ファイト・クラブのレビュー・感想・評価
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男性の(性)が安寧の社会で暴発するエキセントリックな映像世界の魅力と恐怖
「セブン」のデヴィッド・フィンチャー監督とブラッド・ピットが5年振りに組んだ問題作で、原作のチャック・パラニュークの小説は現代アメリカ社会の一局面を表して好評とのこと。この映画を観てまず感じるのは、ジェネレーションXと言われる1960年代生まれの世代意識が色濃く反映されていることである。監督フィンチャーと原作者パラニュークが1962年生まれ、撮影監督のジェフ・クローネンウェスも1962年で、主演のピットがひとつ若い1963年生まれだ。紅一点のヘレナ・ボナム=カーターが1966年でもう一人の主演のエドワード・ノートンがギリギリ1969年生まれと、スタッフ・キャスト共に若い才能で占められている。つまりこの映画の、今30代を迎えたアメリカ人が抱える社会に対する価値観のひとつの特徴を、特に男性の(性)の視点からエキセントリックに且つ切実に表現しているところが興味深い。戦後の目覚ましい経済成長からの安定期に生を受け、物質的には満たされて恵まれた成長をしてきた世代であり、戦争や貧困を経験した上の世代から見れば羨望の対象にいるはずだ。しかし、人として男として生き甲斐を感じられているかとなると疑問が残る。男性の(性)にある攻撃的で自虐的、縦社会の序列に身を置き競争心を掻き立てる性分が、安寧の社会で満たされるのだろうか。全ての男性がスポーツやゲームなどでその欲求不満が解消されれば問題は起きないのかもしれないが、一歩踏み外すとそれは危険な領域に入ることを、この映画は教えてくれている。 主人公は知性豊かなヤング・エグゼクティブで、不眠症でなければ極普通の恵まれた青年である。しかし、ストーリーが進んでいくと共に、この人物の不可解な行動でその精神が病んでいることに気付く。演じるのが今若手ナンバーワンの演技力の持主エドワード・ノートンだから、最終的に観客は主人公のパラノイアにまんまと騙されしまう。特に不平不満があって社会にアピールする必要がない今の若者らしい特徴的な好青年と見せるが、外見だけでその人を判断してはいけないと改めて思わせる。その主人公が理想とする男性像タイラー・ダーデンをブラッド・ピットが完璧な外見として演じている。フィンチャー監督自身、役者ブラッド・ピットに惚れ込んでいるのが判るくらいの演出だ。映画の面白さはエドワード・ノートンの名演で完結しているが、このタイラー役はブラッド・ピット以外の俳優では考えられないし、有り得ないと断言してもいい。人気スターが本来の主役で使われなくても価値があるなんて他にあるだろうか。 この映画の成功は、社会学上のある世代が持つ価値観の考察を、男性の(性)に焦点を絞りテロリズムという最悪の結果に集約した原作の独創性と、それを架空の映像空間にシンボライズした演出の大胆さにある。そして、その一人の主人公の精神と肉体を演じ分けたノートンとピットの俳優としての存在感が圧巻であった。映像では、タイトルバックのCGが素晴らしい。脳内部の拡大ショットから銃口までの音楽と調和した流動のモンタージュ。男同士上半身裸で殴り合う格闘シーンの迫力も凄い。血と汗にまみれて悶絶するまで相手を追い詰めていくショッキングな生々しさ。その行為によって脳内快感を得て生きる喜びに転化する男の(性)の不可思議さ。ラストシーンの現代の社会構造の象徴である高層ビル群が崩壊していく映像の美しさも、表現として不適切だが印象に残る。 1960年代最後の若者の抵抗「いちご白書」は眼に見える外に対するベクトルだったが、30年後の若者は自己改革の自分に向けたベクトルに代わった。肥大化し暴力化したら、目に見えないだけに怖いものがある。この作品は、悩めるジェネレーションXの「精神白書」といってもいい。パラニュークとフィンチャーとピット、そしてノートンによる90年代のアメリカ映画を代表する傑作であると評価したい。 1999年 12月15日 思い起こすと、日本ではオウム事件の時に思った内容と似ています。なぜ高学歴の分別のありそうな人たちがテロリストになったのか。宗教の問題は複雑で論じることは避けたいですが、精神的な満足感の追求には違いないと思います。そして、大きな戦争から分散したテロリズムに変化した時代の流れを痛感します。
「ヤバイ」映画
言葉が出てこない…。とりあえず、「ヤバイ」ものを見てしまったという感覚が確かに残っている。 心の中に「今のままじゃ嫌だ」という反骨精神がある人は多いはず。でも、繰り返される日常に慣れてしまいその気持ちが奥底に沈んでいる人も多いはず。その気持ちが火山の噴火の如く溢れているのがこの作品だと思う。僕はこれをみて自分の忘れていたものを思い出すことができた。 ただ、この作品は「劇薬」ゆえ、鑑賞の際はご注意を…。
はじめは暴力と犯罪ばかりで何でこんなに 評価が高いんだろう?って思...
