ミシシッピー・バーニングのレビュー・感想・評価
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この感情表現、奥深さ、煮えたぎる怒り。ハックマンの最高傑作なのではないだろうか
その分厚いキャリアで様々なジャンルを横断してきたハックマンだが、現実に根差した社会問題を扱ったヒューマンドラマへの出演は意外と珍しい。人種差別の構造にメスを入れた社会派な目線もさることながら、なんと言っても、公民権活動家の失踪事件を受けてFBI捜査官としてこの地に乗り込むウィレム・デフォーとハックマンの正反対コンビが絶妙だ。デフォーは頭は切れるが若き青二才エリートであり、対するハックマンは叩き上げの現実主義者。南部の出で、この地のことを熟知しつつ、しかし我慢の限界を超えた大きな怒りへとたどり着く役柄だ。『フレンチ・コネクション』よりも前の時代(60年代)を描きつつも、どこかポパイ刑事が歳を重ねてこの境地にたどり着いたかのような、ハックマンならではのうねるような感情の発露と奥深さと燻銀の味わいがある。パーカー監督らしい骨太なヒューマニズムも際立ち、今なお観る者の感情を震わせ続ける名作である。
【90.1】ミシシッピー・バーニング 映画レビュー
アラン・パーカー監督による『ミシシッピー・バーニング』は、1964年のミシシッピ州で実際に起こった公民権運動家失踪事件をモチーフに、根深い人種差別と正義のあり方を問う、極めて完成度の高い社会派サスペンスである。歴史的事実を下敷きとしながらも、北部のエリート捜査官と南部出身の叩き上げ捜査官という対照的な二人を主人公に据えることで、物語にダイナミズムと多層的な視点を持ち込んだ手腕は見事というほかない。
映画のトーンは重く、常に緊張感を孕んでいる。白人至上主義団体KKKによる暴力と、それに同調、あるいは見て見ぬ振りをする閉鎖的なコミュニティの描写は、観客にアメリカ社会の病巣をまざまざと見せつける。捜査の過程で明らかになる人間の醜さと、それに抗おうとする僅かな光の対比が、物語に深い奥行きを与えている。史実との乖離や、白人中心の視点であるとの批判も存在するが、普遍的な正義と倫理の葛藤を描き出し、観客の感情を強く揺さぶる力は疑いようがない。一級のエンターテイメントとして、また歴史の暗部を照射する文学作品として、その価値は揺るがない。
📽️ 監督・演出・編集: 緊迫感あふれるリアリズム
アラン・パーカー監督の演出は、物語の緊迫感とリアリズムを最大限に引き出すことに成功している。ミシシッピの熱気に満ちた、湿度の高い空気感、そして住民たちの疑心暗鬼な雰囲気が、画面全体から立ち昇ってくるかのようだ。
特に、KKKの集会シーンや、差別的な暴力の描写における抑制されたトーンは、過度なセンセーショナリズムに陥ることなく、その陰惨さを際立たせている。対照的な捜査官二人の関係性の変化や、彼らが直面する倫理的なジレンマを、巧みな会話劇と映像の構図で描き出し、観客を深く引き込む。編集はシャープで、サスペンスとしてのテンポを保ちつつ、重厚なドラマとしての深みを失っていない。捜査が行き詰まり、そして突破口が開かれるまでの緩急のつけ方は、まさにベテラン監督の円熟の技である。
🎭 キャスティング・役者の演技: 魂をぶつけ合う名優たち
キャスティングは本作の成功の重要な要因であり、主演のジーン・ハックマンとウィレム・デフォーをはじめとする俳優陣の演技は、火花散る緊迫感を生み出した。
主演
• ジーン・ハックマン (Gene Hackman) - ルパート・アンダーソン捜査官
FBIの叩き上げのベテラン捜査官であり、南部ミシシッピ州出身という設定が、物語に複雑な深みを与えている。ハックマンは、粗野で強引な捜査手法を取りながらも、根底に強い正義感と人間味を持つアンダーソンを見事に体現している。北部のエリートであるワードへの反発と、自身のルーツへの葛藤、そしてKKKの暴力に対する静かな怒りを、その表情と佇まい、そして南部訛りの会話を通して巧みに表現している。特に、ペル夫人との交流を通じて見せる繊細な感情の機微は、このキャラクターの多面性を際立たせ、観客の共感を深く呼び起こす。この演技によって、彼は第39回ベルリン国際映画祭で銀熊賞(男優賞)を受賞した。彼の存在感こそが、本作の魂の核であると言える。
