「ゾンビ映画の始祖にして最終兵器! と映画『ミスト』の類似性について考えてみる。」ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
ゾンビ映画の始祖にして最終兵器! と映画『ミスト』の類似性について考えてみる。
はるばる本厚木まで、新宿で見逃してしまった『ジャバーウォッキー』を観に来て、映画が終わったのでさて帰ろうとしたら、15分後に今度は『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』が始まるらしい。
なんか、これは観て帰らないとダメなんじゃないか?
という謎の義務感に駆られて、つい立て続けに観てしまった。
おおお、やっぱり素晴らしいねえ!! マスターピース!!
僕がこの映画を観るのは、おそらく大学生以来だ。
あのころまだDVDはなく、レンタルヴィデオでの視聴だった。
あれに比べたら、今回の4Kリストア版は衝撃的なまでに画質が良くなっている。
アメリカでも、レイトショーで人気が広がっていったと聞いていたから、あのぼやっとした貧乏くさい自主映画みたいな劣悪なモノクロ映像が、いかにもこの映画らしいと決め込んでいたが、どうやらこちらの勝手な思い込みだったらしい。
なんだか、ものすごくちゃんとした映画に「格上げ」になった感じだ。
記憶していた以上に演出は堅固で、カメラワークも堂に入っている。
演技も、女性陣とゾンビ軍団はさすがに素人くさいが、男性陣はけっして悪くない。
特殊効果はチャチいといえばチャチいが、モノクロームと相俟って生々しい。
ああ、全然B級なんかじゃない。れっきとした「古典」だ、これは。
この映画のテーマが、公民権運動と密接な関係があるのではないかという批評自体は、誰しも一度は聞いたことがあるはずだ。
ロメロ本人はそこまで政治的な映画を撮ったつもりはなかったとたびたび言及しているが、たとえそうであったとしても、「その後」のフィルモグラフィを考えれば、彼がある種「政治的な表現者」でありつづけたことは疑い得ない。
ロメロの映画を観れば、彼が社会正義を奉じ、公権力を信用せず、コミューン的な理想に夢を抱いていた人物であることは、そこかしこから、ひしひしと伝わってくる。とくに、『ゾンビ』におけるあのショッピングモールのユートピア描写や、『ナイトライダーズ』のような知られざるコミューン映画の傑作に触れると、切実にそう思う。
ホラー映画は、ロメロにとって、間違いなく社会批評の一手段でもあった。
同時に、彼は「ホラー」であることに、誇りと信念をもって、真正面から取り組んでもいた。
彼は、ホラーを社会批評の「言い訳」「道具」「背景」として、貶めなかった。
全身全霊で、怖い映画を撮ろうとした。
ホラーというジャンルへの「愛」を喪わなかった。
彼はジャンルを裏切らなかった。
真の意味で、「ホラー愛好者」であることと、「社会派」であることを両立し得たホラー監督を、僕はロメロとクローネンバーグくらいしか知らない。
人種問題(公民権運動)への意識の有無に加えて、よく批評家たちによって取りざたされるのは、モノクロームで撮られた本作のニュース・フィルム風映像が、当時の若い観客にベトナム戦争を強烈に想起させたという点だ。
僕自身はそのあたりについては全く詳しくないが、籠城戦&対ゲリラ戦、血みどろの描写、人でありながら人ならぬ敵、闇にまぎれて襲ってくる「モブ」としての集団(The mob has many heads but no brains.)、近代兵器による一斉掃討が可能であるが、完全な掃滅は不可能な点など、たしかに本作の恐怖は、(製作者が意図したしないにかかわらず)異郷の戦地で体験したベトコンの恐怖と大いに重なり合うものだったかもしれない。
ただ、本作のキモとなるのはやはり、「モダン・ゾンビ」の発明という偉業に他ならない。
これまでは「吸血鬼」という形で描かれてきた「パンデミック」の恐怖を、より「実体のあるモンスター」「即物的でリアルな怪物」として可視化し、表現し得たからこそ、『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』はクラシックたり得たのだし、その後のゾンビ映画の隆盛とジャンル化という現象を引き起こし得たわけだ。
