皆殺しの天使のレビュー・感想・評価
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ブルジョアのごっこ遊び
とにかく邦題がカッコいいルイス・ブニュエルの代表作。とはいえやっていることはいつものブニュエル。不条理な物語とブルジョワへの手厳しい風刺は『黄金時代』『ブルジョワジーの密かな愉しみ』といったその他の代表作にも通底する彼の十八番だ。
本作はとある洋館のパーティーに訪れた20人のブルジョア男女が洋館から出られなくなる…という舞台設定から始まる。どこぞの密室モノかシチュエーションスリラーのようだが、ブニュエルなのでそんなありきたりな方向には転がらない。
まずもって「出られなくなる」という状況からして異常だ。ブルジョアたちは部屋から出られないことを嘆くものの、彼らがそこから出られない物理的理由は一切存在しない。誰も鍵をかけていないし、どこも壊れていない。出ようと思えばいつでも出られるはずなのになぜか出られない。
『皆殺しの天使』というタイトルから各ドアに描き込まれた天使の絵画が何か超自然的な作用をもたらしているのか…と邪推もしかけたが、そもそも不条理劇とはそういう合理的解釈を一切合切はね退けているからこそ不条理劇なのである。
扉は開け放たれているにもかかわらず、ブルジョアたちはそこで無意味なサバイバルを試みる。水道管を破壊して水を得たり、なだれ込んできたヤギを焼いて食料にしたり。しかしそこにサバイバル映画の緊張はない。なぜなら彼らはいつでも逃げられるのだから。ここではあくまで彼らの普段の飽食ぶりが極限状態においても全く同じ様相で繰り返されているばかり。要するに「閉じ込められごっこ」だ。
最終的に彼らは自分たちの初日の言動を再演することで自分たちが「家に帰りたい」のだということに気がつき、ようやく洋館からの脱出を果たす。
しかしその後の聖堂での葬式のくだりでは、彼らが聖堂内に閉じ込められるところで映画が終幕する。ここにおいて明らかになるのは、彼らがある空間に閉じ込められるのは、退屈な日常に非日常を招き入れたいという彼らの至極ブルジョア的な欲望の表れに過ぎないということだ。
一生そういうくだらない遊びに現を抜かしておればよい、とブニュエル御大は笑いながら映画の幕を下ろす。ブニュエルのフィルモグラフィーを貫く一つの単語があるとすればそれは「挑発」に他ならないが、本作はブルジョアに対する挑発としては出色の出来だといえる。
「部屋から出たいのに出られない」――「停滞」に慣れてしまった僕たちへの警告の物語。
ルイス・ブニュエル作品のなかでも、とりわけ彼の個性がはっきり出ていて、かつ、きわめて「端的」な形で撮られている映画、それが『皆殺しの天使』だ。
ある意味、夾雑物のない、やりたいことだけをやっている映画なので、逆にブニュエルを理解するうえでは、「最もとっつきやすい」作品ではないか、と思ったりもする。
せっかくの機会なので、未見の方は映画館に足を運んでブニュエルの人を喰った魅力をぜひ体感してほしい。
ブニュエルといえば「難解」というイメージもあるかもしれないが、本作に関しては、実際のところあまり構える必要もなければ、恐れる必要もない。
むしろ本質的には、完成度の高いブラック・コメディであり、今どきの若者にも十分受け入れられる余地のある、普遍性の高い娯楽映画だと僕は思う。
『皆殺しの天使』には、わかりやすいキャッチーな要素がいくつかある。
まずはブニュエルらしい十八番のプロット。
誰が呼んだか、「●●したいのに●●できない」シリーズ(笑)。
おんぼろバスで峠を越したいのに、なんだかんだ事件が起きてなかなか越せない『昇天峠』。殺人狂が自分の手で女を殺したいのに、勝手に相手が死んでしまってなかなか殺せない『アルチバルド・デラクルスの犯罪的人生』。本作同様晩餐会に集まったブルジョアが、食事にありつきたいのにありつけない『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』。誘惑してくる小悪魔女子とことを成したいのにどうしてもやらせてもらえない『欲望のあいまいな対象』。その男女逆転版ともいえる「夫に抱いてもらえない」人妻が主役の『昼顔』。
