「完全被甲弾」フルメタル・ジャケット parsifalさんの映画レビュー(感想・評価)
完全被甲弾
フルメタルジャケット→完全被甲弾。鉛剥き出しの弾は、人体に入ると変形が大きく、深手を与えるので戦場では、完全被甲弾を通常使用するということらしい。自分が、この演題から受け取ったのは、戦争のために洗脳を受けて、強靭化することで、人間としての変形を小さくするというイメージだ。封切りされて鑑賞して以来、2度目の鑑賞。
前半、新兵になるための訓練は、人間性の破壊だ。指導官のハートマンのしごきは、徹底的で、その罵詈雑言は、性的な言葉のオンパレード、家族を辱め、原初的な生存欲求が剥き出しの状態になるように仕組まれているかのようだ。デブのレナードが、皆に遅れをとり、面倒を見てくれたジョーカーにも見捨てられ、狂気の眼を宿していったのが一つの見所だった。精神がメタルジャケットを帯びることができず、人間性のコアな部分まで、破壊されてしまったのだろう。
後半は、一転してベトナム戦争の現地の生々しい現実が映し出される。まるで、ハートマンの罵詈雑言をそのまま映し出したかのような戦地。兵士同士の会話も現地人との出来事も、性的、暴力的なウィットとジョークのオンパレード。米国で恵まれた生活をしている国民が、ベトナムで戦うためには、あのような訓練と罵詈雑言が必要だったという感じがした。
そして、戦闘シーンは、遠くから攻撃してくる南ベトナム兵との交戦シーンばかり。他のベトナム戦争と違って、肝心の相手の姿や表情は、ほぼ描かれない。見えない敵が、いつ銃撃し狙撃してくるかわからず、怯えながら進む。次第に罵詈雑言やジョークは影を潜めて、兵士たちの現実的な言葉が交わされるようになっていく。
フエ市への侵攻の場面、進路を間違えるというヘマをして、進路変更のため偵察に出たエイトボールが狙撃され、助けに出た兵も同様に。前進して無線連絡をしようとした所でカウボーイも狙撃され、相手にお礼参りをしようと建物に乗り込む。ジョーカーが相手と対峙するがライフルが弾切れ。味方の兵が相手兵を射撃したら、狙撃兵は綺麗な目をした若い女一人だった。ベトナム兵は、家族や知人が殺され、自分らを守るため、相手への憎しみを募らせて戦っている。米兵のようなフルメタルジャケットを帯びる訓練など必要がない。
かたやどんなに訓練をして前線に送られても、米兵は相手に怯え、一人の命を助けるために味方が助けにいくという戦い方の違いが対照的。ベトナム兵と比較して、決死の覚悟がなく米兵の脆弱な感じが透けて見える。
最後、ジョーカーが狙撃兵を殺したのは、殺戮者と平和を望む二面性を残した彼だったからこそ、相手に対する情けだったのだろう。彼は、自分の人間性を保っていたのだ。最後、ミッキーマウスの歌を歌いながら行進して終わる。これもフルメタルジャケット、人間性を守るための行為ではないだろうか。
この映画、とかく前半の訓練所のシーンが話題になるが、後半のシーンを、前半とどう絡めてどう解釈するかが、キューブリックの言いたかったことだろうと思う。現段階で、自分が読み取ったことは以上に述べたことである。
「時計じかけのオレンジ」、「シャイニング」に比べると、ちょっと大人しく感じたのは、他のベトナム戦争の映画を見慣れたせいかもしれない。「地獄の黙示録」と並んで、戦場で戦うためには狂気が必要だという意味では双璧の映画かと思う。