青の稲妻のレビュー・感想・評価
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改革開放の裏側ーー変化の時代の犠牲者を描く切ない傑作!
2001年の中国、山西省大同。19歳の無職の若者2人が「自由な世界なのに、未来が見えない」ともがく姿を描く作品だ。
セリフは少なく、言葉からわかることはすごく少ない。しかし、映像の中には、登場人物が暮らす世界はどういうものか、そこで彼らはどんなの葛藤や迷いがあるのか……などが巧みに埋め込まれている。観客が受け取れるものはものすごく多い。無口なのに饒舌な映画なのだ。
クレジットにオフィス北野が入っていた。北野武監督作品とも共通するミニマリズム的表現の余白に、どんどん自分の気持ちが入っていってしまう。
ジャ・ジャンクー監督のインタビューによると、初めて見た北野映画は「あの夏いちばん静かな海」だそうだ(この名作、配信で見られないようだ。レンタルで探して欲しい。自信を持ってお勧めできる)。ジャンクー監督は、欧州で高く評価された初期北野映画のフォロワーでもあると見て良さそうだ。
ジャンクー監督が凄いのは、「なぜこの人はこうなのか」を、人物が置かれた生育環境や社会状況とつなげて描き出すことだ。人は自分の自由意思で決めているつもりでも、その自由意志の多くの部分は、周囲の影響から構成されたものだ。
ジャンクー監督の多くの作品、そして本作でも、登場人物を追いかけると、彼らの自由意志を形作った社会が見えてくる。だからこそ、フィクションにも関わらず当時の時代と場所の貴重な記録映画にもなるのである。
本作の時代と場所、それと登場人物がどう繋がっているかを考察してみたい。
時代は2001年ごろだ。
1980年ごろから改革開放政策によって、経済的には自由な社会になった。自由というと聞こえはいいが、計画経済がうまくいかないからの選択だ。つまり自由にしたのではなく「自分の力で生き延びろ」と国民を放り出してしまったのだ。「稼げる人間こそがいい人間だ」というメッセージとともに、タフで自由社会になった。
簡単には稼げないのに、拝金主義がはびこっている。映画の中でも、無職の若者の溜まり場で、雑談をしていただけなのに「いい話を聞かせたんだから、アドバイス料金を払え」という人物が出てくる。「とにかくカネ」の世界であることが伝わってくる。
二人の主人公の青年、シャオジイとビンビンは19歳。〝自由〟な時代に変わって生まれた初めての世代だ。1980年の若者を描いた前作「プラットフォーム」の登場人物たちの子ども世代である。
文化大革命を知る世代と、知らない世代の価値観は全く違う。親は自分のロールモデルにならない。話も合わないし、彼らのアドバイスは束で、自分を助けてくれるものではない。家庭の中でも、若者も親も孤独なのである。
場所は中国北部の山西省大同。かつては炭鉱の町として栄えたが、掘り尽くしてしまい、街の産業はない。シャオジイもビンビンも飲食の手伝いなどの仕事に満足できず無職である。銀行強盗を企むが、計画はあまりにずさんだ。夢もないけれど、堕落する生命力やたくましさもない。
主人公の一人ビンビンは見るからにさえない若者だ。仕事が続かず、実家暮らしで母親に金をせびる。そんな彼が見つけた突破口が軍隊入隊だ。覚悟を決めたのだ。
入隊試験には若者が殺到している。仕事がないのはみんな同じ。ビンビンは健康診断で肺結核が見つかり、未来は閉ざされてしまった。
そんなビンビンにも彼女がいた。しかし、彼女は大学入学を目指し、受験に成功する。ビンビンは餞別に携帯電話をプレゼントする。これは切ない。もう二人の間に未来はないと直感している。多分電話はかかってこない。それでも贈りたかったのだ。
彼女とラブホテル代わりの部屋で歌った思い出の歌「任逍遙」がこの映画の原題だ。直訳は「自由にさすらう」となるが、古代中国の道家思想に由来する言葉で「運命を受け入れ、心は自由に保つ」という意味となるそうだ。未来の希望が見えてこないのに、この東洋的悟りの心境を得るには一生かけることになるだろう。映画終盤で、ビンビンが再びこの歌を歌う場面にその切実さが表現されていた。
この場面に、最初のスターウォーズでルークが夕日を見つめる歴史的名場面を思い出した。僕が(多くの当時の若者も)数十年スターウォーズを追いかけることになるのはこの場面があったからだ。「どこにもいけない・自分に未来はない」という切実さが自分のものでもあったからだ。
