わが青春に悔なしのレビュー・感想・評価
全13件を表示
もし、次の戦争があるなら、それから…
タイトルからして、黒澤明監督には珍しい「ラブロマンス」な内容かと
思いきや、やっぱりテッパンの「ヒューマンドラマ」。
日本の過去の大きな戦争は、最初はまだ「反戦・平和主義」を
訴える事が許されたが、戦いが泥沼化してゆくにつれ
「欲しがりません、勝つまでは」「一億総玉砕」と一本化され、
「反戦・平和主義」の者は「非国民」とされる。
映画の冒頭の前書きにあった通り、この作品が何処まで本当にあった
話かは不明だか、終戦後は「やはり反戦・平和主義は正しかった」と
して終わる…
戦後に全て「反戦・平和主義」となり「非暴力」「無抵抗」「話合いで解決」
という時代になった。
だが、戦後50年と経ってから、この「戦後民主主義」は間違っていた
というムーブメントが広がり、戦前・戦時中の日本の考えは全て間違って
いたと言うのは誤りだ、と主張する者が出始めた。
つまり「戦争は、やむおえない選択肢として有りうる」「暴力を持って
物事を解決しても良い」という見解が広まった…
私は、その議論に参加する気は無い。
このレビューを書いているのが2023年5月時点で、もしそれから
日本が再び戦争を行うのなら、その戦争が終わってから、また
50年経った後、この映画を見直して、考えて下さい…
私からは、そういう言葉しか見つからない………
原節子が素晴らしい
GHQ検閲下で作られた作品。ゾルゲ事件を基に作られているが、当のアメリカではこの映画の公開のすぐ後に「赤狩り」が始まる…プロパガンダなんてろくでもないね。
しかしやはり黒澤映画。
ダイナミックな演出。ストレートな表現。ポイントはちゃんとおさえていて映画として申し分ない面白さ。
そして原節子。黒澤映画に出演したときの彼女にはいつも驚かされる。前半の良い家柄のご令嬢から後半の百姓まで、同一人物とは思えない役の入り込み。
自我に目覚め、生きることを噛み締める女性像を好演。
何回観ただろうか
原節子さんといえば小津作品のイメージが強く、黒澤作品でも「白痴」のゴージャスな装いが頭にあるのだが、あくまで私個人的には、この映画の中で夕べの田んぼに立つ野良姿が一番美しいと思うのである。
映画ハワイ・マレー沖海戦の裏返し、鏡像だ
主演の原節子
彼女は1942年に戦争プロガパンダ映画のハワイ・マレー沖海戦でも主演をしている
その4年後が本作だ
まるで鏡に写したかのように左右が逆になっている
しかし内容は同じだ
つまりプロガパンダ映画だ
前者は海軍が、本作はGHQが、その違いだけだ
自分には戦争を賛美する前者の映画よりも、本作の方が背筋が凍るほど怖かった
黒澤明の仕事は本作でもプロフェッショナルだ
素晴らしい非凡な才能を示している
それだけに一層怖かった
このように私達は左右どちらにも、簡単に洗脳されてしまうのだ
映画が持つこの力を改めて恐れる
この映像の威力の前に、精神の自由を如何に確立できるのか私達は試されているのだ
・年月の経過を原節子の容貌の変化で知ることができた ・両親の態度が...
