「一つの事件を複数の視点から映像化するコロンブスの卵的手法」羅生門 徒然草枕さんの映画レビュー(感想・評価)
一つの事件を複数の視点から映像化するコロンブスの卵的手法
芥川の『藪の中』は、強盗と侍、その女房3者が、強盗・レ〇プ・殺人事件の原因、経緯、結果について、それぞれの見栄から違ったエピソードを語るというもの。
<同一事件に対する3人3様の証言と真実>
①強盗は侍の女房をレイプした後、女を自分のものにしたくなり、自分が侍と正々堂々と戦い、相手を圧倒した挙句、殺害したと見栄を張る。
②侍の女房は、強盗の去ったあと侍を助け出すが、強盗にレイプされた自分を彼が軽蔑の目つきで見下したことから、動揺のあまり彼を殺してしまった。弱い女の心のせいで、その後自分も何度も死のうとしたが死ねなかったと、弱さを装う。
③巫女の口を借りて現れた侍は、女房が強盗に自分を殺すよう依頼したこと、しかしそれに呆れた強盗は2人を置き去りにして立ち去り、女房も去ったことを語った後、侍は絶望のあまり自殺した=殺されたのではなく自ら世を捨てたというプライドを見せる。
事実の受け止め方は観察者によって異なるものだが、人間のエゴは平気でウソをつくという真実を浮き彫りにするのがテーマといえる。
映画作品は、それを薪売りの証言で観客にも分かりやすく確認できるようにするとともに、3人3様それぞれの醜悪さ、みっともなさを描くことに力点が置かれている。同時に、証言の舞台を『羅生門』のオドロオドロしいものにした。
黒澤の意図を想像するに、作品の狙いはたった一つ。「一つの事件を複数の視点から映像化する」という、過去になかったコロンブスの卵的映画手法を作り上げることである。そして、以後、『羅生門』的手法の映画が多数つくられたのを見れば、この手法がいかに斬新で衝撃的だったかがわかるだろう。
人間は信じられないなどという話は映画においては付け足しに過ぎない。古来訴訟があるところ、ウソがあるのは常識だからであるw
(補足) 本作のテーマが<世界は真実など存在しない不条理なもの>だという見方について
何を真実とするかは、一つの約束事である。
現実の訴訟では物証、人証等の証拠によって証明されれば真実性を認めるというルールがある。通常の映画では、「映像があるから」とか「証言があるから」という理由から真実性を認めるという約束事に支配されている。
ところが『羅生門』の場合、証言も映像も真実性には繋がらないという前提に立っているため、通常の映画ルールでは真実性を決定できないのである。
この場合、見る側が映画の構造や論理、監督の意図から、真実性のルールを見つけるしかない。
小生は原作小説という手がかりを基に、映画はそれをわかりやすく映像化したものという構造だと理解する。とすると「エゴはウソをつく」が小説のテーマであること、反対に「エゴのない人間の証言はウソがない」という真実性のルールが導かれる。
薪売り=原作では木樵りは、実は原作でもウソをついていることが示唆されている。つまり、彼は死んだ侍の下にあった証拠品は役人が回収したモノだけであると証言しているが、ラストで侍の霊は、意識がもうろうとした頃に何者かが忍び寄って、胸に刺さった小刀を抜き取っていったと証言しているではないか。抜き取ったのは第一発見者の木樵りだろうから、彼も自分に都合の悪いこの部分ではウソをついているらしい。
また、映画でも、ラスト近くで下人から「短刀を盗んだのはお前だ」と見透かされた薪売りの俯くシーンがあり、彼がウソをついていることがわかる。
とはいえ殺人と手籠めのシーンに関しては彼はウソをつく理由がない。だから、彼の証言が真実なのだと小生は理解する。
逆に薪売りの証言も信じられないとすると、本作には何一つ真実がない、ということになる。世界は何が真実かわからない不透明で不安で不条理なものである、と。この場合、作品内の論理として、ラストの薪売りが赤ん坊を養うことでその不条理性が償われるかという疑問の湧くところだ。
また黒澤監督がそんな不条理性を描いた映画を撮るか、という疑問もあり、こうした解釈は採れない。
ところが、「人間のエゴはウソをつくというのが人間の真理だ」というテーマだと理解すると、ラストは「人間はウソをつくが、真実の愛情もある存在だ」との救いになる。このほうが映画がすんなり理解できる。したがって小生は、こちらの解釈を採る。