ミツバチのささやきのレビュー・感想・評価
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名作の系譜を辿るかのように
本日、この映画を映画館で鑑賞したのですが、政治的な検閲が厳しい中、様々な思いを暗号のように潜ませて撮られたという説明が、上映の前後に語られました。それを知らなければ理解しにくいということで、成る程とは思いましたが、それほど、そのことを意識する程でも無かったと思います。
劇中、この映画のテーマである「フランケンシュタイン」の名シーンが上映されます。少女が恐ろしい様相をしたフランケンシュタインと花遊びをするシーンです。そのシーンからして自分にはもうすっかり名作確定です。実はそれまでよく知らなかったのですが、有名なシーンなのでしょう。あの押井守監督の「うる星やつら ビューティフルドリーマー」でもパロディとして演じられていましたね。古い名作「フランケンシュタイン」から継承された作品であるのだろうと思いました。
学校では人体を、命を学び、父親から生死を学び、少女はその映画を通して優しさを学ぶ。そして脱走兵?らしき相手と出会い、様々なものを施し、父親のコートや時計までも与えてしまう。父親は怒りを覚えたかもしれないけど、少女の幼くも純粋な優しさに感動。
上映前後の解説は不要と思ったけれど、具体的な説明がないシーンがあるということを知った上で見れたのはよかったと思う。同じ場所で食事しているはずが、一人ずつバラバラのカット割りで撮影され、家族バラバラの心情を表しているのでしょうか。そんなふうに考えながら鑑賞出来たことに、ひとつの面白さを感じました。
あと、少女アナの美しい瞳と、耳に輝くピアスが印象的でした。幼いながら、女性としての美しさが輝いていた。
読解力と感性が試される、美しい映画
この映画を表現する言葉は「スピリチュアルな」「内面的な」「精神的な」「詩的な」「絵画的な」「静謐な」というところだろうか。
「何が言いたかったんだ?なぜ高評価なのかわからん。」が正直な初見の感想。ただ、あとから考察やレビューを読みながら考えると、噛めば噛むほど味のするスルメのような映画であった。自分の読解力が足りていなかったことに気付く。
説明は一切ない。セリフも少ない。(あっても姉妹の小声での会話だったり。)ついウトウトしてしまったほどに静かに淡々と進む。
ただ、全編通して何か起こりそうな気配がビンビン。広い洋館や荒野の空き家等の舞台装置と相まってサイコホラーばりに何か出てきそうな怖さを常に醸し出す。が銃撃のシーン以外は特段驚くようなことはおこらない。
後半、イサベルのベッドが片付けられている点に違和感を感じる。アナを回復させるためにイザベルは別の部屋で寝るようにしてるんだろうと思ったが、その後の二人で笑いながらカップを飲むシーンもなんとなく違和感が。。。
違和感はアナを診察にきた医者が母親に言った言葉にも。「アナは子供なんだ。ひどい衝撃を受けているが、少しずつ忘れていく。」アナが行方不明になったとき、アナの身に何かあったのか?(まさか?襲われた?)ひどい衝撃とは何をさすのか??