• ウィレム・デフォー (Willem Dafoe) - アラン・ワード捜査官
ボストン出身のエリートFBI捜査官であり、法律と規則を遵守する北部のインテリジェンスを象徴する。デフォーは、生真面目で四角四面なワードの冷徹な知性を表現しつつも、南部で目の当たりにする人種差別の現実と、アンダーソンの型破りな手法との間で揺れ動く内面を克明に描き出す。当初の理想主義的な硬さから、徐々に現実的な対応へと変化していく過程を、抑制された演技の中に滲ませている。ハックマン演じるアンダーソンとの捜査方針をめぐる対立は、そのまま当時のアメリカ社会の南北の価値観の対立を映し出す鏡となっており、二人の化学反応が物語を牽引している。
助演
• フランシス・マクドーマンド (Frances McDormand) - ペル保安官補夫人 (Mrs. Pell)
地元の保安官補ペルの妻でありながら、夫やコミュニティのKKKの暴力に苦悩し、良心に苛まれる女性。マクドーマンドは、抑圧された環境の中で、アンダーソン捜査官に対して勇気ある告白を決意する内面の葛藤と恐れを、静かながらも強烈な存在感を持って演じきった。その真に迫る演技は、第61回アカデミー賞で助演女優賞にノミネートされるなど、高い評価を受けた。彼女の役柄は、閉鎖的な社会における良心の灯として機能しており、物語の転換点に不可欠な存在である。
• ブラッド・ドゥーリフ (Brad Dourif) - クリントン・ペル保安官補
KKKのメンバーであり、失踪事件に関与する地元警察の保安官補を演じている。ドゥーリフは、卑屈さと残忍さを併せ持つ、陰湿な悪役を見事に演じている。特に、彼の神経質で攻撃的な態度は、KKKのメンバーたちが持つ劣等感と権力への渇望の複雑な心理を垣間見せる。その強烈なキャラクター造形は、物語の闇の部分を深く描き出す上で重要な役割を果たしている。
• R・リー・アーメイ (R. Lee Ermey) - ハロルド・バーカー市長
町の権威の象徴でありながら、KKKと密接な関係を持つ偽善的な市長を演じた。アーメイは、その威圧的な風貌と、表面的な愛想の良さの裏に潜む差別意識と保身を、巧みな演技で表現し、町全体の腐敗の構造を象徴する存在として物語に重みを加えている。
📜 脚本・ストーリー: 史実を基にした強烈な告発
脚本は、1964年の「フリーダム・サマー」のさなかに起きた公民権運動家3人失踪事件という史実を骨格に、捜査官二人をフィクションのキャラクターとして導入し、サスペンスとして再構築されている。
人種差別という重いテーマを扱いながらも、緊張感あふれる捜査の過程と、対照的なバディの関係性を主軸に置くことで、エンターテイメント性を維持している点は評価できる。特に、法と倫理の境界線を巡る議論や、アンダーソンによる型破りな「正義」の執行は、観客に深く考えさせる問いを投げかける。ただし、黒人の視点や公民権運動自体の描写が希薄で、白人捜査官が黒人を救うという**「白人救世主(ホワイト・セイヴァー)」の構図に陥っているという批判は、看過できない論点である。しかしながら、歴史の忘れてはならない出来事を、強烈な告発として現代に提示したその意義**は大きい。
🎨 映像・美術衣装: 南部の熱気と陰影
フィリップ・ルースロによる撮影は、本作の成功に不可欠な要素であり、第61回アカデミー賞で撮影賞を受賞している。
ミシシッピの焼け付くような日差しと、KKKの活動する夜の不気味な暗闇、そして家屋の影が深く落ちる屋内など、光と影のコントラストが非常に効果的に用いられている。この陰影に富んだ映像美が、物語の重いテーマとサスペンスフルな雰囲気を増幅させている。美術と衣装もまた、1960年代のアメリカ南部の時代性と、貧困と閉鎖性を正確に描き出し、リアリティを高めている。特に、KKKの象徴的な白いローブや、町のくたびれた看板や埃っぽい風景は、差別が日常に溶け込んでいるという冷酷な事実を視覚的に訴えかける。
