劇場公開日 1970年10月31日

「彫金師のたんばさんがいなくなったスラム街、それが21世紀の日本なのだ」どですかでん あき240さんの映画レビュー(感想・評価)

3.5彫金師のたんばさんがいなくなったスラム街、それが21世紀の日本なのだ

2020年2月19日
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鑑賞方法:DVD/BD

戦後すぐの焼け野原のバラックが舞台のようで、その実公開の1970年の現代であることはホームレスの子供が歩く夜の街頭光景ではっきりと明示される
高度成長期の繁栄は大阪万博で頂点を極めているときに黒澤監督はこれを撮ったのだ
戦後の復興を遂げ繁栄を極めた日本
しかし一皮向けばこのようなスラム街が残されている
どこに?
郊外のどこか?
違う
私達の心の中にあるのだ

六ちゃんは都電の運転手になりきって雨の日も休まず朝から夜まで乗務をしている
夢を持った発達の遅れた少年?
そうかも知れない
母がその現実を認めて向き合わす事が出来ないだけだ

浮気性の女房を持つ男は他人の子供と知りながら自分の子供として育てている
心の広い男?
真実を認めて現実を変える勇気を持たない男だ

土方の二組の夫婦はどちらも乱倫して平気だ
そんなことどうだっていいと考えている
二人の女房はどちらも男が稼いでくるなら誰だってよいのだ
二人の亭主も酔って帰って性欲を満たせるなら誰だってよいのだ

ホームレスの親子は空想の世界に遊ぶ
現実は関係ないのだ
空想の世界には立派な豪邸が計画中なのだから
子供が死んでも空想に生きるのだ

アル中の男は偉そうな口をきくだけで働きはしない
寝ずに働かせて衰弱した姪をレイブして平気な男だ
警察沙汰になりそうになったら屁理屈を並べて慌てて逃げるのだ

罪を犯した女と、精神を破壊される程にそれを許せない男
許せないのはそれ程までに愛しているからこそであるのだが、それを理解出来ない女
ならば精算するしかないのだが、女は木を見上げても行動には移れないのだ

傍若無人な妻を放置する島さんは、顔面神経痛を患うまで我慢しているだけで、妻を愛してはいないのだ
対決を恐れているだけだ

彫金師のたんばさんだけが、まともな大人だ
彼はいつまでこのスラム街にいるのだろう
彼がいなくなったらこの街はどのようになってしまうのだろうか
そんな不安におそわれる

これが1970年の一皮向いた日本の姿なのだ
見たくない現実の姿だ

ホームレスの親子は空想的平和主義で高尚な社会主義建設を目指すもの達

六ちゃんの見えない都電は、そこだけ共産主義を実践する村だ
あるいは日本の政権を担っているつもりで、空想的に政権運営をしている気でいる野党のことだ

他人の子を育てる男は、戦後日本の過ちを正せずにいる私達国民だ

土方の二組の夫婦は政権をたらい回しにしている与党の政治家だ
あるいは節操もなく合従連衡を行う政治家だ

アル中の男は偉そうな口だけは一人前だが、やってることはクズな野党の政治家だ

罪を犯した女と許せない男は、60年安保、70安保を許した日本の政治と世論と、憤懣やるかたなく悄然し凝り固まってしまった左翼の人々

顔面神経痛の島さんは、政府のやり方がおかしいと思っても黙って声を上げない私達国民だ

彫金師のたんばさんのような立派な人間もいないではない
しかし彼らはもう年配者となり退場しつつある

つまりすべてはこのような暗喩で構成されているのだ

見たくない現実を一皮剥ぎ取って見せているのだ
それは50年経った21世紀の日本も何も変わっていない

いや、彫金師のたんばさんがいなくなったスラム街、それが21世紀の日本なのだ
心の中に広がる荒涼したゴミ捨て場のスラム街
むしろ当時よりも広がってしまっているのだ

見たくない現実を映像で直視するというアイデアは、1974年の寺山修司監督の田園に死すの元ネタかも知れない

黒澤監督の初のカラー作品
カメラは1961年の用心棒以来タッグを組んでいる斎藤孝雄

夫婦交換する土方夫婦が黄色と赤で塗り分けされている
ご丁寧に服装、洗面器、タオルまでその色だ
ホームレスの親子の衰弱した青白い姿
犯されるかつ子のシーンは赤い造花に彼女が埋まっている
六ちゃんの空想の都電を描いた絵が、西洋の大教会の祭壇画のように四方の壁に貼りだされ、ステンドグラスのようにガラス窓に貼られて、色鮮やかな色彩を放つ、などなどとカラーを意識した撮影が見られる

しかし小津安二郎監督と厚田雄春カメラマンのタッグでのカラー作品への対応に比べると、カラーへの研究や工夫では、不足しているように思えてしまう

あき240
rindoさんのコメント
2022年2月8日

深い観点なのですね。感銘しました。

rindo