はじめは暴力と犯罪ばかりで何でこんなに 評価が高いんだろう?って思ってたけど 後半ひっくり返されてパニック。 どう解釈すればいいかわからなくて 解説を読んでなるほどねってなったけど 時間置いてもう一回みようと思った! それでも宗教じみてちょっと怖かったし 落ちることによって生きてることを感じるってのも 共感はできなかった。。
やはり肌に合わない
二度目の鑑賞。 やはり男のエゴ映画だなと思った。 強さだけが正義みたいな。 だからああいうラストシーンになるわけだしね。 もちろん、タイラーダーデンのひとことひとことが素晴らしいし、刺さるしかっこいいってのはあるんだけど、うーむ… 万人うけするようにできてないから仕方ないか ただ、わたしも一回死んだ気でこれからの人生生きたいし、消費生活とも手を切りたいとは思います もっと繊細な映画が好きなのです。
爆捨離映画
物語は自宅を爆破するところから始まり、
資本主義の権化である、
金融会社のビル群を崩壊させて終わる。
人生を変えるために、
石鹸を爆弾に変えたタイラーダーデン
現状を変えるためには、
ないものをねだるよりも、
今あるものを起爆剤にして、
突破口を開けろ。
そんなメッセージを語られたような
物質主義への嘲笑?
あぁ、もう20年も前の映画なのか。そりゃ少年もおっさんになるよな。 あの頃はケータイもまだそんなに当たり前じゃなくって、 もちろんスマホもSNSもなく、消費のあり方ってのはだいぶ多様化してきた。 でも、それでも変わらない本質というか、 「自分」の生き方ってなんだ?っていう強いメッセージを突きつけた作品だと思う。
こんな結末は支持できません
なんでも頭がおかしい、精神のせい、そんなことを前提に物語がつくられると、是に限りませんが、何もかも無意味で、詐欺にあったような気持ちになります。 だから、こんな映画は好きではありません。
夢の中の妄想のような映画
想像以上にぶっ飛んでた内容。予想していた内容とは違っていた。
もう少し純粋にファイトするクラブの話かと思ってたけど、主人公の人格解離して、暴走していく話でしたね。
正直、中盤あたり、というかかなり序盤から、サイコじみた主人公設定なので、実は人格が違うだけ、という展開は読みやすかったです。
あまりにリアリティがないので、主人公の内面世界の妄想の話という方があってると思います。この映画の内容全てが、夢の中の妄想劇。そういう解釈の方がしっくり来ます。
自分で自分を殴ったり、ひきづったりとか無理だしね。
きっと、飛行機が墜落して、助かったけど意識昏睡の中、現実世界ではやれなかったことを、夢の中で行なっているんでしょう。
個人的はあまり好きな内容ではない。この映画が好まれる理由はなんとなく分かりますが。要は男の欲望そのものだから。暴力、破壊、セックスだらけ。
平凡な生活ってつまらないよね。
人間安定した職業について平凡な暮らしをしたいって誰しもが思ってるけど、こういうクライム系の映画を観るとそういう価値観崩れるよね。こういう生き方って迷惑だとか悪いことだとか思って嫌う人もいるかもしれないけど少なくとも僕は平凡な生活から抜け出してみたいなぁ。
クレイジー。
今更ながら、初めて観ました。 イかれてる。笑 すっごく良くて、ネタバレしてからのラストはストレートにクソと思いました! 色んな方のレビューを見たら、深い楽しみ方があるみたい。ほぉーー! 私が男だったら、彼らみたいにめちゃくちゃに殴られてみたいと思ったかもね。 女は生きてりゃなんだかんだ滅茶苦茶にされるから、 できるだけ綺麗な格好で居たいと思うものです。 ブラピ、超カッコいいです。 以上!