イサベルが悲鳴とともに倒れていた時「実は死んでいた」という説をレビューで読んだが、なるほど突飛だけどそれなら辻褄が合う!アナが襲われたとかでなく、もうその説が正解でお願いしたい。(笑
実際は「ひどい衝撃=父親が脱走兵を傷つけた」ということなんだろうな。アナは銃撃されたところ知らないもの。父親と結びつけそう。これは衝撃受けそうだ。
どうやらその時分の戦争や政権に対する暗喩なども盛り込まれている模様。
解説やレビューを読み込むのが楽しみ。
※アナを演じた子役、集落の建物、着ている服(貴族のようなフリル、子供用のトレンチコート?、革靴、トランクケース、ピアス!)広大な風景、と大変美しく絵画的な画であった。
世界は豊かだと教えてくれる
昔、レンタルVHSで観たきりで何十年ぶりかの鑑賞。かなり細部を忘れていたのでほぼ初見な感動を味わえた。子ども時代の豊かな感性をこれほど純粋にフィルムに定着させた作品は本当に希少。映画『フランケンシュタイン』の上映に目を輝かせる子どもたち、その中の少女アナの空想世界と素朴な村の光景に、ミツバチの巣のような格子の窓など印象的なショットが多数。すべての光景が新鮮に見えるのは、こちらも童心に帰っているからか。子どもの頃、見るものが全てが新しかった。その感覚を呼び覚ましてくれる映像の数々は本当に貴重だ。
負傷兵にフランケンシュタインの怪物を重ねて助けようとするアナの純真を現実の大人たちは打ち砕いてしまう。世界の理不尽さが描かれる作品ではあるけど、読後感がいやなものにならない。それは全ての現実と空想には境目がなく、あの悲劇的な出来事も全ては空想だったかもしれないと思わせるからか。まだどこかで生きていて幸せになっているのではないかと空想できる余地が残っているからか。悲劇があってもこの世界は豊かと信じさせてくれる何かがこの作品にはある。
素朴、しかし、ある悲しさ
映画の缶詰が来て歓喜の子ども達
映画が来たよ!面白いよ!映画は「フランケンシュタイン」!悪夢にうなされそうだ。それなのに即席・映画館には大人だけでなく子どももやってきて満員。映画上映時間情報はラッパ型マイク(拡声器?メガホン?)を使っておばさんが村中に聞こえるようにアナウンスする。映画では、恐ろしい顔で大男のフランケンシュタインと女の子が出会うシーンが映る。ちっとも怖がらない女の子、お花を池に落とす遊びを一緒にする。フランケンシュタインの顔にも笑顔が浮かぶ。次のシーンでは、フランケンシュタインも女の子も倒れた状態で運ばれる。死んだ?何が起こった?アナには何が何だかわからない。なぜ?と聞かれて姉のイザベルは、あれは映画だから誰も死んだりしていないよ(アナが知りたいのはそこじゃない)。そして更に色々言う。その中でアナの頭の中にはっきり残った言葉は、多分、英語にしたらspirit、アナにとってはお化け、精霊、幽霊、天使、妖精のようなもの。それは優しくて怖くない。でも死とか倒れちゃうはよくわからなくてとっても怖いと思った、と思う。
地平線が見える広大な大地、その中にぽつんとある小屋と井戸のある近辺はアナとイザベルの遊び場だ。その小屋の中でアナはspirit=脱走兵を見つけた(映画「汚れなき悪戯」を思い出した)。「フランケンシュタイン」の女の子みたいにお花、ではなくてリンゴをあげて、家に戻ってからパパのコートとかパンも持ってきた。アナはspiritの足の怪我に気がつき彼女なりの手当てをする。そしてspiritの靴ひもを結ぶ様子はとても可愛くて上手だった。ああいう風に結ぶと(アナは自分の靴も同じように二重結びにしていた)ほどけないなと感心した。
私はアナの母親テレサの元恋人(手紙の宛先)はそのspiritだと思った;テレサの住む村近くを狙って列車から飛び降りたから、テレサの年齢と合う若くて美しい男だったから、テレサはそのspirit=脱走兵が撃たれて亡くなったあと、書いた手紙を封筒ごと焼いたから。封筒の宛名住所はフランスだった。
アナの家族は大きな立派な家に住んでいる。家政婦も居る。二人の娘の服も寝間着もとても品がよくて可愛らしい。豊かな家だ。父親は妻のテレサよりずっと老いている。家にはどっしりした書斎があって本棚には革張りの本がたくさん並んでいる。父親はインテリなんだろう。妻との関係は冷えているようだし娘達と家族で賑やかに話すでもない。養蜂は暇つぶしの趣味なんだろうか?父親は蜜蜂をとてもクリティカルに見てそれをノートに書きつけたりしている。一部、削除したりして。