ビンビンはどんな人生を送るのか…。中国で公開されていれば、各作品が緩やかな大河ドラマにもなるジャンクー作品を見続けることになったはずだ。しかし、本作は中国の検閲を受けてないそうだから、中国の若者は見ていない。本当にもったいない。
もう一人の主人公シャオジイは見るからにクールでかっこいい。人気俳優かと思ったら、なんと素人だ。監督が、本当に無職の彼を大同のバーで見つけたのだそうだ。
危険な魅力のある彼が、年上のダンサー・チャオチャオに惹かれ、そして姉妹のような絆を結んでいくのがサブプロットで、これが本作を圧倒的な魅力を付け加えている。ここに共感するには、一人っ子政策の時代だから、誰もが兄弟がいない世界の物語ということを思い出さないといけない。
ダンサーのチャオチャオを演じるのが、その後、数々のジャンクー監督の作品のミューズとして出演することになるチャオ・タオだ。当時の資料には、映画出演は、前作「プラットフォーム」と本作の2本のみとある。そして本作撮影当時は教師であった。その後ジャンクー監督と結婚している。
映画の中ではダンサーと言っても、商品の宣伝のために踊るダンサーだ。芸術なんて言ってられない。とにかくなんとかして稼ぐためにやれることをやるしかない世界だ。恋人はマフィアというかギャングのような男だが、どんなに抑圧されていても、捨てられたら生活していけないかもしれない。彼女もまた生きづまっている。
本作の登場人物たちはみんな未来が見えていない。その理由は、自由な社会になったからであり、そして自由なのに現実的な選択肢がほとんどないからだ。
産業革命もそうだったけれど、社会システムの変化の直後には多くの犠牲者が生まれる。その犠牲の上に数十年かけて、肯定的変化として完成されていく。
その変化のたイミングにあたった人は、その間の人生を生き直すことはできない。年をとってみれば、あまりにも短い人生の、厳しい真実をジャンクー監督は描いている。だからこそジャンクー作品は、心の芯の部分を揺り動かされてしまうのだ。
2001年、中国山西省の地方都市, 若いカップル 2組、特に男子2...
「一瞬の夢」の続編としての本作
「一瞬の夢」「青の稲妻」。この二作品は連作とも言える。何故なら、「一瞬の夢」の主人公、小武のその後の姿と解釈できる人物が「青の稲妻」に幾度も登場するからだ。
「青の稲妻」の冒頭で、主人公の若者は、ある男から仕事の口について情報を聞く。町の金融業者を名乗るサングラスのその男はすかさず「情報料」を請求してくるが、若者がいまは持ち合わせがないというと、その一言だけで金の回収を諦めてしまう。何とも中途半端で、本気で請求する気があったのか、冗談だったのか良く分からないまま映画は先へ進む。
その後、この男が公安に逮捕されるシーンがある。本人も周囲もたいして騒ぐ様子がない。しかも、しばらくすると何事もなかったかのように、また若者たちや観客の前に姿を現すのだ。まるでトイレにでも行っていたかのような、至極当然な顔をして戻ってくるのだ。
主人公の若者らは男のことを「ウーさん」と呼んでいる。
さえない若者を相手に金をせびり、しかもそのことを容易く諦めてしまう根性のなさ加減。当たり前のように逮捕され、また当たり前のように町に現れる。これが「一瞬の夢」の主人公・小武その人でなくて誰であろうか。
映画の終盤、主人公がおそらく海賊版であろうビデオソフトを自転車に載せて売り歩く。そこへ「ウーさん」が買う気も無さげに、「一瞬の夢は?プラットホームもない?学生相手にその品揃えはないだろう」と絡むのだ。
「ウーさん(を演じたワン・ホンウェイ)」にしてみれば、かつての自分の主演作が未扱いなのは我慢ならないという、二つの映画の世界が一続きとなるギャグとなっている。
ギャグと言えば、「稲妻」の爆弾を腹に巻いて銀行強盗に臨んで手にはライターがないというオチと、「一瞬」の不意に鳴ったポケベルのせいでスリに失敗してしまうことは、二つの映画の終盤のプロットが似ていることを気付かせる。
つまり、この若者も結局は「ウーさん」並の小さな犯罪を積み重ねて生きていく男になることが暗示されている。
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