「戦後復興の混迷の中の新任刑事の成長譚にみる、黒澤演出の素晴らしさ」野良犬 Gustavさんの映画レビュー(感想・評価)
戦後復興の混迷の中の新任刑事の成長譚にみる、黒澤演出の素晴らしさ
第二次世界大戦後の映画表現の新境地ではイタリア・ネオレアリズモが最も有名でも、それに準ずるものとしてアメリカのセミ・ドキュメンタリータッチのフィルム・ノワールがあります。これはロシア系ユダヤ人のジュールズ・ダッシン監督の「裸の町」(1948年)に代表されるのですが、遺憾ながら今まで未見におわり、僅かに前年制作の「真昼の暴動」を学生の頃偶然テレビで観て衝撃を受けました。リアリズムとドキュメンタリー手法の違いはあっても、現実をありのままに映し出し、社会に巣食う問題提起に主眼を置く社会派映画としの共通点があります。
この「裸の町」が1948年の12月に日本公開されて、その影響を受けたと思われる黒澤監督が新人脚本家菊島隆三と仕上げたオリジナル脚本が、先ず素晴らしい。捜査一課の新任刑事のコルト式自動拳銃がスリに遭い、それを追跡する中で盗まれた拳銃によって犯罪が連続する。現在では警察官の拳銃が盗まれたらニュースになり警察のスキャンダルとして大々的に取り上げられるでしょうが、敗戦後の貧困の中、物資不足から闇市が蔓延り、スリや強盗の犯罪率が高かった時代では、それほど問題視されていないのが驚きでした。この警察内部の不祥事を発端とする物語のもう一つの特徴は、主人公村上五郎刑事が復員兵あがりの新米刑事であり、彼の拳銃を闇で手に入れた犯人も同じ復員兵であることです。戦争に負けた男たちが焼け野原の祖国に帰ってきて新たな生活を始める。しかも犯人の姉もハルミという恋人も、犯人が道を誤った原因を、全財産が入ったリュックを帰りの汽車の中で盗まれたからだと言い訳するのに対して、村上刑事が俺も同じだと言い切るところに、この作品のテーマがあります。戦争そのものに対する黒澤監督の批判は、荒廃した社会に生きて行くだけでも困難な生活苦の視点から、そんな社会でも正義を重んじなければ戦争と同じではないかと訴えます。一つの拳銃は犯罪を誘発するし、またその抑止にもなる。使い方次第だということでしょう。そして黒澤時代劇の特長である、師弟関係に生まれる精神と技術の伝承という、日本人の最も誇るべき長所をこの物語の中にも美しく描いています。責任感と罪悪感から辞職願を出す村上刑事を思い留まらせる上司中島警部や、捜査の手順や刑事の心構えを伝授する佐藤刑事とのやり取りは、主人公村上刑事の人間性を更に浮かび上がらせる巧みな脚本でした。
終戦後の混乱した社会を写し出した撮影で見事なのは、女スリお銀の助言で村上刑事が復員兵姿で闇市や繁華街をうろつくシークエンスです。ワイプや二重三重のオーバーラップを多用して当時の風俗を克明に描き出しています。猛暑の夏の季節感を強調した演出も捜査の大変さを感じさせて、隠しカメラで撮影した記録の真実味とスタジオ撮影が融合したモンタージュの素晴らしさ。村上刑事の顔のアップも演じる三船敏郎の眼力の強さがいい。そして、闇ブローカーの本多に辿り着き、巨人対南海戦の後楽園球場で捜索するシークエンスでは、私の年代では背番号16番一塁手の川上選手を認識するので精一杯ですが、野球ファンにとっては懐かしさ溢れるところでしょう。試合経過も丁寧に、闇市の暗さとは対照的な、観衆の拍手や歓声を響かせる臨場感の明るさも印象的で、当時の清潔感ある日本人の姿も見られます。夥しい数の帽子と手拭いと団扇と、アイスキャンディー。