脱走兵の一件で、アナはぐったりしてベッドで寝ているが、イザベルと一緒の寝室なのにイザベルの方のベッドのマットレスもリネンも外されていることに驚いた。アナは別に伝染病に罹った訳ではない。それでもイザベルがアナの所に来たから安心したけれど、イザベルはアナにしか見えない存在なのかと思ったりもした。家族で居る時もイザベルは私達には見えるしアナにも見えているのに両親からは見えてないのかも知れない。学校でもイザベルは姉のはずなのになぜアナと同じ教室で授業を受けているのかな(勘違い?)と思った。
アナの瞳が可愛らしくて純粋でずっと見ていたかった。映画の題名「ミツバチのささやき」は悪くないけれどちょっと残念だった。他の国・言語の表題にはspiritをそれぞれの言語で入れている。日本語でもspiritをイメージできる語を入れたらよかったのに。でも自分では思い浮かばない。「目をつぶれば 君がいる」?歌謡曲の歌詞になってしまう。
書いてはいけない
「このガラス製のミツバチの巣箱では、蜂の動きが時計の歯車のようによく見える。巣の中で蜂たちの活動は、絶え間なく神秘的だ。乳母役の蜂は蜂児童房で狂ったように働き、他のはたらきばちは生きた梯子のようだ。女王蜂はらせん飛行、間断なく様々に動き回る。蜂の群れの報われる事のない過酷な努力、熱気で圧倒しそうな往来、房室を出れば眠りはない。幼虫を待つのは労働のみ。唯一の休息たる死もこの巣から遠く離れなければ得られない。この様子をみた人は驚き、ふと目をそらした。その目には悲しみと恐怖があった」
主人公の少女アナの父親で養蜂家であるフェルナンドはノートにこう記し、最後の数行を二重線で消す。それは、イザベラとアナの姉妹がベッドの中で夜毎“ささやき”声で語り合う精霊の作り話、または、母親が昔の恋人にしたためた内緒のラブレターと同等の、誰にも知られたくないここだけの話なのである。時代設定が1940年のためか、当時まだまだ検閲が厳しかったフランコ独裁政権に言及した演出とも思われるが、本作公開年度の1973年に我々はむしろ注目しなければならない。そして本作のテーマが、分断の危機が叫ばれる現代の世界情勢にもそのままあてはまる偶然に驚きを隠せないのである。
一見、いたいけな少女がみた夢を描いたファンタジーのように思える本作は、政治的メタファーにみちた映画であることがよく知られている。が、本作が公開された1973年の数年後にフランコが亡くなっていて、当時の映画表現に対する検閲も時代設定の40年に比べればゆるゆるだったことからも、スペイン内戦限定の映画ではない、もっと普遍的なテーマに言及した作品のように思えるのだ。アメリカがテト攻勢にあいベトナムから撤退した1973年は米ソ冷戦真っ只中、代理戦争という形で、資本主義と共産主義、右と左が激しいつばぜり合いを各地で繰り広げていたのである。現代の米中○○戦争、米国内における分断とまったく同じ構造と言えるだろう。
レビュー冒頭で記した🐝に関する考察は、資本家と労働者、集団農場で働かされる貧しい農民、もしくは戦争に借りだされる若者の悲しい末路にも思える。地平線まで続く一本道や鉄道のレールは美しい景色を“左右”真っ二つに分断し、スペイン内線で心に傷を負った夫婦はベッドでも無言のまま言葉を交わすことさえない。🐝の巣のような小学校に通う姉のイザベルは映画のウソに気づけるほどスレていて、純心無垢な妹アナに出鱈目ばかり吹込み煽動する。まるでどこかの国のマスゴミみたいだ。左右に並べられたベッドも印象的である。資本家=エリートは邪な思想=キノコを踏み潰す。超軍事大国を思わせる(ある意味無垢なる魂の持ち主)フランケンシュタインは、その力をどう使っていいかわからず、映画内映画の中で少女をその手にかけてしまう。
姉イザベルのウソを信じた純心なアナは、フランケンシュタイン=傷病兵を精霊と思い込み、その親切が仇となって傷病兵の命を奪ってしまったことに気づきショックを受けるのだ。女王🐝に操られる働き🐝のように、無垢なる魂が常に戦争に利用されるならば、少女アナのように“瞳をとじて”精霊に祈りを捧げるしかないではないか。左右中道を肉体的にイメージさせるトランスジェンダーやLGBTQが、国家をかえって分断し混乱を招くことが明らかになりつつある現代、“無垢なる瞳”の唯一の持ち主である子供たちに未来を託す以外、おそらく他に術がないのであろう。