ブニュエル映画には、やりたくてやりたくて仕方ないのに(そして傍から見る分にはそう難しそうなミッションとも思えないのに)、なぜかどうしてもそれを実行することができないという理不尽なシチュエイションが頻出する。
今回のお題は、「晩餐会の後、帰りたくても帰れない」
「部屋を出たくても、どうしても出られない」。
このひとネタで、90分を引っ張る荒業が炸裂する。
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今回『皆殺しの天使』を数十年ぶりに観返してみて、現代に鑑賞してもちっとも古びていないことにいたく感心した。
だって、これっていわゆる「シチュエイション・スリラー」じゃないですか、まさに(笑)。
言いようによっては、いま一番流行ってるジャンルだよね。
閉鎖空間内で、とあるワンアイディアの危機的状況が発生して、その解決法がどうしても見いだせない。刻々とタイムリミットと生命の限界が近づくなかで、彼らは状況を打破する方法を模索する。ここまではどちらも方向性は変わらない。
現代のシチュエイション・スリラーと本作が異なるのは、そのシチュエイションについて、作り手からなんらの説明も成されないところだ。
今どきの映画だと、「なぜそうなったか」「どうやって解決するか」の「謎解き」「伏線」「どんでん返し」のキレが生命線になってくるし、そこでどれだけギャフンといわされたかで作品の評価が決まる場合が多い。
しかし、『皆殺しの天使』の場合、「なぜ彼らがカギすらかかっていない部屋から出られないか」については最後までまったくわからないし、何の説明も試みられない。
ここでは、部屋から出られない事実は「解かれるべき謎」なのではなく、「最初から設定された不条理な前提」に過ぎないのだ。
要するに、カフカの「朝起きたら、虫になっていた」と同様の「物語の前提」というわけだ。
逆にいえば、観客は不可解な状況は不可解な状況としてほっぽいておいて、どうせ答えはでないのだから、あまり深く考えずに「部屋からなぜか出られない不条理ギャグ」をただゆったりと堪能すればよいことになる。その意味では、バイきんぐや東京03のコントを観ているのと、そう変わりない。
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「不条理」。
「シチュエイション・スリラー」につづく、本作第二のキーワードだ。
考えてみると、この夏は上の階のシネマヴェーラで「安倍公房×実相寺昭雄」の特集上映をやっていて、同じユーロスペースでは「安倍公房×石井岳龍」の『箱男』が上映されているわけで、その空気と連動して今回の『皆殺しの天使』は上映されているともいえる(このあいだまで新宿Kシネマではブニュエルの『スサーナ』もやってたし)。
「不条理」というと、どうしても小難しい感じがするかもしれないが、あえて解決のつかない違和を仕込んで観客に「考えさせる」触媒だと考えれば、ある程度、呑み込みやすくなるのではないか。要するに、カフカやサルトルや安倍公房の不条理だって不条理だが、筒井康隆や伊藤潤二の不条理だって不条理なのだ。
実際、『皆殺しの天使』のやってることって、じつに筒井康隆っぽいよね(笑)。
晩餐会に集まった20人のブルジョアが、とにかく部屋から出られない。
というか、なにか曰く言い難い抑制がかかって、「部屋の敷居がまたげない」。
みんな帰りたいのに帰れない。なぜか気づくと雑魚寝をしてしまう。
本当は、ただ扉から出て帰ればいいだけなのに、身動きがとれない。
このシチュエイションで、ひたすら「勝手に閉じ込められた」20人を追い詰めてゆくのが本作の大筋である。どれくらい追い詰められるかというと、人が死ぬくらいまで追い詰められるので(笑)、かなりの緊迫感である。本作は、シチュエイション・スリラーであると同時に、密室サバイバル・パニックホラーでもあるわけだ。
固く閉ざされた鉄の門扉が開いて、使用人の一人が街へと逃げ出していく冒頭から、「屋敷から出る」というイベントに、この話の焦点が当てられているのは伝わって来る。
晩餐会の準備を進めるコックや使用人たちも、気もそぞろな様子で帰りたがっている。なんなら主人の制止を振り切ってまで、彼等は一目散に家路についてしまう。