2度目観たら評価が変わるかも
まだ一度しか観ていませんが、ラストの展開で「えっ!?」と声を出したくらいは驚かされました。伏線を緻密に織り込んだストーリーは見事だと感じました。 ただ、私の理解力にも問題はありますが、ちょっと1回目の視聴だけではよく分からなかった部分もあったので評価は少し低めにしてます。
Fight Club
「二重人格」をテーマに据えた映画が好きで、『複製された男』(2012)や『嗤う分身』(2013)など既に何本か鑑賞しており、どの作品にも共通しているのが、メインの人格が自ら負傷することで第二の人格を殺すことで物語が終わるというもので、本作も漏れなくそのようなエンディングなのであるが、そういった作品と比べて本作はとりわけ血生臭い演出が強く、139分という上映時間も相まって最後まで鑑賞するにはかなり体力を消耗したように思う。
上記2作品と異なっている点といえば、エドワード・ノートン演じる主人公には名前が与えられず、また各人格のビジュアルが異なる点である。モノローグにおける一人称「僕」以外に主人公に名前が与えられないことで彼は「信頼できない語り手」となり、その上ビジュアルも異なれば、観客は「僕」と「タイラー・ダーデン」を全くの別人と捉え、完全にミスリードさせられる。このトリックこそが本作品をより重層化させており、「主人公自身がタイラー・ダーデンであった」という本作品の「二重人格オチ」たらしめている所以である。
「僕」は一流の家具や洋服で虚栄心を満たし、物質的には充足した生活を送っている一方で、精神的には満たされず不眠症を患っている。出張中の飛行機で、自分とは真逆の性格のタイラー・ダーデンと出会い、「ファイト・クラブ」を結成する・・・端的にいえば、タイラー・ダーデンは「僕」の理想像であり、互いを殴り合い、己の「強さ」を誇示する「ファイト・クラブ」は「僕」が失くしていた男性性の象徴である。すべては「僕」自身が無意識に抱いていた欲望の権化であり、それらは「僕」が眠っている間に「タイラー・ダーデン」という名前を持って実体となる。「僕」が不眠症を患い、医師へ「目が醒めると違う場所にいる」と語るのも当然だろう。
過剰なまでの殴り合いやテロの描写から誤解し易いが、本作は決して暴力を賛美する映画ではない。本作における暴力とは、自己滅却を行うことのメタファーである。劇中でも語られる通り「苦痛や犠牲なしには何も得られない」のが常で、「痛みから意識を背け」てはならない。痛みや苦しみを感じながら、生きている実感を得て、肯定する。DVD冒頭に登場するオリジナルの警告文こそが、本作が伝えたいメッセージそのものだったのではないだろうか。
概略
不眠症に悩むサラリーマン、ジャックはある日から重病人が集まるセミナーに参加するようになる。セミナーで涙を流すとよく眠れるからだ。そこで自分と同じように病気のふりをしてセミナーに参加する女、マーラと出会う。
ジャックは出張の飛行機の中で怪しげな雰囲気を醸す石鹸売り業者のタイラーと出会う。彼はとても面白い人だった。
ジャックが出張から帰ると、マンションの自分の部屋が爆破されていた。帰るところを失ったジャックは、タイラーに電話をかける。
そしてタイラーとバーで再会し、彼に泊めてくれないかと頼む。タイラーは快諾してくれた。しかしタイラーは自分を殴れとジャックに求める。訳が分からないが、仕方なく殴る。するとタイラーが殴り返してきてお互いに殴り合いになる。
ルール、破ります。
(7月7日追記 ☆3.5→☆4.0) ミスチルの歌にもなるほどの有名作品。 とうとう観賞。 観賞後、日を増すごとに余韻も強くなり、味が増していく。 まるで、カレー。 人間誰しもが持っている感情を、うまく伝えてくれている。 欲望のままに生きるのか、倫理的に正しいと思う範囲のなかで生きるのか、 どちらとして生きるかは紙一重。 うまく言葉にできないが、素晴らしいこと、そしてfunではなくinterestingであることは断言できる。 「ファイトクラブのことを口外するな」というルールを、少しだけ破ってしまった。
アメリカ的粋の塊
個人評価:4.1 脳内を泥水を撒き散らしながら爽快に進むスタイリッシュな物語。 デヴィッド・フィンチャーのキレッキレなセンス爆発で最高にカッコいい。 ブラッド・ピットもはまり役で、とてもアメリカンな粋をまとっている。 二重人格モノではピカイチ作品。
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