🎶 音楽: 魂を揺さぶるゴスペルとブルース
トレヴァー・ジョーンズが手掛けた音楽は、映画の情熱的で重厚なトーンを支えている。
スコアは、静かな緊張感を高めるサスペンス的な楽曲と、事件の悲劇性を際立たせるドラマティックな旋律が見事に融合している。特に、サウンドトラックには、当時の南部の空気を感じさせるゴスペルやブルースが多く取り入れられており、黒人コミュニティの信仰の深さと苦難の中での希望を象徴的に表現している。主題歌として特定のポップソングなどはないが、サントラ収録曲に「プレシャス・ロード (Precious Lord)」などのゴスペルナンバーが含まれており、これが作品の精神的なバックボーンとなっている。音楽は、視覚的な暴力の描写の裏で、魂の叫びを代弁する役割を果たしている。
🏆 受賞・ノミネート歴
本作は、その芸術性と社会的影響力から、数多くの映画賞で評価された。
• 第61回アカデミー賞: 撮影賞を受賞。作品賞、監督賞、主演男優賞(ジーン・ハックマン)、助演女優賞(フランシス・マクドーマンド)、編集賞、音響賞にノミネート。
• 第39回ベルリン国際映画祭: **銀熊賞(男優賞)**をジーン・ハックマンが受賞。
• 第46回ゴールデングローブ賞: 最優秀作品賞(ドラマ)、最優秀監督賞、最優秀主演男優賞(ドラマ)(ジーン・ハックマン)、最優秀助演女優賞(フランシス・マクドーマンド)にノミネート。
この受賞・ノミネート歴は、本作が単なるサスペンスに留まらず、演技、映像技術、そしてテーマ性の全てにおいて極めて高い評価を得たことを示している。
✏️ 総評: 忘れ去られた怒りの炎
『ミシシッピー・バーニング』は、不都合な歴史から目を背けず、人間の持つ憎悪の根源を深く掘り下げた、現代においてもなお警鐘を鳴らし続ける傑作である。ジーン・ハックマンとウィレム・デフォーという二人の名優の火花散る応酬と、フィリップ・ルースロの陰影に富んだ映像が融合し、重い題材を見事に一級のサスペンスへと昇華させている。批判点も理解できるが、社会変革の胎動期における葛藤と、正義を貫くための苦闘をこれほどまでに骨太に描き切った作品は稀有であり、歴史的意義と芸術的価値を兼ね備えた必見の映画として、今なおその炎は燃え続けている。
🏆 最終表記(修正版)
作品[Mississippi Burning]
主演
評価対象: ジーン・ハックマン
適用評価点: A9
助演
評価対象: ウィレム・デフォー、フランシス・マクドーマンド、ブラッド・ドゥーリフ、R・リー・アーメイ
適用評価点: A9
脚本・ストーリー
評価対象: クリス・ガーボル
適用評価点: A9
撮影・映像
評価対象: フィリップ・ルースロ
適用評価点: A9
美術・衣装
評価対象: ジェフリー・カークランド
適用評価点: A9
音楽
評価対象: トレヴァー・ジョーンズ
適用評価点: A9
編集(減点)
評価対象: ジェリー・ハンブリング
適用評価点: -0
監督(最終評価)
評価対象: アラン・パーカー
総合スコア:[90.1]
感動的だがフィクションでもある
1964年にミシシッピー州フィラデルフィアで公民権運動家3人が殺害された事件を基にした社会派映画で、シリアスで硬派な映画でありながら娯楽映画としても面白く作られてるあたりはまさにハリウッド映画(アラン・パーカー監督はイギリス人だけど)。とても面白かったし、ラストのアフリカ系アメリカ人(黒人)女性が歌うゴスペルのシーンは感動した。ジーン・ハックマンとウィレム・デフォーも名演。
ただし内容自体はあくまでもフィクションで、主人公である2人のFBI捜査官は架空の人物だし、そもそも実際にはFBIは事件の捜査に積極的ではなかったらしい。またアフリカ系アメリカ人(黒人)のFBI捜査官が出てくるが、これもフィクションで実際には当時FBIに黒人の捜査官はいなかったとのこと。最後に逮捕されていた犯人たちも実際にはあっという間に釈放されてしまったようだ。そのため事実の改変に一部でリベラル派からの批判もあるみたい。
米国の南部のその地方政府と米国全体のその連邦政府との争いですが、米...