船から逃げるネズミ。
労働者階級である彼等は、いち早く「滅び」の気配を察知し、ネズミのごとく、あるいは脱兎のごとく、お屋敷からスタコラ退散してしまう。しかしブルジョワジーはその気配を察知することができず、「出られない部屋」の無限ループに陥ってしまう。
すなわち、ここでの「部屋から出られない」という現象は、現実の事象というよりは、ある種の「寓意」ととるべきものだ。
「身動きがとれない」
「一歩が踏み出せない」
「社会通念から逃れられない」。
こういった、「誰しもが経験したことがある」保守性とルーティーンと停滞と「変わる勇気」にまつわる問題を、現実の事象の形で「象徴化」し「寓話化」したのが、『皆殺しの天使』の「部屋から出られない」シチュなのだ。
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そう考えれば、みなさんも本作のことが、やにわに「身近な」「自分自身の」物語であるように思えてくるのではないか。
ちょうど、『チーズはどこへ消えた?』で迷路から飛び出せない小人のヘムのように、人は日常の繰り返しと成功体験と怠惰な停滞のなかで、つい「変わる勇気」を喪ってしまうことが多いものだ。それは単に「一歩踏み出せない」のではなく、「一歩踏み出すそのやり方まで忘れてしまう」、あるいは「思考の選択肢から無意識のうちに、変化すること、一歩踏み出すことをオミットしてしまう」という形での、根の深い喪失である。
屋敷から出られないブルジョワたちは、「そこから出る」ことではなく「そこで生き延びる」ことでサバイバルしようとする。いまいる環境から出ることではなく、閉塞した環境のなかでなんとか帳尻を合わせようとする。でも、それってまんま、僕たち自身が毎日続けていることではないか?
なんとなく「辞めたら負け」だと思って続けている仕事。
医者から指摘されても、気にしないことにした生活習慣。
惰性で付き合い続けている、あまり気の合わない友人たち。
固定化し、数十年来変わらないし変える気もない支持政党。
あなたのいる「そこ」は、
まさに『皆殺しの天使』の
「出られない部屋」なのだ。
出ようと思えば簡単に出られるのに、出ること「だけ」を忘れて思い出せない。
閉塞感にはすこぶる自覚的なのに、そこにいることを「前提」として捉えてしまって、抜け出さずにその場で解決しないといけないような気分に支配されている。
「思考停止」という意味では、「出られない部屋」は「自分事として捉えられる範囲の狭さ」の比喩であるともいえる。
しょせんは他人事の、アフリカの貧困と飢餓。
しょせんは他人事の、ロシアのウクライナ侵攻。
しょせんは他人事の、イスラエルと中東の問題。
しょせんは他人事の、北朝鮮拉致者と家族の問題。
僕たちは、つねに「出ることを忘れた」部屋のなかの逸楽をむさぼり、「外」の悲惨な状況から目をそむけている。いったん確立した身近な安寧や社会的地位を手放せる人間は少ないし、その枠組みの外の世界に関心が持てる人間も少ない。
『皆殺しの天使』は、そういう閉塞感のなかで動くことを忘れたすべての人に対して機能する、効果てきめんの「口に苦い良薬」である。
たしかにブニュエルが本作を撮ることで正面切っておちょくりたかったのは、腐敗したブルジョワジーであり、腐敗したカトリック勢力であったろう。
しかしこの物語は、より普遍的で身につまされる「観客も我がこととして共感できる」要素に満ちている。われわれだって、彼等の愚かさを嗤えるほどに「自由」ではないのだ。
いろいろな既成概念に束縛され、
いろいろな社会通念に慣らされ、
「本当は疑ってみても良いルール」で、
がんじがらめになっている。
『皆殺しの天使』は、緊迫感のあるスリラーであり、毒と風刺のきいたブラック・コメディであり、同時になれ合った僕たちに鞭を当ててくれる「気づき」の物語でもあるわけだ。
彼等は結局どうやって部屋を出られたのか。
単に「閉塞感」に不平を垂れるだけでなく、
何をすれば、現状を打破できるのか。
最初から罠にはまらなかった使用人と、
閉じ込められたブルジョワジーの違いはなんだったのか。
永遠のループを示唆する皮肉なラストの意味とは?
