ)がきっちりしている俳優と競演するとテレビドラマ的演技はまったく通用しないことがよく分かる。リアリティがでるというのは言い換えれば地のままというわけで、ああいう映画のようなある種演劇的空間に放り込まれるとよほどのキャラクターがない限り(ベルモントとか)単なるおバカちんな、どうにもならないDQNにしか見えなくなってしまう。あんまりすごいのでしばらくは彼の真似を持ちネタにしてしのげるなと思ったぐらい。「な~にいってんだよぉ」なんてウンコ座りされていわれたらそれなんて木更津キャッツアイ?てなもんです。彼である必然性がまったく感じられない(ていうかいくらなんでも若手俳優でもっとうまいやついるだろう)のでそのあたりはこうジャニーさんの「YOU、イーストウッドの映画にでちゃいなYO!」っていうなんですが裏のケツ指令っつーんですか?ああいうなにかを感じますな。そんな与太はどうでもいいんですがとにかくケンワタナ~ビにおかれましては演技上はともかく、演技指導ぐらいは栗林中将のような騎士道紳士精神を発揮せずに、ここは悪役鬼軍曹でいくべきだったんでは、と思ってしまいました。他の役者はみないいのになあ。特に獅童。ヤツの役はそのキャラの行方自体がかなりオイシイ上にそれを徹底的に生真面目に演じているからかえっておかしみをかもし出すことに成功している。あれを戯画的に演じたらいやらしいだけだ。そうはいっても獅童なので、計算してやっているのではなく天然なんだろうなあ。だがさすが歌舞伎出身だけあって、演技の基礎力ができているから二宮のような悲惨なことにはなってない。バロン西役の伊原剛志、栗林中将役の渡辺謙も安定感があってよい。ただちょっと渡辺謙は巧すぎて鼻につくきらいがなきにしもあらずだが、それも二宮の演技が下手すぎるが故かもしれない。おそるべし二宮。
このような(本質的かつ根源的な)瑕疵がありながらも、全体を見れば映画としては優れていると思う。(正直アカデミー作品賞は微妙だなと思うが。あわせ技一本なら可能だろう)手紙が全編にわたるテーマとなっており、内的な真実を手紙によって発露させるという方法がとられている。部下を鼓舞し叱咤激励しながら栗林の内面は家族と共にあり、パン屋の主人(に見えない)である一兵卒は妻とまだ見ぬ子供へ「生きて帰りたい」と真情を吐露し、捕らえた敵兵のもっていた母からの手紙を読み、敵味方を超えた普遍的な情緒に思いを馳せたりする。戦場において唯一「日常」との接点であった「手紙」に着目することにより、戦争映画における反戦の描き方に工夫をもたらすことに成功しているのではないか。私はスピルバーグの「プライベードライアン」に対してまったく何の価値も見出せなかった人間なので、逆にこのような大上段に構えない反戦意識ってわからないやつにはわからないだろうなと若干危惧した。バロン西の最期やら集団自決やら栗林の特攻なんぞだけを抽出し、この映画に対して戦意高揚映画なんていうヤツがいたら本当に馬鹿だと思う。
イーストウッドがこの二作を通じて訴えたかったのはおそらく「戦場において“日常”を維持することの難しさとそれを行わずにはいられない個人の弱さ、そして兵士は退役後もそれを続けなければならない、戦場は死ぬまで続くのだ」という冷酷な『事実』だろう。(戦争の「痛み」を観客一人一人に還元・実感させるために、「父親たちの星条旗」では退役後の兵士を「硫黄島からの手紙」では戦場における兵士の“日常”を描きだしている)当たり前のことが当たり前に過ぎていく“日常”を容赦なく断ち切る戦争、その“日常”を維持する唯一の手段であった「手紙」が届けられずに埋められる悲しさ。だが手紙はラストシーンで発掘され“救出”される。掘り起こそうという意思は、前作「父親たちの星条旗」で語られた「ありのままの戦争を見つめよう」というメッセージと呼応する。だからこそこの二つの作品を持って語らねばならなかったイーストウッドの構成力の確かさと「戦争の意味」をもう一度捉えなおそうという意思に感銘を受ける。埋もれていった兵士たちの思いを発掘し、ありのままに見つめる作業こそが、あの60年以上前に起きた出来事を風化させずに「いまここ」に現出させる行為にほかならないのではないだろうか。
ミリオタ(軍オタ)にいわせると一式貨物輸送機さえみられれば随喜の汁ダダモレらしいんだが、そんなこといわれてもなあ。そんな軍オタじゃなくてもこの映画、見て損はない。二宮の演技は華麗にスルーし、映画からのメッセージを受けとり、「あの戦争」をもう一度見つめなおす。その作業を行わずして一方通行な“もうあのせんそうをおこしてはなりません”式の思考停止状態から逃れることはできない。「あの戦争」の意味を私たちの手に取り戻そう。それが「あの戦争」で犠牲になった全ての人達に対しての、我々が行える唯一の鎮魂なのだから。