米国の南部のその地方政府と米国全体のその連邦政府との争いですが、米国のその当時の地方のレストランのその便所がcoloredとwhiteに別れ、coloredが有色人種用でwhiteが白色人種用ですが、レベッカのヴォーカルのノッコのそのバンド解散後にピンで発売したアルバムのタイトルがcoloredでしたが、そのレベッカ解散後とピンで活躍する前の間でレッドウォリアーズのギタリストの木暮武彦と渡米し、米国デビューをしようと考えていたようですが、デビューしてませんが、朝鮮戦争の際のその朝鮮半島の米国軍人のためのその朝鮮人女子の売春宿が白人用と黒人用に別れていたそうで、太平洋戦争がその朝鮮戦争の前ですが、米国に占領された日本に日本女子と米国軍人との間にできた子の混血児施設がありますが、また戦前も戦後も戦争花嫁として、日本女子が米国人に嫁いで行ってますが、日本女子に米国の人種間闘争や人種差別や黒人と白人の区別や米国の歴史の教養があったのかなと
アンダーソンの父親曰く"If I wasn't better than a Black man, who was I better than?"
事実をもとにして脚色し、エンターテーメントせいを持たせた映画なのである。私はレビューは書いたことがなかったのであらためてこの映画を観賞して書いている。実は最近、ジョンソン大統領と、フーバーFBI長官、そして、ミシシッピー州の上院議員ジェーム・イーストランドとジョンソン大統領との二つのこの事件の音声アーカイブを聞く機会があった。特に、この上院はこの会話の中で、州での白人至上主義KKKのこの事件を否定している。KKKはいないと。ジョンソンは、この中で白人二人(ユダヤ人)の親がFBIのトップ、attorney generalに会いにきた。大統領の私にも会いにくると。メディアにも動いていると。これが州の事件にとどまらず、連邦政府全体の公民権の問題になり、FBIが出動。ニューヨークのユダヤ人家族が行動したことにより、1964年7月2日に公民権法の動きや参政権(1965)にも進んでいた。
この事件はcodenamed(暗号名) Miburnというと。
「Freedom Summer」という人種平等会議(SNCC)をはじめとする公民権団体が立ち上げた3ヶ月間の運動である。ミシシッピ州でできるだけ多くの黒人に投票登録をしてもらうための運動。1964年6月21日、ミシシッピ州出身の21歳の黒人ジェームズ・チェイニーと、彼の白人同僚2人(ユダヤ系ニューヨーク出身の20歳のアンドリュー・グッドマンと24歳のマイケル・シュワーナー、)が、スピード違反だとして逮捕される。その後、釈放され、殺された事実解決をもとに、映画が成り立っている。
再度書くが、この映画は事実を踏まえたフィクションである。でも、私にとって不信なことがある。監督はUKの人であるが、米国の文化にどれだけ精通しているか皆目検討がつかない。しかし、この映画の中での南部の黒人の動きはどうなっているんだ。公民権運動は始まっていて(検索結果をのせる)、黒人は見ているだけでなく、どこの州の黒人も行動しているのだ。この映画だと、受け身で、白人の言うことを聞いている黒人を描いている。おかしいねえ、何がそうさせたのか?当時白人至上主義者は南部なら特にどこにでもいたはずだ。下記の公民権運動は黒人が中心になっているのではないか。
1955-1956: Montgomery Bus Boycott
1957: Little Rock Nine
1960: Greensboro sit-ins
1961: Freedom Rides
1963: Birmingham campaign
1963: March on Washington
1964: Civil Rights Act of 1964 - Legislation that outlawed discrimination based on race, color, religion, sex, or national origin.