「羅生門」以降の黒澤作品を観てきた者には、この時29歳の三船敏郎の演技は、とても新鮮に感じました。まだ演技派ではないものの、演技に取り組む姿勢に誠心誠意を強烈に感じます。それが主人公村上刑事のキャラクターとなって、役柄の感情や価値観が素直に伝わる清々しさ。この生まれ持った精悍な容姿と個性の輝きが、日本を代表する名優になって行くのですから、貴重な一作と言えると思います。ベテラン刑事佐藤役の志村喬は、この時44歳の年齢ながら演技の安定感と貫禄が既に完成されたものを持っています。それが三船敏郎の演技と好対照の味わいになって、日本的フィルム・ノワールの温かさを醸し出しています。しかし、今回最も驚いたのは、このフィルム・ノワールとアプレゲールの悪女を象徴する並木ハルミ役の淡路恵子でした。僅か16歳で大抜擢された、その演技の確信的表現の揺ぎ無さのインパクトは、最近観た「浮雲」の岡田茉莉子に匹敵します。その母役の三好榮子も、小津監督の「お早よう」で知った個性派女優の存在感。意外だったのは、本多のヒモ役を演じた27歳の千石規子です。中年以降のテレビドラマのおっとりした役柄しか知り得なかったために、今作の汚れ役は興味深く観ました。スリのお銀役岸輝子の演技も巧く、調べると俳優座を起こした千田是也の夫人という事でした。桶屋の女将役の本間文子は、「羅生門」の巫女役からその他の黒澤作品と成瀬作品にも出演した名脇役の一人。男優では桶屋のおやじの東野英治郎、レビュー劇場の支配人に伊藤雄之助、演出家に千秋實とお馴染みの名優たちが顔を揃えています。
黒澤演出の見せ場は、ハルミのアパートに村上刑事を残して、佐藤刑事が犯人の宿泊する弥生ホテルに辿り着くも、ホテル経営者の妻の話し言葉で犯人が捜索の手が及んでいることを察知する場面です。階段を降りる犯人と思しき足の動き。電話を掛けるも雷のどしゃ降り雨の音、ホテルの主人とイチャつく従業員が掛けたラジオのムード音楽の音が邪魔をして、通話が思うように出来ない佐藤刑事の苛立ち。二回の銃声が響く受話器のアップ。ヒッチコックタッチを彷彿とさせるサスペンス演出の巧さです。そして、ハルミの改心から居場所を教えられる村上刑事が、駅待合室から雑木林迄追い詰めて手錠を掛けるまでのクライマックス。2人がもつれ合うように格闘するカットは、同じ復員兵の境遇の明と暗を象徴し、戦争で人生を狂わされた人間の姿を強烈に表現します。特攻隊あがりの復員兵遊佐役の木村功が最後数分の登場で、あの「七人の侍」のとは真逆のイメージにメーキャップを施して、悲しい絶叫をしました。この慟哭だけにして、台詞のない遊佐に込めた脚本の狙いとは、色々と考えられる余韻を残しています。撮影中井朝一の構図に凝ったカメラワーク、早坂文雄の映像と対比させた音楽も其々に素晴らしい。助監督は「ゴジラ」「モスラ」の本多猪四郎で、闇市や繁華街の風俗描写の映像を担当した功績は、黒澤監督も認めたと言います。戦後数年での制作でフィルム保存状態は良くないですが、スタッフ・キャストの充実度は傑作の名に値するものであるのは、誰も否定できません。
実際に警視庁の取材を重ねて綿密に脚本を創作した中で、銃弾の傷跡から拳銃を指定するエピソードと共に興味深かったのが、鑑識手口カードのシーンにありました。村上刑事が見つけた女スリお銀の写真で、和服のお銀が村上刑事があった時洋装だったと知って市川刑事が驚くところや、生専門(現金のことか?)がパチンコ(拳銃)に手を出すなんて、だいぶ落ち目だなぁ、の台詞がいい。電車やバスの中で掏るのを箱師と言ったり、カードの中に最近死んだ者がいて、それを部下に手渡すところの表現の細かさにも取材の成果が表れています。