文句なし❗️監督ビクトル・エリセの素晴らしさを再認識
BSで録画視聴。
ビクトル・エリセ監督作品は昨年瞳を閉じてを観た。しかし、彼の作品はエルスールとこの作品を観てこそ。
改めて、この作品の素晴らしさを納得できた。ストーリーはよくあるストーリーだが、
子役のアナの目つきがいい。アナ、当時の
スペインにタイムスリップした感覚で観た。
文句なしの名作。あのアナ役の子役が昨年瞳を閉じてで再び出演なんて信じられない。
もう一度瞳を閉じてが観たくなった。
鑑賞力がより問われる作品
「午前十時の映画祭」で鑑賞。
後半まで、ちっとも面白くならないので、「どうしてこれが名作といわれているのだろう?」と疑問に思いながらスクリーンをにらんでいました。
でも、そうは思いながらも「退屈だなぁ」とは感じなかった。それぞれのシーンは、とてもしっかりと作られていたからです。
エリセ監督は、ひじょうに綿密な計画のもと、隠喩法(と言っていいのかな?)を多用して、本作を構成している。そして、この作品はとても「映画的」な映画だな――という印象を受けました(「映画的」って、どういうことかはっきりとはわからんけど)。
というわけで、物語の途中からは「なるほど、よく出来ているな。たしかに名作かもしれないな」と、そいういう感想を抱くに至ったのでした。
我々鑑賞者は、この物語の世界に深く入りこみ、その表現しようとするところを丁寧に読み解き、感じることが求められる。そうすればするほど、さらにこの映画の骨組みの強さを知ることができるのでしょう。
言うまでもなく鑑賞する側の真摯な姿勢というのはどの作品にも必要なわけですが、本作にはさらにそれが要求されるのではないかと思いました。
いずれにせよ、個々の鑑賞力がとても問われる作品にはちがいないでしょう。
スペイン内戦という、本作の背景を知れば、もっと深く鑑賞できるのかな?
それにしても、あの主演の女の子は可愛すぎますね。
正直眠かった...
少女の純粋さと心許なさ
小さな町の上映会に子供達が次々と集まって来る。薄暗い中、スクリーンを見つめる眼差しや表情がいい。
主人公アナ( アナ・トレント )は、フランケンシュタインの無垢な心に惹かれたのでしょうか。
蒸気に包まれ、再び姿を現す蒸気機関車の映像が美しい。
あの年頃の姉妹の関係性は、案外あのようなものかも知れない。
映画館での鑑賞
見る人の状況により評価が分かれる
もう40年以上昔に作られた作品なのに、古臭くならないのは奇跡と言えるでしょう。
私は、何度もこの作品を鑑賞しようとしては途中で断念し、それでも「駄作」と決め付けずにこの機会を得ました。
子役の印象的な目の演技。シンプルで共感を感じるストーリー。押し付けがましくならないカメラワーク。必要のないモノは極力排除した美術、衣装など、この作品に凝らされた意匠の数々はその後の映画人に多大な影響を及ぼしたマイルストーンとでも言いましょうか。
それは、まるで当たり前のように壁に掛かっていて、見る時、人、条件によって感じ方の違う名画のような、ま、映画なので実際「名画」ですが。そんな作品でした。
今の私には、本当に癒しになる、それでいて考えさせられる、素敵な映画です。
美しさと残酷さ
話題のビクトル・エリゼ31年ぶりの長編
『瞳をとじて』を観に行くために
前日Amazonの配信を買ってこの名作を観た
これを観てから行って本当に良かったと思う
不勉強なあたし…観てないものがたくさんある
でも何を学ぶでも遅いということはないね
子供が主役ということで
『禁じられた遊び』がすぐに思い浮かんだ
無邪気さと残酷さが自分の幼い頃の郷愁に駆られる
夕陽を見て胸がキュンとなる
草の匂いを感じて切なくなるそんな郷愁
最近流行りの(?)ミツバチのドキュメントを数本観たからか特別に不思議に感じる生態
そしてこの父親が養蜂している巣箱の美しさ
家の窓ガラスもその六角デザインに
飴色の柔らかい外光が透ける
内乱の後にしてはそれなりに整った室内
子供達のベットルームの寝具もふかふかに整っていてナイトドレスも上等なリネンにたっぷりのフリル…
あこがれの西洋文化だわ
序盤の映画会
映画の缶詰が運ばれて
子供達や大人たちが集まる映画愛から始まる
終始静謐感に溢れ、子どもの心情に寄り添う作品!