それはさておいて、私はFBIのボスMr.ワード(ウイリアム・デフォー)とアンダーソン(ジーンハックマン)のこの問題解決や態度の違いを少しだけ書きたい。二人は全く違うタイプ。ワードは三年間司法省で働いたエリート。アンダーソンが『ケネディ・ボーイか?』とからかったが、この言い方はシェリフがアンダーソンを『フーバー・ボーイ』と言う言い方と同じで、南部の使い方だと思う。シェリフの事務所を訪ねている時、アンダーソンは保安官ペルPell(ブラッド・ドゥーリフ)に対して、南部の理解不明(You backwood , shit-ass you検索で、南部の田舎者を軽蔑した言い方だ)な言い方をする。そしたら、シェリフ(Gailard Sartain)がすぐ出てきた。シェリフはすぐに南部のものが来ているのを認識したから。これが南部の変な連帯意識だと思う。
南部のミシシッピーはミシシッピーのやり方がある。司法省出の正統派には通用しなそうだと視聴者に思わせる。これからあと、食堂に行くが、ワードは空席を見つけてそこへ。アンダーソンの表情が全てを物語っているが、ワードは黒人の席で、若い黒人の男性に質問を仕掛ける。黒人の男性は迷惑そうに席を立つ。私はこのシーンをハラハラしてみていた。だって、こんな現場を作ったら、この黒人は殺されるよと思った。ワードは郷にいれば郷に従えではなく、エリート・ナイーブで南部でワシントンDCにいるのと同じに行動している。コメディのようにこの二人のいがみ合いを滑稽に表して、エンターメント性を強めているのかもしれない。
好きなシーンが多い映画だが、もう一箇所だけ大好きなシーンをかく。父親から、アンダーソンは学び、反面教師になったいい例の会話がある。これがアンダーソンの父親なんだ。その、父親を見て育ったから、アンダーソンは正義感が強くなったんだと理解できるシーンだ。 奴隷制度とその後のジム・クローなどは白人が不可思議な優越感を持ってしまった。アンダーソンの父親がいい例であって、"If I wasn't better than a Black man, who was I better than?".この恐ろしい言葉に象徴される。自分を正当化するため、「黒人よりマシでなかったら、誰よりマシなんだ」と言う言葉になって現れる。息子のアンダーソンは父親が父親より成功している黒人のロバ?を殺してしまったと確信している。アンダーソンは続ける、父親は黒人に対する憎しみに満ち溢れていて、貧しさが自分を苦しめていることに気づいていなかったと。誠に、人種差別の根本をここで表している最高のシーンだね。
この映画全体は、人種差別の根源を理解しているミシシッピ州出身のアンダーソンと、北部のエリートであり、四角四面のボス、ワードの視点と行動の違いがはっきりわかる映画になっている。好きな映画だ。
【”法の下の平等とは何だ!”今作は名匠アラン・パーカーが1964年、ミシシッピーの白人至上主義思想に染まった町で起きた事件を基に描いた二人のFBI捜査官が”悪”を追求する社会派映画の逸品である。】
ー ご存じのように、KKK(三角とんがり帽子を被る、白人至上主義者団体)は、1960年代のアメリカ南部に蔓延っていた狂信的な団体である。彼らが憎んだのは、この作品でも首謀者である実業家タウンリー(スティーヴン・トボロウスキー)が言うように、黒人であり、ユダヤ人であり、東洋人であり、”彼らに与した白人”である・・。-
■1964年、ミシシッピー州の白人至上主義思想が蔓延る小さな町で3人の公民権運動家が姿を消した。
FBI捜査官のアラン・ウォード(ウィレム・デフォー)とルパート・アンダーソン(ジーン・ハックマン)が派遣されるが、彼らを待っていたのは敵意に満ちた町の白人の人々だった。
そして、白人の目を気にしながら目立たない様に暮らす黒人の人々は口を閉ざす。
二人は度重なる捜査妨害に遭いながらも、事件の真相に迫って行く。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
・FBI捜査官の若くも冷静なアラン・ウォードを演じたウィレム・デフォーと南部出身のルパート・アンダーソンを演じた笑顔を浮かべながら、対象に近づき一気に表情を豹変させ追い詰めるジーン・ハックマンの演技に魅入られる。
・二人は、捜査手段は違えど想いは同じである。アラン・ウォードはあくまでも正攻法で、ルパート・アンダーソンは魅力的な笑顔で、複数の黒人たちから真実を聞き出し、容疑者であるクリントン・ペル保安官補(ブラッド・ドゥーリフ)の妻ペル夫人(フランシス・マクドーマンド)とも親しくなっていくのである。
・町長ティルマン(R・リー・アーメイ)は、全てを知って居ながら、見て見ぬ振り。それは、町を牛耳る白人至上主義者事業家タウンリーが、KKKの幹部であるからである。
・冒頭の、3人の公民権運動家が乗る車が謎の車に追いかけられ、ドアから首を突っ込んできた男フランク・ベイリー(マイケル・ルーカー)が、ニヤ付きながら”ニガーの匂いがするぜ。”と言いながら銃口を向けるシーンからして恐ろしい。そして、3人は”行方不明”になるのである。
・ルパート・アンダーソンがペル夫人(フランシス・マクドーマンド)を訪問した後に、言った言葉が印象的である。”あんなに聡明な夫人が何故・・。”彼女は、夫クリントン・ペル保安官補のアリバイの重要な存在だったからである。
