みじかくも美しく燃えのレビュー・感想・評価
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【”哀しき最後の草上の昼食・・。”今作は、余りに無計画だが、僅かの間の男女の許されぬ愛の逃避行を品性高く描いた作品である。特に画面を静止させ、銃声のみを観る側に聴かせるラストショットは秀逸である。】
■19世紀、スウェーデン。
陸軍中尉シクステン・スパーレ伯爵(トミー・ベルグレン)は、妻子が在りながら、サーカスの綱渡り芸人として活躍する美女エルビラ(ピア・デゲルマルク)と激しい恋に墜ちる。
エルビラと駆け落ちするシクステン。脱走兵扱いになり、同僚のクリストファー(レンナルト・マルメル)が探しに来るが。彼は二人の姿を見て見逃すのである。
だが、いよいよ、金が尽きた二人はシクステンが腕相撲で得たパンと盗んだ卵を茹でてランチボックスに入れ、最後のピクニックに出掛けるのである。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
・冒頭、シクステン・スパーレとエルビラは楽し気に草の上で昼食を摂っている。まるで、マネの名画“草上の昼食”のように。
そこでは、二人が許されぬ駆け落ちをしている事は語られない。
・エルビラは宿の洗濯紐を拝借して、木に撒きつけ綱渡りをしている。この時のエルビラを演じるピア・デゲルマルクの優雅な姿が、実に美しいのである。
そして、劇中に流れる優雅なクラシック音楽。
・だが、シクステン・スパーレとエルビラは余りにも生活能力がなく、金も尽きてしまうのである。
■今作は、実際にスウェーデンで起きた実際の事件をベースにしているそうである。不倫の果ての逃避行と心中は当たり前だが全く肯定できないが、この作品の風合は趣高く、何よりも若きピア・デゲルマルクの姿が魅力的であるのである。
<そして、冒頭の二人の楽し気な”草上の昼食”シーンと、ラストの”哀しき最後の草上の昼食”の対比と、ラストの演出は印象に残る作品である。>
無我夢中の美しき日々。許される事と、許されない事の一本の綱渡りの物語。 でも美し過ぎて。
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是か、否か。
軟弱か、硬派か。
スパーレ中尉は、追ってきたかつての部下をこう諭すのだった
=我々は多くの物を見過ぎた、
=いまは近視眼的になるべきだ。
そして青年将校は草上に横たわり、目の前の草に見入り、その他の世界がぼやけて見えなくなる事を部下に勧める。なるほどなぁ。
”脱走兵“を追って一週間。
部下がようやく見つけたのは ― 金色の野に遊び、キイチゴを摘み、さざ波に魚を求むる若者たちのそれだった。
カメラも敢えてピントをぼかしている。
柔らかい木綿のブラウスを脱ぎ、ヒゲ剃りのクリームと練乳のクリームにたわむれて笑い、
細い細い綱渡りの「あてどもない道行き」を燃えていく二人。
この美しい恋人たちにモーツァルトとヴィヴァルディの甘美な響きが寄り添う銀幕。
・・
原題「Elvira Madigan/エルヴィラ・マディガン」はヒロインの名前だ。原作の実話小説ではこの彼女が主人公であり、よりストーリーの表に出ていたという事だろう。
◆女優ピア・デゲルマルクは、撮影時には17歳(撮影当時17歳だが、役柄は21歳の設定)。
◆スパーレ中尉をトミー・ベルグレン(同じく撮影当時30歳、役柄では34歳)。
つまり、ひと回り上の、妻子のあるいい歳の大人が、身分違いの旅芸人に夢中となり、国境を越えての駆け落ちの逃避行なのだが、
でも、
《それで良いではないか?》と美しい青い目でこちらに問うスパーレを見ていると、僕もその目に引き込まれて《それでも良いのかも知れないと》思えてくる。
森鷗外の「舞姫」もプッチーニの「蝶々夫人」も、現地妻にAddictした挙げ句に女を捨てている。”貴族のボンボンが芸人に身をやつすスキャダルストーリー“は、男女共によくある話で、メロドラマ的には共感と感涙を絞るのだろう。
しかし、スパーレは“情婦を棄てなかった”。
「こういう生き方が認められる世の中がいつか到来するのだ」と、劇中この色男は未成年女子に告げていたっけね・・
本作が作られたのは1967年だ。若者が野に出て行った時代で、全世界でヒッピーたちの「フラワー・ムーブメント」が盛んになった頃だろう。
・・
今回とくに意外だったのが、テーマBGMに使われたあの「モーツァルトのPコンの21 番第2楽章」。ずっと最後まで聴かせてくれるのではなく、冒頭の触りだけを幾度も繰り返していて、それはベッドでも野原でも“ブツ切り“で流していた事。その違和感。
◆“最後まではイカない”二人の肉体関係様なものを思わせて、
◆そして夕日が沈む干潟でのシーンが、モネの最初期の印象画のようで泣けるほど美しくて、