本作の脚本家ジョン・A・ルッソが、リチャード・マシスン原作、ヴィンセント・プライス主演のホラー映画『地球最後の男』(64)(のちに『アイ・アム・レジェンド』としてもリメイク)を発想の霊感源としていたことはよく知られている事実だ。
そもそも『地球最後の男』自体が、今の視点から振り返れば広義のゾンビ映画に属する内容の作品だが、ルッソとロメロは、ここで描かれた「吸血鬼」に「カニバリズム」と「無知性」という属性を掛け合わせてみせた。
この「吸血鬼」×「カニバリズム」という独創的なカップリングの妙こそが、本作における最大の「発見」であることを、あらためて強調しておきたい。
もともと「吸血鬼」には、どこかロマンティックかつ貴族的で崇高なイメージがある(アン・ライスの『ヴァンパイア・レスタト』とか、萩尾望都の『ポーの一族』とか)。だから「襲われて眷属にされる」恐怖というのは、必ずしも真の恐怖とはいいがたい部分がある。彼らの眷属になれれば、ある種の「上位種」としての権力と権能を手に入れることができるからだ。吸血鬼の恐怖は、エロティックな憧憬と裏表の存在だ。
ところが、ロメロの創造した「グール」(ゾンビ)は違う。
人肉喰らいで無知性。しかも身体はボロボロのまま。……うーん、およそ、最悪だ(笑)。
明らかにゾンビは、人類の劣化型だ。徹底した即物化といってもいい。
人間の属性のうち、他者に対する攻撃性「だけ」が残存していて、あとは人としての尊厳のすべてがえげつなく剥奪されている。
なにより怖いのは、「無個性」ということだ。すなわち、ゾンビに噛まれて死んでしまったら、たとえ復活して歩き回っていても、彼らはただの「群れ」であり、「個」ではありえない。
「個」としてのアイデンティティを剥奪されて、なお「生なき生」を生きることを強いられる恐怖。
ああはなりたくない。惨めになりたくない。群れに飲み込まれたくない。
「吸血鬼」とちがって、「ゾンビ」には、憧れる要素が一切ない。
で、決め手が、「人が人を食らう」という人類最大の禁忌(タブー)。
こうしてロメロたちは、「人肉食」という要素を「吸血鬼」もののフォーマットに導入することで、同じ「伝染」「パンデミック」の恐怖を扱いながらも、「吸血鬼」のもつ貴族的な「特権性」を剥奪し、怪異を「大衆化」し、「即物化」することに成功したのだ。
のちに「ゾンビ映画」が一大ジャンル化して時代すら飲み込んでいったのも、まさにこの「怪異の大衆化」があったからだといっていいだろう。
で、改めて『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』を観て。
やはり、良く出来た映画だ。
単にホラーとしても十全の出来だし、閉鎖状況下での心理劇としても濃密な仕上がり。
襲撃、食人、伝染、身内のゾンビ化。
試される科学的説明。人間につるべ打ちされるゾンビ。
「ゾンビ映画」としての特徴と要件が、この第一作でほぼ「すべて」出揃っているのもすごい。
しょうじき、さんざん語り尽くされている映画であり、今さら僕が付け加えられることはあまりないのだが、一点、今回改めて観直して気づいたことを記しておく。
それは、フランク・ダラボン監督って、スティーヴン・キングの中編『ミスト』(80)を映画化するさい、間違いなくこの『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』を祖型にしたんだろうなってこと。
映画版の『ミスト』(07)は、びっくりするくらい『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』とよく似ている。
籠城戦。得体の知れない外敵。わからない対応策。
「立てこもるか」「脱出するか」で対立する生存者たち。
「家族」の存在がそれぞれの決断を歪ませる流れ。
何より、「ヒーロー」像の扱いがそっくりだ。