だが、徐々にペル夫人は、“憎しみを信じてしまう・・。”と語り始めるのである。この辺りの彼女が逡巡する姿を若きフランシス・マクドーマンドが、抑制した演技で魅せるのである。
・徐々に二人は容疑者たちに罠を掛けて行く。事件に関わったレスター(プルイット・テイラー・ヴィンス)が自白したように見せかけ、愚かしきKKK達は”彼らに与した白人”とみなし彼の家に銃弾を撃ち込み、彼を吊るそうとするのである。
・更には、ペル夫人が到頭、真実をルパート・アンダーソンに告げる。だが、彼女は夫たちに酷い乱暴を受け、入院してしまう。
■ルパート・アンダーソンが単独でクリントン・ペル保安官補たちが集う場に出掛けて行き、笑顔から表情を一変させフランク・ベイリーの股間を掴み上げるシーンや、クリントン・ペル保安官補が床屋で髭を剃って貰っている所に行き、床屋の代わりにペル保安官補の髭を”剃るシーンのジーン・ハックマンの迫力は見事である。
・最終盤、夫が逮捕され家が滅茶苦茶になったペル夫人を心配になり訪ねるルパート・アンダーソンと彼女の会話には、救われる気持ちになる。二人はすっきりとした笑顔で話しながら別れるのである。
<そして、二人は執念の元に首謀者である実業家タウンリーを筆頭に、事件に関わった愚かしき者達を次々に検挙するのである。
首を吊った町長ティルマンの姿を見て”見て見ぬふりをするのも、同罪だ。”と言い放つ捜査官の言葉は、現代日本でも起こっている苛め、虐待を知りながら声を上げない人達にも、当て嵌まる重い言葉であると思ったモノである。
今作は名匠アラン・パーカーが1964年、ミシシッピーの白人至上主義思想に染まった町で起きた事件を基に描いた二人のFBI捜査官が”悪”を追求する社会派映画の逸品なのである。>
差別主義者は悪口や迫害しかやることがないのでは
今作に出てきたKKKのような差別主義者は、人生においてやることが、悪口や迫害といった行為しかないのだろう。作中のFBI捜査官の台詞に「黒人を憎んだおやじの本当の敵は貧乏だった」とあるように、そうなる要因の一つが貧困にある。
金も教育も無い。そのため特に能力や知識も無いので、人生においてやりたいことも無いか、もしくはできない。閉鎖的な田舎では、人生の先も見えているので、現状を打開していく気力も湧かない。黒人がいると仕事の競争相手が増えて自分達の仕事が無くなる恐れもある。そういったフラストレーションを、黒人に対する差別という形でぶつけるしか無いのだろう。なぜなら、仕事、家族や友人といった人間関係、または趣味などが充実していれば、そのような行為に費やす時間は無いはずだからだ。彼らはまず、自分の人生を充実させようと努力する必要があるんじゃないか(自戒の念も込めて...)。
黒人差別の歴史は、多少の嫌がらせ程度のものではなく、命の危険に晒されるレベルだったと知っていたが、今作はそういった差別を映像化してくれた点で貴重だと思う。
観るのが辛いけど大切な作品
1960年代のミシシッピ州での黒人差別の実話ベース作品
このテーマの作品は本当に観るのがしんどいです
日本では昨年末公開の「TILL」程ではないですが、観てるのが辛いシーンがありました
実際の差別はもっとひどかったのでしょうけど
黒人の人達についての白人の人達のコメントがひどすぎました
環境が人をつくると思うし、差別が当然という中で育ってきたらそうなるのも仕方のない事なのかもしれません
住人だけじゃなくて、保安官や判事も差別主義者、判事までが差別をするという事に本当に驚きました
逮捕されても軽すぎる刑に虚しさだけが残り、希望が見えるラストでありながらも、まだ差別と戦っていかないといけない事が想像できました
そんな差別主義者と戦うFBI捜査官役にウィリアム・デフォーとジーン・ハックマン
エリートではない叩き上げの捜査官にジーン・ハックマンがとってもはまっていたと思います
観て楽しめる作品ではないけど、観るべき作品で観て良かったです
白人至上主義
今見たら、また違う感想を抱くに違いない。
でも、もうその気になれない。
当時、映画といえば、純粋な娯楽作品が絶対条件で、自分にとっては、スピルバーグやルーカスのフィルムがそれであった。
ヒーローが悪を倒し、カッコよく去っていく。思えば、そんな映画ばっかり、いったい何本見たことか。
やがてスピルバーグは『シンドラーのリスト』『プライベート・ライアン』でオスカーを獲得し、今も監督業を続けているが、その作風は大きく揺らいでいる。
人種差別を題材にして、見る人の心を揺さぶるのは、一種の禁じ手なのだろう。誰も何も言えなくなる。もちろんあってはならないことだが、この映画からもう30年近い年月が流れても、未だに白人至上主義がまかり通る社会は、なくなっていない。
きっと、これから30年たっても、人種差別を題材にした映画はなくならない気がする。
『ブレードランナー』が奴隷解放運動を根底に据えたSF娯楽映画であったように、テクノロジーの進化は、人種を開放しない。
アメリカが根底に抱える病理は、もう立派にビジネスとして成立している。
当時はその対象が虐げられる側だったのに比して、今は勝てない相手に対する畏怖の感情が混じっているように映る。
差別があるから、生きていられる人だっているのだ。
同じ血が流れる!! 覆面を被る人間が黒人を襲った惨劇!
