劇場公開日 1961年4月25日

「懐手にしてあごをさすってみよう」用心棒 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)

5.0懐手にしてあごをさすってみよう

2020年7月11日
PCから投稿

いまは黒澤明をオンデマンド各所で見ることができる。

80代の父が、パラサイトを見た。
感心したと話したが、好きな映画ではなかったようだ。
前後して、黒澤明を見て、昔の映画っていいな、やっぱり三船敏郎はいい役者だな、かっこいいんだよ、と話した。

「昔の映画っていいな」とか「いま、ああいう役者っていないよな」──という感慨は「さいきんの若者ってやつは・・・」みたいな、大人の感傷、老年の偏執だと思う。

ただし、黒澤明や三船敏郎を、今ああいうひと居ない──と懐古する父の感慨には、同意できる。

いつの頃と、特定できないが、いつの頃からか、映画が、倫理を度外視するようになった。懲悪にこだわらず、不合理や破滅でおしまいになることも、普通になった。

それを言うなら、黒澤明にも破滅で終わる映画はあるのだが、いまの映画の自由度、カオスとは異なる、不文律があり、破滅に詰んだとしても、よい品行があった。

だから、旧世代が、または自分が、昔の映画を懐古する気分は、とくにズレているとは思えない。

概して、ひとは年をとると、昔を懐かしむ。そこに、今の時代を残念がる──ことが加わってしまうと、おかしなことになるが、今の時代も鷹揚に受け容れて、昔を懐かしむなら、とくに罪はない。

そんなとき、やはり黒澤明や三船敏郎は亀鑑なのである。
たしかに今、得られないものが、そこにあった。
ただし、相手が黒澤明では、たんに今の映画vs昔の映画という包括した比較論として成立しない。
ティーンが見比べてさえ懐古趣味にならない。

黒澤明を昔の映画と定義してしまうなら、今の映画は、映画の世界チャンピオンと比べる不利をまぬがれない、からだ。

三船敏郎が、袖を通さず、衿から手をだして、あごのあたりをさすっているスチールがある。思案げに目を遣っている。椿三十郎でも用心棒でも素浪人のかれはめったに袖から手を出さず、無精と身持ちの悪さをあらわすように、だいたい懐手にしていた。およそ誰もが見たことがある、有名な用心棒のひとコマである。画を引くと隣に同心の半助がいる。お太鼓持ちで、清兵衛につくか、丑寅につくか、口利きすると売り込んでいる。もし見ていなければ、見たくなる絵である。見ていたなら、がちゃがちゃするお囃子とその場面を想像させる、心躍る絵である。

わたしは椿三十郎やこの用心棒で「理屈抜きに面白い」という日本語の意味を心から理解したと思っている。

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津次郎