◆時の経過をエルヴィラの靴が徐々にくたびれて汚れていく観察で見せている。
◆そうして「終わっていく二人の行く末」を37歳の監督は見つめていた。
許される事と、許されない事の一本の綱渡りの物語。
でも美し過ぎて。
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鳴り響く二つの銃声
美しい二人がすること
モーツァルトの美しい曲と共に
50年以上前の作品とは思えない
美しい景色の映像と古さを感じさせない
愛らしい美女と爽やかな好青年。
そんな美しい二人が、
地面に生えるキノコや木の枝の実を
むさぼるように取って口に入れる。
吐きもするが、また取って口にする。
この対比だろうか。
妻子が居ながら、別の女性と逃避行。
何度も出て来るガマクチと僅かな硬貨。
この青年は、二人の行く末をどう思っていたのか。
女性は得意の綱渡りでお金を稼ごうとするが、
セクハラまがいの雇い主と恋人が争い、金を受け取れず、ジリ貧のまま。
元の場所に戻ると、二人の仲は引き裂かれ、
脱走兵の青年は逮捕され刑務所送りとなる。
本当に美しく燃えたのだろうか。
二人お互いに好きではあったろうが、
青年の独りよがりな考えに
生活経験の少ない女性が追随してしまった
結果ではなかろうか、と考えて
命を長らえる手段を導いて欲しかった、
と願う自分がいる。
醜くとも長く生きたいね。
音楽だけの映画。モーツァルトピアノ協奏曲第21番 第2楽章だけの映画で、この映画の影響で、モーツァルトを軟弱な作曲家として、誤解をしていた。モーツァルトを使って、不倫の心中なんてもってのほか。また、
調べると軍人と綱渡りの芸人の不倫(?)の話しで、事実に基づくフィクションのようで、軍人も下士官止まりで、中尉なんかではない。だから、反戦運動を盛り上げる為に忖度して作った部分が多いと想う。僕の時代にはどストライクな流行り映画だったが、オクテな僕には恋愛は『メロディー』止まりだった。
『フリーセックス』と『ベトナム反戦運動︼の高まりで、戦争の犠牲者見たく描いているが、スウェーデンやデンマークは中立を掲げながら、ナチス・ドイツを排除出来なかった歴史は残ってしまっている。だから、今でも、スウェーデンはフィンランドがNATOに加盟したのに、簡単にはそれを受け入れる事ができない歴史がある。
まぁ、そんな硬いこと言わずもがなたかが。ここでえがかれている事は、タブロイド紙のゴシップ級の寓話である。
『何年かすれば、二人を分かってくれる時が来る』と、このイケメン自己中青年はのたまうが、未だにそんな時は来ていない。
『美しい』と言った価値観を『ドイツとデンマークの混血』を理由にしている様に日本では見た者も多いと思う。僕もその一人だったが、この頃から白人少女の美しさを別の形で見られる様になった。つまり、トレーシー・ハイドやオリビア・ハッセーの出現である。どちらも金髪ではないし、アーリア系ではない(そんなのがあればの話だが)。でも、トレーシー・ハイドもオリビア・ハッセーもアングロ・サクソンそのものではない美しさがあると思うが。だから、ジャーマン系の血筋を『美しい』とする価値観に抵抗感を覚える。煮えきらない軽薄なモラトリアム青年と軽薄な少女の出合いの話になってしまっている。二人の結末に何も得るものは無い。
見た事があったようだが、僕にはトラウマの様な映画だったようだ。
似たような話に『ベニスに死す』があるが、それとこれとは全く違う。なぜなら、語るまでもない。
サーカス芸人は本当にドイツとデンマークの混血だったのだろうか?さて。
あまりにも無責任な恋
エルヴィラ と ピア・デゲルマルク
19世紀のスウェーデンの 有名な心中事件の映画化
綱渡り芸人と シクステン・スパーレ伯爵の、恋の道行きと その顛末を 美しい映像と音楽で 見せる
特に ピアノ協奏曲第21番ハ長調(モーツァルト)が
効果的
至上の喜びと 天上の音楽の組み合わせである
原題は Elvira Madigan
知性も良識も 兼ね備えていたであろう、シクステンに何もかも 捨てさせた 彼女の存在を、やはりどうしても考えてしまう…
木に 洗濯紐を渡して、綱渡りをして遊ぶ
エルヴィラ(ピア・デゲルマルク)
これをとらえるカメラは シクステンの目線であり、スウェーデン国民(と観客)は 彼がエルヴィラに見たものを 考えるのである
そして 恋についても…
この役で 永遠に名を残すことになった、
デゲルマルクが 本当に美しい
美しいまま迎えるラストは 衝撃的である
感傷的と受け止められもするが、
満ちた月が 欠けていくような二人の成り行きをも、
詩情豊かな映像で描いている
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