1960年代に起きた実話に基づいた
黒人に対する根強い差別が引き起こした事件が描かれていました。
ミシシッピの田舎町に捜査にきた2人の男性
ジーン・ハックマンが自分を甘く見るな!
と敵意を剥き出しにする白人たちに
凄みのある熱い演技でした。
若き日のウィリアム・デフォーもエリートの
捜査官を好演していました。
白人男性の妻、ベル夫人が供述した
旦那と一緒にいた50分のアリバイをどうやって崩していくかがポイントとなっていました。
教会で祈りを捧げる黒人たち
無抵抗な人間にされる暴力的な仕打ち!
火で焼かれる建物!
首からロープで吊るされた男性。
数々のリンチから黒人を救おうとした
捜査官の懸命な尽力は、賛えたいと思いました。
銃を頭に突きつけられる場面は恐怖を憶えました。
歴史に名を残す、忘れてはならない事件だと
思いました。
所詮人間って・・・
数十年ぶりに観て改めて深ーく考えさせられてしまいました。
この映画に登場する地元警察や住民に生々しく描かれている人間の醜さ、残虐さ、弱さ、エゴを見るにつれて、怒りがこみあげてくると同時に自分が同じ人間であることがなんだか辛く、虚しく感じられてきてしまいました。
今から60年ほど前にアメリカ南部で起こった事件がテーマですが、その当時はアメリカではある意味必然的に起こっていたであろうこのような悲惨な出来事も、人種差別は社会悪の代表格として撲滅が叫ばれ続け、状況は大きく改善されているはずなのです。が、今日でも一連のBLM問題にみられるような黒人への差別、虐待のニュースが後をたってません。実態は何ら変わっていないんですね。これだけ文明が発達し善と悪の区別くらい誰にだってつきそうなものなのにいまだに世界各地では時代錯誤な残虐で不毛な戦争が進行し人々の命が奪われ、身近な学校や職場や家庭で壮絶なイジメや虐待が行われそれを苦に命を落とす人が後を絶たない。
所詮人間って他人を傷つけあわないと生きていけない生き物なんでしょうか。私は性善説を信じて生きてきたつもりなんですが、なんだかその信念が揺らいでしまいそうです。アラン・パーカー監督の卓越した演出力の効果もあるものの、この映画が実話をベースにしていることを考えると現状が重く私にのしかかってきてしまいます。
この映画のキャストや見せ場についていろいろ語ろうと思っていましたが、前編でしんどくなってしまいましたので、このへんにしておこうと思います。うざいレビューになりすんません・・・
反吐が出る世界
見て見ぬふりをすることでどのみち有罪
ウィレムデフォー演じる若いFBI
揺るぎない信念で、ミシシッピーの根深い差別に端を発する殺人事件を解決していく。
彼の揺るぎなさ、カッコいい。こんな人が目の前にいたらついて行くと思う。ジーンハックマンの経験嗅覚正義感も熱い。フランシスマグドーマンもとても良い。
60年代。有色人種は、バスもレストランもトイレも別、こんなベタな差別が当たり前であっだことにいまだに驚くが、選挙権があってもトイレは一つになっても、大局的にいまだに大して変わらない状況もある。
映画としてのドキドキ感も半端なく素晴らしい作品。見たつもりでいたが、見ていなかった、、これを見ないで今まで生きてきたことを恥じる気持ち。
見て見ぬふりをしていることも加担していることになり迫害や虐殺や暴力を働く者たちと同じ有害なのだと。
そして、白人至上主義者が有色人種に向ける憎しみをみて、白人至上主義者に強い憎しみを感じる、この憎しみの連鎖をどうすることもできないという意味で絶望を感じる。
自分が小学生の頃アメリカ南部ではこんなことが起こっていたとは
舞台は1964年のアメリカ南部。1964年といえば東京オリンピックが開催された年。陸上ではアメリカの黒人選手が大活躍したのを覚えている。そんな頃、アメリカ南部ではまだまだ黒人への人種差別が凄まじかったというストーリーに衝撃を受けた。
正にブラック・ライブズ・マターそのものです
BLMとは何か?