「瞳をとじて」つながり
この映画の背景は1940年、スペイン内戦の終結直後。ヨーロッパでは、スペイン内戦は第二次大戦に直結したと考えられている。一方、この映画の公開は、1973年、スペインでは依然としてフランコによる独裁体制下。何しろ、この映画は暗喩に満ちているから、時代の背景を知っていたほうが良いかもしれないが、日本からは遠い国の話だし、ミニ・シアター・ブームを作った85年当時の観客に、それが理解されていたとは、とても思えない。
何、それでよいのだ。
この映画の良いところはどこだろう。
やはり、アンと言う可愛い(当時5歳の)幼女が少女に変わって行くところに尽きる。
サンタの実在を信じていた男の子が、それが虚構であることに気付くような。
アンの場合には、自分を始めて意識することが重要なのだろう。
「私はアン」と言って、眼を閉じることは、それにつながる。
それを教えてくれたのは、半年しか歳の違わないお姉さんのイザベル。しかし、本当の自分を知るためには、様々な経験もまた必要だった。学校、巡回移動映画、汽車と線路、父親とミツバチ。眼を閉じて最初に現れるのは、確かに巡回映画に出てきてイザベルに聖霊と教えられたフランケンシュタインだったのかも知れないが。
でも、次は列車から飛び降りて家の近くの廃墟に隠れていた兵士になったことだろう。
驚いたことに、この映画は、同じ監督(ビクトル・エリセ)と女優(アナ・トレント)による50年後の映画「瞳をとじて」につながってゆく。しかも、同じセリフ「私はアン」を通じて。今度は、目をとじると過去に出会った大事な人たち、それから自分そのものが見えてくるのだろう。寡作の監督エリセが、この映画を通じて、私たちに教えてくれたものは大きい。
アナの瞳
映画フランケンシュタインを観た後にアナは「何故殺されたのか?」と尋ねる。それ以降、この作品は死の気配とともに進行していく。
荒涼とした風景、色彩のない街並み、団欒のない家庭。明らかに歯車が噛み合っていないが、それが何なのか明確には分からない。
そんな生気のない世界の中で、主人公のアナの瞳だけはキラキラとしている。サンタクロースを信じるような無垢な心で世界を見ている。
そんな彼女がある事件をきっかけに失踪し、捜索する父親たちに見つけられる。この失踪は、蜜蜂でいえばサナギの状態に当たるのだろう。事件の前と後で決定的にアナの内面は変わっている。
フランケンシュタインという触媒による幼虫から蛹、成虫へという変化はアナだけでなく、家族、そして恐らくスペインという国の変化(将来への希望的なものも含め)も表している様に思える。
スペインの独裁政権下という制約のある中で作られた映画。隠された作者の思いを漠然と感じられるも、掴み切れずもやっとするものが残る。
時代背景を調べて、また観に行こう。
…
(20240215ht渋谷にて二度目)
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