「殆ど仏教的死生観に達しているランカスターに敬意を払うものである」ワイルド・アパッチ やまひでさんの映画レビュー(感想・評価)
殆ど仏教的死生観に達しているランカスターに敬意を払うものである
戦争もののよくあるプロットの一つの筋は、士官学校ポット出の若い将校が実戦経験を積んで成長してベテランになっていくという、いわば、教養小説(ドイツ語でいうビルドゥングスロマーン)的展開である。本作も、その西部劇版と言え、その当該人物をデ・ビュイン少尉という。(英語でLieutenantは少尉にも中尉にも使えて、本作についてのWikipediaの解説には中尉と出ているが、本人の言によると、士官学校を出て半年経ったばかりだというので、ここは敢えて「少尉」と訳しておく。なお、本作についてのWikipediaのあらすじの投稿には間違いが散見される。)
デ・ビュイン少尉は、牧師の息子だという。であれば、プロテスタント系であり、フランス語風の名前からして、彼はユグノー系のプロテスタントかもしれない。分厚い聖書を読み、良心的な人物らしい。その彼が「白人」のキリスト教的倫理観を体現する。そして、この倫理観を以って、彼は、「赤銅色人」の「アメリカ原住民」の「残虐さ」に対峙させられる。なお、この若輩将校を演じているのが、本作の2年前に、学生運動・反戦運動映画の『いちご白書』で有名になったBruce Davison である。
一方、経験不足の将校の脇を良き軍曹が固めなければ小隊は上手く機能しない。という訳で、Richard Jaeckel 演ずるところの軍曹がデ・ビュイン少尉を補佐する。もう一人の「お守役」が老練な白人のスカウト、マッキントッシュで、実は、本作の主人公は彼なのである。若いインディアン娘と同棲している彼は、職業柄インディアンの世界に精通している。ある種の達観を匂わせるマッキントッシュは、いわば、白人世界とインディアン世界の間に立つ「通訳」の役を担っている。このような難しい役を当時こなせるアメリカの俳優というとBurton、„Burt“ Lancasterしかいないのではないか。L. ヴィスコンティ作の『山猫』(1963年作)では、自身が所属する貴族階層が市民革命の前に没落していく運命をある種の諦観と矜持を持って受け入れる深みのある役を見事にこなしたランカスターであった。だからこそ、本作のラストシーンもまたそういう次元の重みが出てくるのである。必見である。
さて、「悪役」のアッパチ族のUlzanaは、有名なジェロニモと同時期の実在の人物で、実際に1885年に居留地から逃亡して、いわば、強奪と殺戮の限りを尽くすのであるが、実際にはこの時騎兵隊に追われながらもメキシコへ逃切るのである。しかし、映画では別のストーリー展開となっており、そこに監督のRobert Aldrichと脚本家のAlan Sharpの制作意図も感じられる。Ulzanaの最期に日本人の観衆としてそこに「武士道」を読み込むのは筆者だけではないかもしれない。
アメリカ西部劇史の転換点となるA.ペン監督の『小さな巨人』が出たのが本作の出る2年前の1970年である。本作は、撮影的には残念ながらB級映画のレベルであるが、ストーリー的には『小さな巨人』を接ぐものであり、また、ランカスターの演技を評価して、筆者は、本来三ツ星のところを四つ星を付けるものとしたが、諸君は如何に判定されるか?