黒人の命も大事?
そんな甘い日本語訳では何も伝わらない
「黒人の生死に関わる問題」なのです
本作は理屈などでなく、一発でズバリその本質を雄弁に映像で分からせてくれます
1964年に米ミシシッピ州フィラデルフィアで実際にあった事件をモチーフにしています
その田舎町は、隣のアラバマ州バーミンガムから約260キロほど西にあります
バーミンガムは黒人の公民権運動に関心のある人なら誰もが知っている街です
なぜなら、本作で扱われる事件の前年1963年春の「バーミンガム運動」があったところだからです
あのキング牧師が指導し、市の差別的な法律を変えさせた非暴力運動です
マスコミの注目を引きつけたことで、この運動は全米的な力を生み出したのです
何度も台詞に登場するNAACPとは、全米有色人地位向上協会とのこと
SCLCとはキリスト教指導者会議のこと
後者はキング牧師の組織です
本作はその事を知っていれば、より深くなぜこのような事件が起こったのかが理解できると思います
序盤、FBIの捜査員の二人は車でミシシッピ州の州境を越えます
ワシントンからは約1450キロ、その道は途中バーミンガムを通過します
「ようこそモクレンの里、ミシシッピ州へ!」と看板が道端にあります
モクレンの花言葉「高潔な心」
なんという皮肉であるかかが次第に明らかになります
劇中で、7歳の頃にはもう差別が当たり前の事になっているという台詞があります
因襲の世界です
差別をする大人達は当時20代としても、2020年の今は80代です
世代は入れ変わっているはずです
最後に移される三人の犠牲者の墓石には、「1964年忘れまじ」と碑文が彫られてあります
しかし、その上部はハンマーで破壊されたらしく、辺りに欠片が散らばっています
つまり差別の因襲の根は深く、裁判で犯人達が有罪になったところで変わってはいないのです
それでもラストシーンの葬儀には黒人だけでなく、白人の若者達の顔がチラホラと混じっています
古い因襲はこの若者達の世代になればきっと消え去っている、そのはずだった
本作の公開は1988年
事件から34年が経っています
世代は変わりました
ラストシーンの白人の若者達は、本作でのKKK 団の連中と同じ年頃の中年になりました
表面的な差別は消えた
でも本当に消えたのか?
それが本作のテーマです
冒頭の水飲み場のシーン
一本の給水管が二つに別れ、左は白人専用のウォータークーラーに繋がっています
右は有色人種専用で、ただのみすぼらしい蛇口なのです
このような目で見える差別はもう消えました
でも目に見えない形で残されているのではないのか?
同じ人間に産まれても、人種によって人生が異なってしまう
人生の可能性、機会の平等は、実は目に見えないこのような水飲み場のようになってはいないのか?
それを本作は訴えているのです
そして21世紀の2020年
本作公開から32年が経ちました
本作の事件と本作公開との間とほぼ同じ歳月が過ぎました
また一つ世代が変わったのです
事態は改善されたのでしょうか?
古い因襲は消えたのでょうか?
答えはブラックライブズマター運動です
変わっていない
むしろ後戻りしているのです
時間が解決する?
そんなことは嘘だったのです
世代が変わっても解決されなかったのです
その絶望はとてつもなく深いのだと思います
いまこそ本作を観るべきです
差別したほうが都合が良いと判断した政治家・教育者・宗教者によって差別意識は刷り込まれる
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