明らかに人を信頼させ牽引する「リーダー」タイプで、「静」か「動」かでいえば、間違いなく「動」のタイプ。常に動きながら、即断即決で随時状況に適応していこうとする。
映画版『ミスト』の主人公も、本作の主人公も、防御に頼って逃げ道を無くすことのデメリットを強調し、最終的には隠れ処から「脱出する」ことを決意し、周囲を説得し、煽動する。
集団のなかで彼の主張は一部の共感を集め、彼と行動を共にするフォロワーを発生させる。
両作が真に似ているのは、「そこから後」の展開である。
(ここから後は『ミスト』も含めて、完全なネタバレになるので、未見の方はお気を付けください)
結果論でいえば、一聴正しそうに思える両主人公の主張は、じつは「間違っている」のだ。
「もう少し待っていれば、破壊兵器を携えて怪異を討伐する力をもった公的な救援部隊が到着した。だから、勝手な行動をとらず、あとしばらく隠れ処(とくに安全な地下室)にこもって我慢していれば、みんな助かっていた」。実はこちらが、サバイバルとしては物語の「正解」なのだ。
両作とも、主人公に「唆されて」一緒に脱出したメンバーは、みんな「死んでしまう」。
『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』の場合は、残っていたメンバーも、主人公が脱出を企てた際に防御をゆるめた箇所をゾンビ軍団に突破されて、結局全滅してしまう。
そして、仲間を全員死なせてしまってから、「対ゾンビ騎兵隊」が登場し、彼らによって周辺のグールはすべて掃討されたことがわかる。で、主人公はその騎兵隊にグールの残存個体として、ゴミのように撃ち殺されるのである。
「正しく戦う」ことが、求めている勝利をもたらすとは限らない。
「怯えて何もしない」ことのほうが、正しいことだってあり得る。
両作品がもたらす「恐怖」の根幹には、この「まっとうな価値観が壊され、反転させられる」恐怖がある。
僕は、『ミスト』を封切りで観たとき、あえて原作から結末を大幅に変えていることに驚き、これって「主人公補正」でなんでも成功に導いちゃう「マッチョな白人アメリカン・ヒーロー」への強烈なアンチテーゼなんじゃないのかな、と思ったのだった。すなわち、『ダークナイト』(08)あたりと軌を一にする、ヒーローの無謬性に対する疑義の提起だ、と考えたわけだ。
だが、こうやって『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』を観てしまうと、単純に、この物語の展開をそのままキングの原作に持ち込んだら、『ミスト』映画版になりそうだな、と。
しかも、祖型となっている『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』の主人公は、マッチョ白人どころか、黒人青年である。
要するに、ストレートな『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』オマージュ(もしくは、キングによる原作中編『ミスト』の淵源がこの映画だということに気づいたダラボン監督の意思表明)ととらえたほうがいいのではないか。
うーん。ちょっと深読みしすぎていたのかも、俺。
とはいえ、「一見正しく思える行動派のヒーロー」が出てきて、観客も心情的にみんな、彼の味方につくのだけれど、彼が下す「究極の決断」が「作り手(神)による庇護」を受けることができずに、周囲まで巻き込んで破滅的なラストを引き起こす、という「後味の悪さ」と「正義の不確定性」が、両作に共通する「怖さ」であることは、疑いようのない事実だ。
真の恐怖に覆われた世界では、
もはやヒーローはヒーローとして生きることを許されないのだ。
本作の成功によって市民権を得た「ゾンビ」は、やがて21世紀の小説界、映画界、ドラマ界を席巻していくことになる。いかなロメロとて、そんな未来はさすがに想像だにしていなかっただろう。
月並な言い方だが、すべてはここから始まった。
そして、この映画には、今も観る価値が十分にある。
ゾンビ映画の全てが、最初からここにはつまっているからだ。
ゾンビ映画の始祖にして、最終兵器。
これは、そういう映画だ。