・年月の経過を原節子の容貌の変化で知ることができた
・両親の態度が一貫してるのは娘にとってありがたい
・敗戦でこれまでの悪が善に変わる状況を受け入れて態度変える人いっぱいいたんだろうな
純粋な女性の強さ
太平洋戦争終結の翌年に放映されている。昭和21年。反戦活動のため獄死した男に憧れて妻になった女性を原節子が演じている。もともとお転婆で明るい芯の強い性格が、決して安心できない反戦活動で獄に入ったことのある、当時の世間でよく思われないだろう結婚を、女性のほうからアプローチしてしたような、気持ちに忠実な女性であった。また逮捕されて獄死したのを知った後で、その女性は亡き夫の実家の極貧の両親のもとを訪ねて、村の人たちにもスパイの家だと嫌がらせを受けていた。女性は裕福な家の出身であり、夫の母親は身分も違うし、やめなさいと言っても女性は聞かずに、妻なのだから、一緒に暮らしをさせてくれと土下座をして頼む。きっとこのシーンは現代人というか、現在の人にとっては理解しがたいだろうと思う。どうして夫が亡くなったのに、その両親の家に行くのかと。配偶者が亡くなったら離婚する人たちがいるのが現在なのだが、原節子演ずるその女性は、都会風の服を着ていたのに、野良着の母親と一緒に鍬を振るい、農作業を始めるのである。若い人生を無駄にしているのではないのか。どうして亡き夫から離れて再婚でもしないのかと今の人はそうとしか思えないだろう。だが、その女性は、私は妻なのだと語り、悔いることなく、毎日鍬を振るうのである。監督の黒沢明は、同じ格好で鍬を振るうシーンをつなぎ合わせて、女性の着ているものや雰囲気だけが変わっていき、そして鍬を振るう格好が上手になっている。近所の5歳前後の子供たちが、スパイスパイと女性に声をかけている。これは子供という純粋性の裏返しの恐怖を映していたのか。周囲の農民たちも怪訝な顔をして戸を閉めたり、噂をしている中を、女性は強い目をして、農作業をする。重い篭を背負って、周囲の嫌らしい目の中を、ひたむきに農作物の運搬を続ける。ここら辺のシーンは周囲の農村の人々をかなり醜く描き、女性の辛さを引き立てているが、亡き夫の母親が泣きながら篭を背負ってやる。そして、日々、嫁と姑は並んで鍬を振るう。70年前のこうした精神性があったのを、現在の人たちはわからなくなっているだろう。そこに映画という記録がある。他の映画の雰囲気では、原節子はお高い感じがする外見で重い感じがしていたが、この汗をかきながら農作業を続けている表情はかなりの美しさであった。機械化されていない時代の代掻きや田植えのシーンの頃、女性の疲労は蓄積され、ひどく咳き込むが、熱を出しながら農作業をしていたのだ。そして姑の優しさが感じられる。杉村春子が演じているが、他の映画では癖のある役が多いイメージだが、この作品では、純粋に良い人を味わい深く演じ、反対に善人のイメージの志村喬が特高の悪役である。若い女性は疲労の極致だが、姑があんたとこんなに田植えしたぞと高笑いをする。強い母親だ。強い日本の女性だ。かなり反時代的だと思われるかも知れないが、本当は、こうした昔の映画を観ることで、現在に漂っている雰囲気と違う思考が出現するのではないだろうか。終戦直後の農村の疲弊は想像できないほどだったらしい。そしてスパイの家だという周囲のいじめがひどすぎる。それに怒る原節子の表情がすごい。せっかく植えた苗の田んぼを滅茶苦茶に荒らして、スパイ出ていけというような立札が立ててあったのだ。女性たちに比べて老いた父親はしょげていたが、怒って振るえる手で、苗を植えなおす。そして嫁と姑で力強くその父親を見渡すのだ。戦争未亡人になって再婚をせず、死んだ夫の両親などの家族と生涯を過ごしたという事例は実際に多くあったらしいが、この精神が、現在の人には無い。私がそうした立場だったら真似できなかっただろう。そして三角関係に破れたかなり検事として出世した男も挿話として出てくる。憧れていた女性が農婦になっている。女性は亡き夫への墓参りをしないでくれと検事に言い、検事は肩を落として帰る。こんな昔が実際にあり、そうした人たちが実際にいたのに、それから70年の間に、極貧の農業は機械化され、家族で高度成長期を乗り切ってきたが、またその立場が下落していき、集約化されてきている。私自身、この社会の変遷をどうすることもできず、こうして書きたいこともうまく書けないながら、なんとなく記すことしか出来ない。1週間前に偶然観たのが、2007年の『恋空』で、この映画も愛する異性が死んでしまうのだが、似ているようで似ていないようで、『わが青春に悔なし』の精神性と比較すると『恋空』は自由奔放な時代性ゆえか霞んでしまうくらいなのだが、愛する異性を亡くす話はそれでも繰り返されている。ただ、愛する人が生きていた時に一緒に過ごした事が、心の支えであり、その後の事の楽をしたい人生よりも捨てられずにある。そしていつの間にか女性には農村の仲間ができていて、リーダーシップを発揮するまでになり、仲間とトラックに乗ってまだ舗装されてもいない農道を煙を立てながら微笑むながら進んで終える。ハリウッド映画や今の映画のような激しいベッドシーンなどない。お姫様だっこだけである。黒沢明という映画監督が誇りとして残るのもこうしたところなのかも知れない。自由と豊かすぎる事は、映像作品を限定させてしまった面もあるというのを感じさせる映画だと思う。今が豊かゆえの貧困というなら、ひねくれているだろうか。今を有難く思うしかない。なんだか自分が情けないのではあるが。
野毛は何をしたのか 裏切り者は偉い?