『皆殺しの天使』の「不条理」には、そんな「今を」生きていくための重大なヒントが満ちあふれている。まさに、ピーキーでありながら保守化した現代に生きるわれわれこそ、ここで展開されている「思考実験」を追体験すべき存在だと言ったら、言い過ぎだろうか?
というわけで、皆さんもぜひ観てみてくださいね!
以下、重要な点を箇条書きで。
●冒頭に映し出されるゴチック教会のファサードと、鳴り響く聖歌。象徴としての「羊の群れ」。ラストの教会におけるミサのシーンを観るまでもなく、本作が「ブルジョワジー」とともに、「カトリック勢力」を揶揄し、おちょくっているのは、火を見るよりも明らかだ。ここで、ブルジョワの怠惰とカトリックの怠惰はひとつのセットであり、「部屋から出ないですべてを停滞させている罪」を等しく背負っている。ラストの鐘楼で鳴りひびく鐘は終末の鐘、『黙示録』の鐘である。
●「シュルレアリスム映画」としての本作で印象的なのが、「反復」の奇妙なモンタージュである。2度繰り返される到着シーンや、2度繰り返される挨拶、何度か繰り返される同じセリフ。これらは、なぜか屋敷内で飼われているヤギとクマ同様、明快に仕組まれたシュルレアリスティックな「デペイズマン」(異化効果――事物のあり得ない取り合わせを用いた虚構性と独自の美学の強調)である。
●同様に、部屋を這いまわる手のシーン(まさにイジー・バルタやヤン・シュヴァンクマイエルのストップ・モーションの世界である)も、現実と幻想のあわいを超えた、シュルレアリスティックな名シーンだ。ブニュエル作品には、『昼顔』などに特に顕著だが、妄想が現実に越境し、夢とリアルの境目が曖昧になっていくシーンが多く、観ていて混乱させられる要因のひとつになっている。
●ブニュエルの「脚フェチ」ぶりを想起させるすね毛処理のシーン、食材をぶちまける現代のコントだと怒られそうな演出、密室監禁ものでスルーされがちなトイレの話に徹底的に拘泥する姿勢など、あちこちに彼らしい好みが噴出していて実に楽しい。
喉に引っかかった小骨
ある場所から出るためには、自ら殻を破るしかない。
外から介入出来ないのは、力ずくで引っ張り出す事は無意味、ってことなのかな。
山羊や熊が自由に動けるのは、人間じゃないから。
そんな考察なんて馬鹿らしい。
映画作品を観て、何をどう感じるか、無限の自由を、宇宙を感じる。
私は諦念と闘争を両輪の様に感じた。
リアリズムでは、表現できないこともあるし、表現がつまらなくなることもあるのです
ブルジョワ階級や、政権が入れ替わったり、教会が大きな力を持っていたり、という日本人にはあまりなじみのない状況について、それを歴史リアリズムとしてでなく、風刺としてあらわすために、不条理という手法を使っている。
なんなんだ、この設定、なんて言ってる場合じゃないんだな。
多分、本当のあれこれを知らないと気付かないあれこれがあるんだろうな、と思うしかない。
が。
知らないなりに、極限状態を自分の知ってる範囲で想像して、どうなるんだろう、と考える楽しみもある。ま、苦痛もある、といったほうがいいかもだけど。
とっても個人的なことなんだけど、高校のころ、サルトルの「出口なし」にもろ影響を受けて、「壁」っていう脚本を書いて、演劇部で上演したことを思い出しました。あのころ観ていれば・・・・と残念。(日本上映はその後でしたが)
同じ場面に戻ってやり直す、なんて、筒井康隆のSFか、と思ってしまった。ww