総合30点 ( ストーリー:10点|キャスト:65点|演出:55点|ビジュアル:55点|音楽:65点 )
昔から有名な題だけは知っていたので一体どんな作品なんだろうかと興味を持って観てみた。しかし想像とは全く違う内容で、さっぱり青春してなかった。
冒頭、野毛と幸枝の理想論に学生運動にと随分と青臭い。それがいったい何に対して憤慨し何を主張し何をしているのかをしっかりと描かないので、野毛がどんな人物なのかが全く伝わってこない。これでは野毛が自由を求め正義に燃える志士なのか、ただの反政府主義者なのかすらわからない。
治安維持法と政府の弾圧のことを描きたいのだろうが、まず政府悪しという結論を最初に持ってきているのが駄目。原案はゾルゲ事件のことも参考にしたとのことだが、もしゾルゲ事件と同じならば結果的に大量の日本国民を殺すことになった大変な裏切り者であり大悪党である。野毛に全く共感できないし、それどころかこんなやつは赦し難い。劇中でこれが正義だとか10年後に真実がわかるといっているが、70年たった今ではゾルゲが日本にどれだけの大損害を与えたかがよくわかっている。もう前提が駄目で、こんな物語を作るなんて頭がおかしいのではないかと言える水準である。映画製作に関してソ連の関与か援助でもあったのかと思える。
作品としては原節子の後半の頑張りに点をつけるくらいで、物語と思想は嫌いである。原節子は戦中はあれだけ酷い目に会っておきながら、戦後は楽しそうにその場所に帰っていくのもわけがわからない。いったいどうやってその場所は急に快適で楽しい場所に変わったのだろうか。
この時代は戦前の国家主義が敗戦後に急に否定された時代だったので、何でもかんでも元政府が悪いということで正確な分析無しで最初から反動的に結論づけられているのではないだろうか。そして学生運動・反政府運動をする若者はそれだけで可哀想な犠牲者扱いですか。政府が悪いという主張はまだわかるが、それだからといって野毛が大悪党ではないという結論には繋がらない。彼がゾルゲを元にした人物像ならばとんでもない裏切り者の大悪党である。今まで観た黒澤映画で断トツの最下位作品。
白黒に加えて画像はちらついてかなり悪い。音声はさらにひどくて日本語が聞き取りづらいのは閉口する。
●原節子にハラハラさせられる。
世間知らずの典型的なお嬢様。猪突猛進。まっすぐすぎて、ちょっとツライ。
だが、戦後間もなくの作品であるという視点に立つと、景色が変わる。
信念を貫く学生運動の熱。
本作は、言論弾圧の滝川事件と、ゾルゲ・スパイ事件がモチーフになっているという。
正義は最後に必ず勝つ。10年後に真相がわかる。
感謝される仕事。顧みて悔いのない生活。
戦後復興のもと、まっすぐ生きようとした日本人の姿がそこにある。
『生きる』の前身
「後悔の無いように生きることこそ生きるということである」というテーマは完全に後の傑作『生きる』に繋がっていくものだと思います。この作品をブラッシュアップしたものが『生きる』であると言っても良いでしょう。
今ヒットしている映画『マレフィセント』の評で「アンジェリーナ・ジョリーは表情だけで2時間見られる」というのを聞いたことが有りますが、日本にもいたんじゃないかそういう人が。とにかく主演の原節子の表情がすごい。喜怒哀楽の演じ分けに鬼気迫るものがあります。眼力がものすごい。強くて美しい女性を体現している。その様は見ていて気持ちが良い。
僕の『續姿三四郎』のレビューで「これからも君を見守り続けていくよ」という監督の声が聞こえたという例えをしましたが、今回の向こうに走って行くトラックの後ろ姿には「もう君は一人でも大丈夫だね」とでもいうようなメッセージを感じました。
全13件を表示