シュールレアリスムが、好きな私には、いまごろ観ちゃったよ~ という作品でした。
わかるかな~~ わっかんねぇだろうな~ (とっても古い人間です)
繰り返しの美学
ルーカスが辞めてしまったことと、不自然に飼われている熊と羊。絶対何かあるやろ!と、ワクワクしながらの鑑賞だったけど、熊は啼くだけ。3匹の羊は歩くだけ。ルーカスにいたっては登場すらしない。何だ?こいつらが犯人じゃないのか。と、ふと序盤の使用人たちが皆帰宅してしまう不思議な行動と、使用人の長(?)であるフリオの自然すぎる行動。ある意味、ミスリーディングな設定だった。
また、そのフリオが招待客を二度案内するシーンがあり、ディナーでの二度の挨拶があるという不自然さ。二度同じことを言う人物もいたが、なぜ彼ら20人の招待客が閉じ込められたのかということへの疑問がそんな経緯さえも打ち消してしまった。とにかく、原因が全く見当つかない密室劇。普通のホラー、サスペンスであれば、誰かが壁を作ってしまったとか、テロリストに包囲されてしまったとか、強盗犯に拘束されてしまったとか、何かありそうなものなのに何もない。神の力によって“帰る”という意思を奪われてしまった様子なのだ。
最初のディナー以外には食料はなく、二晩、三晩と過ぎる中で空腹や妄想に襲われるセレブたち。死者も出るし、不衛生で悪臭が漂う密室。駆け落ちしたかのような男女がクローゼットで抱き合ったまま、彼らも死んでしまう。水を飲むため壁を壊し水道管を掘り当てるという始末。互いにエゴを剥き出しにして罵り合う者。ホストであるノビレも事態を収めたいが成す術がないのだ。
不条理劇と一言で表現するのは勿体ない。いざというときに何も出来ない富裕層と、空腹になったら紙でも食っちゃう使用人フリオの対比。力強く生きようとする者と厭世観漂わせる弱気な者。20人もの性格を比較するのは困難だが、みんな自己中であることだけは確か。また、彼らには見せかけの信仰心しか持ち合わせてなく、神なんて単なるアイコンにしか過ぎないこともわかる。これを現代でリメイクしたら、性欲描写も凄まじいものになるんだろうな・・・
ブリたんのベスト2を観させていただきました
"ほうほう、不条理劇とはこういうものかと示された一作。しかし、その他、面白みは特になし。ただ、あれだけ不可解な状況で説明なしなのに、気になってしまうのはあっぱれ。
羊とかフリーメーソンとかいう若干怪しい要素あるのもまた影をつくってるよね。
SAWとかの原点なのかな。次につづくラスト含め。ただあれだけの人数で90分って相当ですよ、キャラもちゃんと把握できたし、"
ブニュエルの映画を久しぶりに観ました。濃縮ジュースとも言われるメキ...
ブニュエルの映画を久しぶりに観ました。濃縮ジュースとも言われるメキシコ時代の傑作を観れて幸せです。どうしても映画館のスクリーンで観たかったので今日まで我慢してきました。イメージフォーラムさんありがとうございます。上映後ロビーが混雑して外に出られなかったのは映画の再現でしょうか?焦りました。
(国)境という見えない敷居によって、どれほどの自由が奪われたか
現代に生きる私も、飢餓に苦しむ他人のこと知っていながら、そこへ踏み入ろうという意識をほぼ持たない。
彼らを見殺しにしているのは私自身なのかもしれない。
…昔の作品なのに、そんなことを受けとれるほど現代でも引けを取らない。見れてよかった。
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